開け放した窓から涼しい風が吹きこみ、目にかかっていた細い金糸を揺らした。テーブルにかがみこむようにしてドリルと睨めっこをしていたサンジは呻き声をあげて後ろへ倒れた。
「あーもう!漢字なんてきらいだ!」
ずっと同じ姿勢でいたせいか、寝そべると体が伸びて気持ちがいい。宿題が出るとゾロと一緒にどちらかの部屋でするのがお決まりになってからずいぶん経つ。気づけばゾロは放課後さっさと帰ってしまい、剣道の稽古に明け暮れる日々を過ごしていた。なにかを振り払うように、一心不乱に没頭しているように思えた。
そんな幼なじみが宿題など気にかけるわけもなく、こうして自分の家に引っ張って来たのはいつ頃だったろう。ゾロをみれば用意したコーラを飲み干してしまって、氷をかじっている。
「終わった?」
「一応」
「ちょっと見せろ」
起き上がって広げてあるドリルを奪った。力強い角ばった字で答えがすべて埋められている。自分の筆圧の弱い細い字とは対照的に、まるで堂々と胸を張るようだ。普段どんな授業態度か知らないが、どうせ体育以外は寝ているに決まってる。それなのに、いつも漢字のドリルだけはすいすいとやってのけてしまう。
サンジは大体の科目をそつなくこなしたが、漢字だけは苦手だった。正直いうと、国語が好きではない。読み取り問題ならともかく、書き取りの時間は眠くもないのに寝てしまいたかった。
ゾロの答えを写し終えると、ようやく肩の荷がおりた。今日はこれだけだから早々にきりがついて良かった。
「つかれたー」
ベッドへダイブするとスプリングが効いて体が跳ねる。まだ空は明るい。きっと、今朝早起きして作った青梅の水まんじゅうの淡い鶯色が綺麗だと分かるだろう。上手にできて、朝から放課後を楽しみにしていた。冷蔵庫にいれっぱなしだから、冷えすぎてしまったかもしれない。温かい日本茶を淹れよう。
ベッドで横になっていたら少しうとうとしてきた。ゾロが憮然とこちらを見ている。せっかく遊びに来たのに放っているから怒ったのかもしれない。もとから無愛想だから、やっぱりなにも考えていないだけかもしれない。サンジは壁際につめて隣をぽんぽんと叩いた。のそりと立ち上がった幼なじみがベッドへ上がると、軋んだ音を立てる。枕を半分こにしたらおでこがくっついた。
「今日のおやつな、マリモン好きかな?」
眠くてほんわかした気分になる。ぼやけて見えるゾロの温もりが気持ちいい。ゾロの手がさらに眠気を誘うように優しく髪に触れた。
「多分、好きだ」
「すげえキレイなの」
思い出してくしゃりと笑うと、無愛想なゾロも笑ってくれたような気がした。二人で食べような、と言えたのかどうか、心配しながら夢にのまれた。
「ゾロ!」
大声で呼ぶ。ゆっくりと振り向いた彼に、これは夢だ、そう思った。幼なじみが大人のようになっていたからではない。その瞳が辛そうに歪められていたからだ。彼はいつも無表情で、嬉しいと少しだけはにかんだり、機嫌が悪いと口が山なりに閉じられたりするくらいだ。悲しかったり苦しいときは殊更何でもないかのように振る舞う彼があんな顔をするわけない。
「おまえ、本物じゃないんだろ!」
叫ぶように問いかける。離れているから、そうしないと聞こえないと思った。大人のゾロが胸を掴んで苦しそうに背中を折り曲げる。
夢だ。あんな顔、するわけない。あんな顔、見たくない。だから夢なのだとサンジは自分に言い聞かせる。気づくと自らの声のほか無音だった空間に、ドンッドンッと地面を力づくで殴るような音がする。汗が吹き出た。急かすように音の鳴る間隔が狭まっていく。
ゾロの白いシャツが掴んだ胸のあたりから赤く染まっていくのを茫然と眺めていた。次第に白いところはなくなり、足下の血溜まりを広げていく。腕がだらりと下に垂れた。幼なじみは膝が折れてスローモーションのように倒れた。
「ゾロ ────!!」
ゾロ!ゾロ!と必死に呼ぶ。上手く運べない足を叱咤して駆け寄る。ゾロの成長して、ぐったりとした体にすがりついた。血が果てしなく溢れでて、辺り一面、血の海になった。自分の手足も真っ赤にまみれ、サンジは半狂乱に陥った。そうこうするうちに赤いとろみのある液体にゾロが沈みはじめる。
「いやだ、ゾロ、ゾロ!やだよ、いやだああぁ……っ!」
頬にぴりっとした痛みを感じて目を開けた。心配そうに覗きこんでくるゾロに叩かれたのだとは分からなかった。血液が体じゅうを走り回り、鼓動がうるさく響く。サンジの呼吸も走った後のように息切れていた。
「サンジ、大丈夫か」
汗ばむ額をゾロの袖で拭われた。名前を呼べば、おう、と短い返事をする。見慣れた姿の幼なじみに悪夢から覚めたと知る。
笑わないといけない。きっと心配するから、なんでもないと首をふるんだ。けれども血の気が下がっているのか体が言うことを聞かない。
「怖い、夢…見た」
かろうじて、言葉が出た。そう、夢だ。現実とは関係ない。大人のようなゾロは偽者だ。目の前の彼が手をきつく握ってきて、その温かさがようやくサンジを落ち着けた。
「夢?」
「虫…毛虫が出てきて……おまえを何回も呼んだのに」
震えそうな声を飲み込んだ。こんな縁起の悪い内容をゾロには話せない。話してしまうと現実になりそうで、想像して身震いした。腕で視界をふさごうとしたら、かわりに温かい手のひらが置かれた。みっともなく震えていたサンジはおかげでその事に気づかずに済んだ。
吹き込んだ風が肌寒い。ゾロの手に手を重ねる。
「俺たち、ずっと一緒なんだよな」
何年か前、もっと幼い頃にした約束だ。ヨメにもらってやると言われ、頷いた。思えばあれはプロポーズだ。ゾロにはそんな気持ち少しもなかっただろう。サンジ自身もいまならそれが不可能だと知っている。だから本気で結婚しようとは思っていない。
だけれど、一緒にいるくらいはいいと思う。幼なじみで一番の親友とずっと一緒にいるくらい、結婚に比べれば些細なことだ。
ゾロはその約束を覚えているんだろうか。ずっと一緒だと答える彼の手を強く握る。まだ足りない。もやもやとする胸騒ぎが治まらない。
「どっかに行くなよ」
「行かねえ」
その一言に不安を無理やり頭から押し退けた。心配する必要はないんだ、ゾロは必ず約束を守る。あんな夢より目の前のゾロを信じる。サンジはそう自分に言い聞かせた。深呼吸をして、視界を覆っていた手をどかした。いつも通り、無愛想な幼なじみがいる。電気の点いていない部屋は夕焼けを浴びて色を変えている。起きあがると、ゾロの腹がなった。
「腹へった」
おなかを擦る彼にサンジはようやく笑みをこぼした。洋菓子より和菓子を好むゾロに早く水まんじゅうを食べてほしい。元気になって、幼なじみの手を引いて階下へと向かった。食べ終えたら、あの約束の話をしてみようと思った。