思い出

  鍛刀を終えた冬湖は、鍛錬所を出てすぐのところにある一本の木に目を止めた。
  つるんとした細い幹は空へと向かって延びており、先端の枝葉には小さな緋色の花が鈴なりに咲いている。
  立ち止まって何の花だろうかと眺めていると、いつの間にやって来たのか小夜左文字がすぐそばに立って同じように花を見ていた。
「あんなところに花が咲いてるなんて思いもしなかったわ」
  どこかよそよそしい、だけどいつになく優しい声で冬湖は声をかけた。
  小夜はちらりと冬湖を見上げてくる。
「あれは百日紅。緋色の小さな花がいっぱい咲いているだろ? 幹が揺れると、花たちがまるでお喋りをしてるように見えるんだ」
  言い得て妙だと冬湖は思った。確かにあの小さな花の枝が風に揺れると、枝先がゆさゆさとなって葉擦れの音で騒がしい。
  普段は無口なようでいて、その実この子はいろんなことを知っていると冬湖は思った。内面と外面との差が大きいようだが、冬湖にはそんなことは関係のないことだ。小夜との会話が楽しければ、それで充分なのだから。
「百日紅……」
  中庭の隅にも確か、似たような花が咲いていた。もっともあれは白かったが。
「長い間花が咲き続けるから、百日紅って名前がついたらしいよ」
  そう言うと小夜は木の下に行って花をひと房、手に取る。ポキリと枝は折れて、小夜はそれを持って冬湖のそばに戻ってくる。
「はい、あげる」
  緋色の花を小夜に差し出され、冬湖はほっそりとした枝をつい受け取ってしまった。
  たわわに咲いた鮮やかな緋色の花たちをやんわりと揺らすと、サワサワと音がした。確かにお喋りをしてるように見えないでもない。
  冬湖は小夜のほうに向き直ると、口の端に微かな笑みを浮かべた。
「ありがとう、小夜。これは私の部屋に飾るわね」
  殺風景な部屋が、これで少しは華やいでくれるだろうか。ほとんど何もない部屋だから、実のところ寂しかったのだ。
  冬湖が花を手にいそいそと背を向けると、普段はあまり言葉を発しない小夜が声をかけてきた。
「冬湖は花が好きなの?」
  尋ねられるとは思っていなかったから、冬湖は咄嗟に言葉を返すことができなかった。押し黙って、眉間に小さな皺を寄せるとじっと手にした百日紅の花を見つめる。
「……わからない。けれど、この花は好きよ」
  小夜にもらった花だから、と冬湖はそう告げると、いそいそと部屋へと戻っていく。
  手の中の花は、冬湖が一足進むごとにサワサワと微かな音を立てる。
  小さな花は可愛らしいし、香りもそう強いわけではない。部屋に飾るにはうってつけだろう。
  長い廊下を歩いているうちにふと後ろからついてくる小さな足音に気付いた冬湖は、角を曲がる時にちらりと背後をうかがった。いつの間に取ってきたのか、花器を手にした小夜が、とことこと冬湖の後をついてきているようだった。
「……これ。冬湖の部屋には花瓶なんてなかったから、使って」
  そう言って小夜は、冬湖に声をかけてきた。
「いいの?」
  冬湖が尋ねると、小夜は小さく頷いた。
「蜂須賀さんに聞いたら、これを出してきてくれたんだ」
  小夜から受け取った竹製の一輪挿しには、既に水が張られていた。冬湖は竹の真ん中より少し上のあたりに空いた部分に百日紅の枝をそっと挿す。
「綺麗だね」
  小夜が呟く。
「……そうね」
  そう返したものの、綺麗かどうかは冬湖自身にはよくわからない。
  この波留の国で刀剣男士たちと出会うまでの冬湖は、自分の部屋に引きこもってただグズグズと外の世界を疎んじるばかりの生活をしてたから、世の中にはこんな花が存在しているのだということにすら気付いてもいなかったのだ。
  冬湖はちらりと小夜に視線を馳せると、「ありがとう」と声をかけた。
  小夜は少しはにかんだように微かに口元を緩めると、ぱっと踵を返して駆け出していってしまった。

