おいしい笑顔

 水際で、ルフィはじっと波の満ち引きを眺めている。
 もうずいぶんと長い時間、砂浜に腹這いに寝転がって、そうしている。
 ナミとロビンは、木陰でのんびりとバカンスを楽しんでいる。サンオイルを体に塗りたくって、二人はのんびりと日光浴の真っ最中だ。少し離れた砂浜で遊ぶウソップとチョッパー、それにフランキーの声が楽しそうに響いてくる。
 ゾロは、少し前に水平線の向こうに小さく見える岩のところまで軽く泳いでくるといって海に飛び込んだきりだ。戻ってくる気配もない。
 時折、ブルックがバイオリンを奏でている。
 潮風に乗って漂ってくるのは、魚の焼けるにおいと、フルーツの甘い香りだ。サンジが用意しているランチに出るのだろう。あとで肉も追加してもらおうと、ルフィはぼんやりと考える。
 微かに、腹が鳴るのを感じた。
 太陽の光が水面に反射して、キラキラと眩しい。
 焼け付くような太陽が、肌に心地よい。
 夏の島は、無意識のうちに眠けを誘う。
 太陽に焼かれながら、日光浴をする。
 うたた寝をしながらひんやりとした海水に指先を浸すと、体から力が抜けていくようだ。
 幸せだと思う。
 こんなにも海に近い位置で、大好きな海を眺めていられることを、幸せだと思わずにはいられない。
 キラキラと光る水面が揺れて、飛沫が顔にポツリと跳ねた。
 口元に笑みを浮かべてシシシと笑うと、悪戯な飛沫が今度は腕を濡らした。



 のんびりと夏島の雰囲気を楽しんだ仲間たちは、その夜、海へと戻っていった。
 昼の間、ログが溜まるまでにたっぷりとバカンスを楽しんだからだろうか、皆、上機嫌だった。
 サニー号の甲板で、ルフィは夜空を見上げる。
 たくさんの星たちが、キラキラと小さな光を放っている。
 船縁に打ち寄せてくる波が、チャプチャプと音を立てている。
 大きく口を開けて夜空を見つめていると、コツン、と頭を小突かれた。
「いてっ……」
 痛くはないのに、反射的にルフィは小さく呟いた。
「こら。そんな大きな目をしてると、今に目が落ちても知らねぇぞ」
 口を開けて空を見ているうちに、どうやら目も大きく見開いていたらしい。
 振り返ってルフィは、シシシ、と笑った。
 視線の先にいたのは、ゾロだ。片手に酒瓶を持って、もう片方の空いたほうの手は、指を腹巻きにひっかけて、眉間に皺を寄せてルフィを見おろしている。
「あ……」
 怒っているようにも思えたが、そうではないことにルフィはすぐに気付いた。
 これは、怒った時の表情ではない。この男は、自分の気持ちを隠そうとしているのだ。
「卵焼きのにおいがする」
 ポツリと口にすると、ギョッとしたように男は半歩ばかり後ずさった。
「キッチンに行ったら、少しくらいは残ってっかもしんねえぞ」
 そう言うとゾロは、そそくさと展望室へと足を向けた。



 キッチンと聞いて、ルフィの腹が思い出したように空腹を訴えてきた。
 腹に手をやり、取り残されたルフィは立ち上がった。
 穏やかな潮風に混じって、卵焼きのにおいが漂ってきている。
「サンジ、腹減った!」
 ドアを開け、キッチンに飛び込んだ。卵焼きのにおいとアルコールのにおい、それにバカンスを楽しんだ夏島で仕入れたばかりの果物の甘いかおりが漂っている。
「お、ナイスタイミング」
 ニヤリと笑ってサンジが、皿を掲げてみせた。
 サンドイッチとフルーツの盛り合わせの皿を手元の小さな昇降機で上の階へと送ってしまうと、残った皿をサンジはルフィのほうへちらつかせた。
「後でバーに持ってってやるから、今はこれだけだぞ」
 そう言ってサンジは分厚い肉の入ったカツサンドを選び出すと、ルフィの口に放り込んでやる。
 一口で飲み込んでしまうとルフィは、指をくわえてじっとサンドイッチを眺めた。
「これだけか?」
「これだけだ」
 きっぱりと、サンジは返した。
「もう一個……」
 惨めたらしくルフィが言うのに、サンジはムッとしつつも今度はBLTサンドを選び取って、口の中へまた放り込んでやる。それから、戻ってきた昇降機に他の皿と一緒に並べると、また上の階へと運ばせた。
「……もう、ねえのか?」
 哀れそうな声を出す船長をギロリと睨み付けたサンジは、後は上に行って皆と一緒に食べるよう、告げた。
「なんかおかしい」
 フン、フン、と鼻を鳴らして、ルフィはあたりのにおいを嗅いだ。
「ぜってー、おかしい。まだ何か残ってるはずだ」
 そう言うと、ルフィはキッチンの中にじっと視線を向けた。なにを探しているのか、ルフィ自身もわからないようだったが、何かがおかしいと彼の食欲が告げていた。食欲に対する本能のようなものが働いているのだろうか、真剣な眼差しでじっとキッチンの一点を睨み付けると、ヒュルンと腕を伸ばそうとする。
「おいおい」
 呆れたように呟くと、間一髪のところでサンジはルフィの首根っこを掴んだ。
「これはお前のじゃねえんだよ。お前は上で皆と一緒に食ってこい」
 怒鳴りつけるサンジの体から、卵焼きのにおいがふわん、と漂ってきた。



