『Tomorrow Morning』



「なあ……キス、したことあるか?」
  真夜中のラウンジで、翌朝の仕込みをしながらサンジが不意に尋ねてきた。
  コップ酒をぐい、と一息で煽り飲むと、ゾロは眉の間に皺を寄せる。
  したことがあると言えば、あるのかもしれない。
  脳裏に蘇ってくるのは、遠い日の記憶。
  まだ、ゾロが小さな子供だった頃のこと。幼馴染みのくいなと、キスをしたことがある。一瞬、唇と唇が触れるだけの軽いものだったが、あれをキスと呼ぶのならば、そうなのだろう。
  しかめっ面のままゾロが考え込んでいると、仕込みを終えたサンジが椅子に腰掛け、フーッ、と溜息を吐いた。
「実はさ、俺……キスしたこと、ないんだわ」
  十九にもなるのに、おかしいだろ? と、自嘲気味にサンジが告げる。
  色恋沙汰には疎いゾロには、どうでもいいことのように思われたが、サンジにはそうではないらしい。黙ってサンジを見ていると、やにわに彼は、ゾロのコップ酒を奪い取り、ぐい、と一気に飲み干した。
  ラブコックのくせにキスもまだとは、なんともうぶな奴だと、ゾロはそんなことを考えている。
「それでな」
  酒の勢いを借りてか、サンジはゾロをギッ、と睨み付け、言った。
「十代最後の花を咲かせてぇわけだよ、俺ァ」
  そう。明日、サンジは二十歳になる。十九歳と二十歳とでは、違うのだ。何がどう違うのかと問われても困るのだが、十代から二十代への過渡期には、ある種のノスタルジックな気分に浸ることがあるようだ。それは、子供だった頃の自分に別れを告げる儀式のようでもあった。
「ふぅん」
  気のなさそうなゾロの返事に、サンジはダン、と踵でテーブルを蹴りつけた。
「てめっ、人の話を聞いてんのか、このクソマリモ!」
  今にも喧嘩をふっかけてきそうな勢いに興醒めしつつ、ゾロはそろりと腰を浮かせた。酔っぱらいに付き合っていたら、せっかくの酒がまずくなってしまう。
「──キス、させろよ」
  サンジの唇が動き、風のような音が囁きとなってゾロの耳に流れ込んできた。



  くいなとのキスは、あれは、事故だった。
  そうとしか思えない。
  いつものように竹刀での打ち込みの後、たまたまゾロが足をもつれさせてこけてしまったことがある。よくあることだったし、そんなゾロにくいなが手をさしのべてくれることもまた、よくあることだった。
  その日も、息も絶え絶えになるほどの打ち込みの後、道場の床に寝そべったゾロの手をくいなが引っ張り上げようとした瞬間…──ぐい、とゾロがその手を強く引いた。
  悪気があってしたわけではない。たまたま、力が入ってしまったのだ。
  くいなはバランスを崩し、ゾロの腹の上に飛び込んでくるような形になってしまった。その瞬間、唇が、触れ合った。
  カツン、と歯と歯がぶつかり合う音までもが、克明にゾロの脳裏に蘇ってくる。
  もしかしたらそれまで、異性として意識したことはなかったのかもしれない。自分のことだというのにゾロには、あまりにも遠い昔のことになりすぎて、彼女のことをどんな風に思っていたのかも忘れつつあった。
  唯一、胸に残る思いは、志半ばに倒れた彼女のために、大剣豪になるのだという夢だけ。
  あれがちゃんとしたキスなのかどうかは、今となってはゾロにもわからない。
  その後、一人で各地を放浪するようになり、豊満な体つきの商売女と枕を共にする夜もあるにはあったが、キスだけはしたことがなかった。
  くいなとの思い出を失ってしまいそうで、恐くてできなかったのだ。
  それなのに目の前のこの男は、キスをしろと迫ってくる。
  椅子から立ち上がりかけたゾロは中腰のまま、固まってしまった。
「キス、させろ」
  よく見ると、サンジの目は据わっていた。やぶにらみにゾロを睨み付け、今にも獲物に飛びかからんとする猛獣のように身構えている。
  おもしれぇ……──フン、と鼻先で小さく笑い捨てると、ゾロは再び椅子に腰を下ろした。



