暗がりの中にゆらりと真っ白な沈丁花の花が浮かび上がるのを目にした女審神者は、思わず息を飲んだ。
折悪く背後から「どうかしましたか、主君」と声がかかり、ヒッ、と喉の奥で声が上がる。
慌てたのと驚いたのとで足がもつれて、思わずその場でたたらを踏んでしまい、女審神者は小さく呻いた。ああ、またやってしまった。女審神者は胸の内で呟かざるを得なかった。
この本丸に着任してから毎日のように、刀剣たちにはみっともないところばかりを見せている。ことに近侍の前田藤四郎には、呆れるぐらい頻繁に情けない姿しか見せたことがないのでは、と不安になってくる状態だ。
「な……なんでも、ありません」
取り繕って女審神者はちらりと前田を見た。
幼い容姿ではあるが、前田藤四郎はしっかりしている。先の合戦では初陣にして部隊長を務めるという大役を立派に果たした。
初期刀として女審神者と共に最初からこの本丸にいる蜂須賀虎鉄が言うには、一見聞き分けがよさそうに見えて、なかなかに頑固なところがあるそうだ。
だが、女審神者はそんなところも含めて前田のことを好ましく思っている。
穏やかな笑みを浮かべて女審神者の言葉に耳を傾けてくれる、優しい少年。
こっそりと前田のほうへと視線を向けると、思ったとおり彼は慎ましやかに女審神者を見つめていた。
女審神者は居心地悪そうに咳払いをひとつすると、すう、と息を吸い込む。
「そんなに……」
そんなに熱心に見つめられたら、困ります。
そう、言いたかった。
無垢な瞳はいつもまっすぐで、キラキラと輝いている。前田としては控え目を心がけていても、言動のそこここからつい好奇心が溢れだしてしまうようだ。
それに、あまりにも長いあいだ見つめられていると、こちらが気恥ずかしくなってくる。もぞもぞと右足から左足へと重心を移したところで、目敏く前田は尋ねてきた。
「主君?」
小首を傾げてこちらを見上げる前田の瞳は、やはりまっすぐで、曇りない。
「沈丁花が……」
女審神者は目の前の植え込みを指差した。
闇に浮かぶ白い沈丁花が、すぐそこで慎ましやかに咲いている。
「甘い香りですね」
少しつんとした、深く甘い香りがあたりには漂っている。清楚なにおいだと女審神者は思う。
女審神者のいた時代にも、沈丁花は咲いていた。家の裏にある小さな庭に、白く愛らしい花をつけていたことを覚えている。
不意に女審神者は、帰りたいと思った。
懐かしい両親の元に。見慣れた景色に帰りたい。なんの変哲もないつもの日常に戻って、ありふれた朝を迎えたい。
震える吐息を女審神者がほろりと零すと、前田は健気な様子で女審神者を慰めた。
「大丈夫ですよ、主君。きっといつか、戦いは終わります。そうしたら……」
そうしたら、どうだと言うのだろう。
前田の澄んだ瞳を覗き込むと女審神者は眉間に微かな皺を寄せた。
彼女が審神者としてこの本丸にいるのは、時の政府から赤紙が届いたからだ。いつの時代にも政府は適正があろうがなかろうが、人々を戦いに駆り立てる。
女審神者もそうだ。特に秀でた技能があるわけでもない、ごくごく平凡な学生だった彼女にある朝赤紙が届けられ、あれよあれよという間に審神者に仕立てあげられてしまった。いわゆる徴兵というやつだ。だから自分は、この戦いが終わるまでは家に帰ることはできない。懐かしい元の時代には、もしかしたら二度と戻ることができないかもしれない。
女審神者はこっそりと溜め息をついた。
「……前田」
小さく名を呼ぶと、目の前の少年は静かに女審神者の顔を見た。
「はい」
素直な返事に、女審神者は胸のうちにある一切を封じ込めてにこりと笑いかける。
「冷え込んできたから、部屋へ戻りましょう。一緒にお茶でもどう?」
自分が政府の要求に応えて審神者になったから、家族は安穏とした生活を送ることができている。定期的に届くビデオメールで女審神者は、家族や友人たちの日常を事細かに知らされている。まるですぐそこに親しい人たちが存在して、自分と同じ空間てま生きているかのような錯覚を覚えることすらあるほどだ。
だから今ここで自分は、審神者を辞めることはできない。審神者という、有り体にいってしまえば人柱という名の犠牲の上に大切な人たちの日常がかかっているのだと思えばこそ、余計にその責任の重圧感に押し潰されそうなこともあるのだが。
とにかく、当分は元の時代には戻れそうにもないだろう。
闇の中で握りしめた拳にぎゅっと力を込めると、またふわりと沈丁花の香りが女審神者の鼻先を掠め去っていく。
後ろに続く前田をちらりと見やると、彼は生真面目そうな表情でまっすぐに前を見据えている。凛とした様子の少年からも沈丁花の花のかおりが漂ってきているように感じられる。
幼いなりをしてはいるが、彼は女審神者よりもずっと長い時を生きてきている。刀の姿で何十年、何百年と。人の姿になって日は浅くとも、これまで彼が見てきたものは、たかだか十何年程度生きてきただけの女審神者になど想像もつかないだろう。
「……戻りましょう」
ボソボソと告げると、長い長い廊下を女審神者は歩きだした。
彼女のすぐ後ろを、前田がついてくる。
少し居心地が悪いような気がして女審神者は、わずかに肩を竦めた。背後からじっとこちらの立ち居振舞いを見られているのだと思うと、知らず知らずのうちに心臓がドキドキしてくる。
「春のかおりがしますね、主君」
よく通る声で、背後の前田が話しかけてくる。
「そう…… ね」
確かに、と女審神者は頷いた。
春の夜の新芽や開き始めた蕾の匂い、少し肌寒いが透き通るような風のかおりが感じられる。 不意に女審神者はくるりと振り返ると、神妙な顔をして前田に告げた。
「お茶菓子があることは、皆には内緒よ?」
そう言ってにこりと笑った彼女の表情もまた、沈丁花を思わせる愛らしい笑みだった。
(2016.4.10)
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