 ルフィのいなくなったキッチンはやけに静かだった。
 シンクの脇にひっそりと隠してあった皿を手に、サンジは足音を立てぬよう、甲板へ出る。
 展望室を仰ぎ見ると、暗闇の中で展望室の窓から灯りが洩れているのがはっきりとわかった。
 気配を消して、そっと船の中を移動した。展望室のドアを開けると、目の前に黙々とトレーニングをこなしている男がいた。
「よう。差し入れ持ってきたぜ」
 そう言ってサンジは、後ろ手にドアを閉める。
 甲板から見上げた展望室は明るかったが、実際に来てみると、そう明るくはなかった。適度に落とされた照明の下で、ゾロの裸の肩が動くたび、筋肉が隆起して汗の粒を滴らせた。
 汗くささよりも何よりも、男の体に目が釘付けになる。
 トレーニングを続けながら、ゾロは「悪いな」と返した。
 持ってきたサンドイッチとビールをサンジが広げているうちに、ゾロはトレーニングを切り上げた。手近なところに置いてあったタオルを取ると、頭からかぶって無造作にごしごしと汗を拭く。
「ほら。シャツ、替えとけよ」
 部屋の片隅に、汗拭き用のタオルと一緒に置いてあったシャツを出してきて、サンジが声をかける。
「ああ」
 返事をしながらもゾロは、上半身裸のまま、サンドイッチの物色を始めている。
「シャツ、着とけよ」
「後でな」
 苛々とサンジが言い募るのに、ゾロは顔を上げることもなく返した。節くれ立った手には、サンドイッチ。
 ムッとしてサンジが何か言いかけたところで、バタン、と勢いよくドアが開いた。
「ずりぃぞ、ゾロ!」
 ルフィがバタバタとトレーニングルームに駆け込んできた。
「そのサンドイッチは、俺ンだ!」
 ゾロが手にしたサンドイッチ目がけて、必死の形相でルフィは一直線に飛びかかっていく。
 ああ、とサンジが苦々しく呟いた。
 手にした分だけでもと、ゾロは慌ててサンドイッチを口の中に放り込んだ。



 咄嗟の判断で手にした一切れは口にしたものの、残りのサンドイッチは結局、万年欠食児童の船長の腹の中に飲み込まれてしまった。
 ちらりと視線を交わし合ったゾロとサンジは、仕方ないなというかのように微かに肩をすくめた。
「お前ら、俺に内緒でサンドイッチを食べようとしてたな」
 不満そうに口の先を尖らせて、ルフィがぽそりと言う。
「何言ってんだ。そっちこそ、ウソップたちと下でサンドイッチ食ってたんじゃなかったのか」
 すかさずゾロが言い返すと、ルフィはぷぅ、と頬を膨らませた。
「食ってたけど」
 上目遣いにゾロとサンジの二人をジロリと睨み上げ、ルフィはさらにフン、フン、と鼻を鳴らした。
「だってさ、ゾロから卵焼きのにおいがしてたんだ。それで、キッチンに行ったらサンジからも卵焼きのにおいがしてて……」
 それで? と、サンジは剣呑そうな眼差しをルフィに向けた。
「だから、卵焼きの入ったサンドイッチが食いたくなったんだ」
 確かに、たった今、ルフィが口にしたものの中には薄焼き卵を挟んだサンドイッチもあった。獣並の嗅覚だなと、サンジは思う。
 しかしこのサンドイッチは、二人で食べるつもりだったのだ。
 仲間には知らせずに、こっそり二人きりでサンジの誕生日を祝うつもりだった。ゾロとサンジの二人が付き合いだして初めて迎える誕生日だったから、誰にも邪魔をされたくなかったというのが本心でもある。
「なあ、下で皆で一緒に食べようぜ」
 上目遣いにルフィが強請る。
 この船のクルーは、まっすぐに見上げる少年の瞳に弱い。この瞳に見つめられると、どうにも心が揺らいでしまうというか、押し切られてしまうというか。
 しばらく黙っていたゾロだったが、ふう、と溜息を吐いた。
 すぐそばで見ていたサンジも同じように、深く息を吐き出した。
「仕方ないな。皆で一緒に食うとしようか」
 抑え気味の言葉を、サンジが吐き出した。
 二人きりで誕生日を祝うのは、皆が寝静まってからすればいいことだと割り切ったようだ。
「お前ら、下に降りるぞ」
 そう言うとサンジは、空っぽの皿を手にして、スタスタとキッチンへと向かった。
「おう! サンドイッチ、サンドイッチ!!」
 嬉しそうにはやしたてながら、ルフィが小躍りしてサンジの後に続く。
 サンジの後ろ姿を見て、それからまだトレーニングルームでもたもたしているゾロにシシシ、と意味深な笑みを向けたルフィは、楽しそうに下の階へと降りていく。
 その笑みがあまりにも嬉しそうだったから、ゾロは、もう一度溜息を吐き出して、それから口元をやんわりと歪めたのだった。



END
(H21.3.7)



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