          ※※※

  目を開けると、淀んだ空気の部屋に冬湖はいた。
  ああ、あれは夢だったのだと、忌々しそうに冬湖は溜息をつく。
  波留の本丸からこの布由の本丸へ連れてこられて以来、冬湖はずっとこんな閉塞的な空気の中で生活を送っている。
  自分が囚われの身となってしまったということは、すぐに理解できた。自ら望んで引きこもるのではなく、見張られ、誰かの手によって閉じ込められることの不便さを初めて冬湖は知った。
  日を数えるのは面倒だったから、自分がこの本丸に閉じ込められて何日が過ぎたのかは、わからない。
  叡拓という男の手によって囚われ、連れてこられたこの布由の本丸で、冬湖が異形のものを鍛刀させられることになったのは少し前のことだ。
  ただ、鍛刀のため──というか、異形のものを作り出すため──に、鍛錬所へ出入りする時にちらりと見える小さな空だけが、今の冬湖にとっては唯一の楽しみだった。
  ここには波留の本丸にあったような百日紅の木はなかったが、それでも空はあった。波留の本丸と同じような青い空は少し冷たく、いつも寒々しかったが、それでもこの空が波留の本丸まで続いているのではないかと思うとほんの少しだけ冬湖の気持ちは軽くなる。いや、もしかしたら繋がっているのではないかと思うことで、自分は一人ではないと思いたかったのかもしれない。
  冬湖はほぅ、と溜め息をつくと、何もない殺風景な部屋をぐるりと見回した。
  空気は淀み、特に目新しいものもなく、ただのろのろと時間だけが過ぎていく日々は吐き気がするほど憎たらしい。
  自分が望んで飛び込んだ環境ではないから尚更だ。
  格子の向こうの障子に手を伸ばすことができたとしても、その向こうには木戸が引かれており、部屋に光が射すことはない。
  閉じ込められた閉塞感はいつしか冬湖から感情を奪っていってしまった。
  多少のことでは動じることなく、冬湖は淡々と布由の本丸の動きに従うようになった。もちろん、叡拓に命じられた鍛刀だけはことごとく拒否した。
  異形のものを鍛刀するかたわらで冬湖は、叡拓に気付かれないように自分のための刀剣男士の鍛刀をしていたのだ。気付かれたのは、鍛刀の最中だった。いつもと異なる動作をしていることに気付いた叡拓が冬湖の手元の資材を取り上げ、異形のものの資材の中に混ぜ込んでしまったのだ。形を成す前だったとはいえ、ようやく揃えた資材をすべて取り上げられてしまったのだ。その上、冬湖は足を傷付けられてしまった。鍛練所内で勝手なことができないようにとのことらしい。
  それ以来、冬湖は鍛練所に出入りをする時にはどんな些細なことにも抵抗を示すようになった。やり過ぎなければ傷付けられることはないということを知ったからだ。
  閉じ込められた生活で溜まった鬱憤を晴らすかのように、みっともなく叫び、暴れるようになった。
  時折、こんのすけが心配そうにこちらをうかがっていることもわかっていたが、言葉を交わすことはなかった。冬湖のこんのすけは、波留の本丸にいるはずだ。だったら、この布由の本丸にいるこんのすけは、叡拓のこんのすけではないだろうかと思われた。だから、敢えて声をかけようとは思わなかったのだ。
  そんな生活が続くうちに冬湖は、隙を見て鍛刀をすることに成功した。
  一人きりの監禁生活の中で得たたった一人の刀剣男士はへしきり長谷部だった。波留の本丸にも冬湖の鍛刀した長谷部はいたが、今この場にいるのは布由の本丸で鍛刀された長谷部だ。練度をあげることはできないから、叡拓や異形のものたちに見つからないよう長谷部を部屋の奥に匿ったままで新たな生活が始まった。