  サンジの目をじっと見つめ、ゾロは言った。
「来いよ。キス、してやるから」
  サンジが思っていたよりもはるかに優しい低い声に促され、危なげな足取りでふらりと足を踏み出す。
  まさか、ゾロが承諾するとは思ってもいなかった。
  相手の出方次第では冗談にして終わりにしてしまうつもりだったサンジだが、アルコールのせいか、引くに引けなくなっていた。どうしても今、この場で、ゾロとキスをするのだと意固地になっていたこともあって、ゾロの言葉が夢のようだった。
  夢ではないのだろうかと、ゾロに一歩ずつ近付きながら、まだサンジは疑っている。
  好きだったのだ、ずっと。
  おそらくは、初めてバラティエで出会ってからずっと。
  好きで好きで、たまらなかった。
  真っ直ぐに射抜く鋭い眼差しと、掠れ気味の低い声が。
  ちょっとからかえばすぐに突っかかってくるところも好きだし、自分のためだけでなく仲間のために体を張るところも好きだ。単細胞かと思えば、どうやらそうでもなさそうなところが、何とも味があっていい。ごつごつとして節くれ立った手には剣蛸ができているが、それすらも愛しい。
  何もかもが、好きなのだ。
  グランドラインに入る前も、そして入ってからも、ずっとゾロのことが好きだ。
  いつ、言おう。いつ、告げようかと悩んでいた。冗談と思われても、酔っぱらいの戯言と思われても構わない。ゾロとキスできるのなら──そしてあわよくばその先の行為に及ぶことが出来たとしたら、もうそれだけでサンジには充分だった。
  ゾロの傍らに立ち尽くすと、ごつごつとした手がサンジのネクタイを軽く引いた。心持ちサンジが頭を傾けると、唇に軽く、ゾロの唇が触れた。
  それだけだった。



  ゾロは優しく笑っていた。
  淡い笑みは、夕空の向こうに沈んでいく太陽の残照にも似て、どこか寂しかった。
  物足りない。こんなキスでは、サンジは納得できない。
  子供が菓子を強請るように、サンジは口を尖らせて言い募った。
「もっと……もっとだ。もっとちゃんとキスしろ、クソッ……」
  そう言うと、ゾロの頭を両腕でしっかりと抱え込み自分から唇を落としていく。
  唇と唇とを合わせて、何度かキスを繰り返した。
  ゾロが抵抗しないのをいいことに、サンジは舌先でゾロの唇をつついてみた。うっすらと唇が開き、すかさずサンジはわずかな隙間から舌を潜り込ませた。あたたかかった。ざらりとしたゾロの舌に絡め取られ、唾液を吸われた。吸い上げられる瞬間の痛みの奥に、微かな快感があった。
  ゾロに触れられているという、快感。
  ゾロの頭を抱きなおし、サンジはキスを繰り返した。



  危うく一線を越えてしまうところだった。
  ゾロの手がサンジのシャツをはだけさせ、ベルトのバックルに指がかかったところでしかし、二人して唐突に我に返った。
「あ……」
  それまでは、キスより先の行為に進んでも構わないと思っていたサンジだったが、いざというところまできて、気持ちが竦んでしまったらしい。泣き出しそうな情けない顔をしてゾロの顔を見た途端、ゾロは溜息をひとつ吐いて口の端をにやりとつり上げた。
「満足したか?」
  こくん、と頷き、サンジは小さく息を吐いた。
  視線が宙を彷徨っているのは、目の前の男のことを急に意識し出したからだろうか。
「十代最後の花は咲いたか?」
  再びゾロが問うと、サンジはそれにもこくん、と頷いた。
  恥ずかしいのか、頬が上気していつもより幼く見えるのが微笑ましい。先ほどまでの強引なサンジも初めてだが、こんなにも頼りなげなサンジも初めてだ。日頃は見せないサンジの別の一面を垣間見たような気がして、ともすれば優越感に浸ってしまいそうになる。
「ハッピーバースデー、サンジ」
  密着していた身体をはなす勢いを借りてゾロは、サンジの尻をポン、と叩いた。






END
(H17.3.6)



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