  薄暗い部屋の単調な景色にも、冬湖はいつしか慣れてしまっていた。
  もうどうにでもなれと半ば自棄気味の生活を繰り返しているところにしかし、一筋の光がさしたのは偶然だろうか。
  ある夜、叡拓はお気に入りの異形のものたちを伴って本丸を留守にした。異形のものは皆似通った外見をしていたが、中には個々の判別のつく個体も存在していた。それらの個体は他の異形のものよりも多少は知能が高いようだった。叡拓はそういった知能の高い個体を集めて特別な部隊を編成していた。
  だが、それ以上のことは冬湖にもわからない。
  詳細を知ったのは、叡拓の留守に紛れてこの布由の本丸に浸入した小夜のおかげだった。
  夜の闇に紛れて小夜は布由の本丸に忍び込んできた。
  異形のものたちに気付かれないようにその存在を隠し、気配を押し殺し、波留の本丸にいた頃よりもずっと大人びた眼差しの少年となって、小夜は冬湖の前に現れた。
  夢ではないかと最初は疑った。閉じ込められた空間に居続けることで、とうとう幻覚を見るようになってしまったのではないか、と。あるいは叡拓の仕掛けた罠ではないかと、そんなふうに冬湖は疑ったがそうではなかった。
  小夜は、確かに自分が波留の本丸で鍛刀した刀だった。付喪神として顕現し、冬湖と共に波留の本丸でほんのわずかなひとときを過ごした、仲間だった。
  とは言うものの、新たに鍛刀し、自分の近侍として側に控えていた長谷部の存在はいくら小夜であろうと教えることはできなかった。
  長谷部は最後の切り札だ。自分がこの布由の本丸を立ち去る最後の最後まで、彼の存在を明らかにするつもりは冬湖にはなかった。今ここで長谷部の存在を知らしてしまったとして、この後に何が待ち受けているかは誰にもわからないのだから。
  だから冬湖は、小夜に自分が知り得る限りの情報を伝えると同時に、長谷部のことはまるっきりおくびにも出さなかった。
  そうすることが、長谷部を、ひいては自分自身をも守ることだと思ったからだ。
  別に、悪いことではないだろう。駆け引きなんてそんなものだろうし、何よりも自分の生命がかかっているのだ。切り札を残しておかない手はない。
  木戸の隙間から表を覗くと、頭上には青い空が広がっているのが感じられた。目の前には中庭が見える。ちょうど隙間から覗いた真正面に、木が植わっているのが見えた。つるんとした細い幹は、まっすぐに空へと向かって延びている。枝葉の先には、いつかどこかで目にした小さな緋色の蕾がポツポツとついている。
  百日紅だと、冬湖は不意に思った。
  懐かしい波留の本丸の景色がその刹那、脳裏に蘇ってくる。鮮やかな緋色。雲一つない空。竹製の一輪挿しを手にした小夜が駆けてくる。それらの景色が一斉に、冬湖の頭の中で目まぐるしく再生されては消えてく。
「──…ああ」
  思わず、冬湖は低く呻いていた。
  帰りたいのだ、自分は。
  あの波留の本丸へ。どこでもない、あの本丸へ帰りたくて仕方がない。
  小夜がいて、蜂須賀がいて、長谷部がいて。百日紅の花が咲いているあの季節へ、もう一度戻りたい。
  そんなことをとりとめなく考えていると、いつの間にか長谷部が冬湖のすぐそばにいた。
  彼は静かに尋ねてきた。
「どうかなさいましたか、主」
「長谷部……」
  帰りたい、と。ただ一言、波留の国に戻りたいと素直に口にできればいいのにと、冬湖は思った。
  だが、今はまだできない。その一言を口にすることさえ、憚られる状況だ。
  そっと息を吸い込むと、冬湖は唇をきり、と噛み締める。それからゆっくりと口を開いた。
「いつかあなたを、私の近侍にするわ」
  あの小さな緋色の花が鈴なりになった庭で、いつか。長谷部を近侍に、皆とゆっくりと言葉を交わしたい。
  その時には冬湖自身が鍛刀した刀剣男士たちと共に、穏やかな時間を過ごすことができることを信じて。



(2016.4.18)


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