初めての任地となる本丸で女審神者が最初に顕現させたのは、山姥切国広だった。
彼は襤褸布を頭からかぶり、審神者である彼女とは目を合わせようともしない変わり者に思えた。
それでも女審神者は、主としてこの本丸でやっていかなければならなかった。
政府と交わした雇用契約は、女審神者がこの本丸で三年間を刀剣男士たちと過ごすことをうたっていた。元は刀である彼らを刀剣男士として人の身に顕現させ、彼女は彼らと共に時の政府が敵と見なした者たちと戦わなければならなかった。
そんな孤独めいた生活の中でも山姥切の存在はひっそりと女審神者の心を支えてくれた。
彼の常に後ろ向きな態度には辟易させられはしたが、戦に関してはやはり山姥切の言葉に頼らざるを得ないことが多かったのだ。
戦についてはまったき素人の女審神者にできることなど、たいしてない。せいぜい刀剣男士の意見に耳を傾け、いかに少ない犠牲ですむかを考えながら敵と戦い、どこへともわからぬ先へ進軍させることしかできなかった。いいや、むしろそれこそが彼女に与えられた任務だった。
山姥切はほとんどの時は女審神者と共にあった。
彼は近侍として女審神者のそばに付き従い、意見をし、気紛れに一人になりたがった。
そんな彼の手に、彼女は一度だけ触れたことがある。
まだ足場の悪かった畑を見に行った折に足をくじいた時のことだ。
彼なりの優しさなのだろう、手を引いて女審神者を立ち上がらせてくれたのだ。着ていたものについた泥を払い、背におぶって彼女を本丸まで連れ帰ってやった。
あの時に触れた山姥切の手は、まるで氷のように冷たかったことを女審神者は覚えている。
態度や言葉にすることはなくても、女審神者を拒絶し、否定しているのではないかと不安になるような、それはそれは冷たい手をしていた。
もしかしたら彼は、人の身になど顕現したくはなかったのではないだろうか。
主たる女審神者が呼び寄せてしまったがために永い眠りから無理に目覚めさせられ、刀剣男士として戦わなければならなくなってしまったのだ。きっと、彼は女審神者のことを眠りを破った無知で無神経な女としか思っていないのではないだろうか。
好むと好まずに関わらず歴史修正主義者や検非違使たちとの戦いに引きずり出され、きっといい迷惑だと思っているはずだ。
そんなふうに拒絶されたままに山姥切に近侍を務めてもらうのも心苦しいが、今さら近侍を別の誰かに交代させるのも妙な気がして、女審神者はどうすることもできないでいる。
そもそも、このまま女審神者がこの本丸に居座り続けてもいいのかどうかさえ、怪しいところだ。
わたしはここにいてもいいのだろうかと、女審神者は物思いに耽ることがある。
女審神者として、この本丸の刀剣男士たちを率いていてもいいのだろうか、と。
御簾の向こうに見える山姥切国広は、微動だにせずにじっとその場に立ち尽くしている。山姥切のすらりと伸びた背を見ていると、ひと振りの刀がそこにあるかのように思えてくる。
声をかけたいのに、この孤高の刀ともっと私的に言葉を交わしたいのに、山姥切はちらとも主のほうを見てくれない。
山姥切国広、と声をかけるとこちらを向いてくれるものの、どことなく面倒臭そうな、なげやりな態度が滲み出ている。
女審神者は彼とただ言葉を交わしたいだけなのに、彼のほうにはその気はないらしい。
「俺に用か?」
用がないなら話しかけるなと言わんばかりの態度が、腹立たしく思えることもある。
ちらりとこちらを見ただけで、彼はまた女審神者から目を逸らした。
よそよそしい空気が重苦しくて、たまらない。
山姥切はさっさと会話を切り上げて一人きりの世界に浸りたそうな様子をしている。
女審神者はムッとして彼を小さく睨み付けた。
「遠征隊の帰りはいつになるの?」
尋ねると、ちらりと顔を覗き込まれた。そんなことも知らないのかと言わんばかりの冷たい眼差しに、彼女は小さく溜め息をつく。
どうして彼は、主である女審神者をこれほどまで毛嫌いするのだろう。
そうして、どうして彼女は、こんなにも彼のやることなすことにいちいち傷ついているのだろう。
彼は女審神者の胸の内に気付きもせずに、返してきた。
「第三部隊なら明日の夕方には戻るはずだ」
そんな素っ気ない言葉が、ひどく寂しく感じられる。
「……そう」
他に何と言えばよかっただろう。
平凡で何の取り柄もない女審神者には、気の利いた会話を続けることさえも難しく思われた。いつもこんな感じで、会話が続かない。これが歌仙や長谷部だったなら、もっと何か会話を続けてくれたのだろうと思うと、悲しくてならない。
彼女には、山姥切と親しく言葉を交わすだけの話術すらないのだ。
こんな自分の近侍をしているのも疲れるのではないだろうか。女審神者がちらりと山姥切へと視線を馳せると、彼は表情もなくじっと彼女を見つめていた。
「疲れているんじゃないのか」
そう尋ねられ、女審神者ははっと顔を上げた。
自身ではそんなつもりはなかったが、もしかしたら彼にはそんなふうに見えてしまっていたのかもしれない。
女審神者は首を横に振ると微かな笑みを口許に浮かべる。
「大丈夫です」
ここで彼に心配をかけてはならないと、女審神者は思った。
疲れて見えるのはおそらく、気持ちのせいだろう。山姥切と同じ空間を共有するのがこのところ、辛くてたまらない。決して彼のことを嫌っているわけではなかったが、緊張を強いられているような感じがしてならないのは何故だろう。
「そうか。なら、いい」
簡潔に告げると山姥切はまたふい、と視線を反らした。
女審神者は山姥切の視線から逃れるようにして、そっと顔を伏せた。
秋の長雨が終わると、屋外の空気が急に冷え込んでくる。庭の木々は紅葉し、虫たちの姿が次第に減っていく、そんな季節感さえもこの本丸は演出してくれる。
その一方で建物の設備は完璧だった。空調は常に一定に保たれ、春のように麗らかな気温が続いている。表に出ればもちろん寒さ暑さを感じることができたが、本丸の建物内で暑さ寒さを感じることはなかった。
女審神者は縁側に出ると、溜め息をつく。
あれ以来、いっそう山姥切国広のことが苦手になった。もう、近侍として側についていてもらうことすら苦痛にしか思えないほどだ。
交わす言葉は必要最低限のものだけになり、二人の間の会話は完全になくなってしまった。
こんなはずではなかったのにと、女審神者は思う。
こんなふうにつんけんするつもりはなかった。言葉を交わさず、目も合わさず、互いの存在に無関心を押し通すことの不快感といったら。時折、自分自身に対する憤りが込み上げてきては後悔の雨となって胸の内に苦い思いが降り注いだ。
山姥切に対する申し訳なさと、それでも尚、素直になれない天の邪鬼な自分に対する言いようのないモヤモヤとした気持ちでいっぱいで、日々の執務にすら身が入らないほどだ。
本当は、こんなふうに陰鬱な気持ちで日々を過ごしたくはないのに。本心では、山姥切ともっと自然に言葉を交わしたいのに。
近侍の交代は、ますます言い出しにくくなっている。
山姥切と顔を合わせることの気まずさも、以前にも増して大きくなってきていた。
いったいどうしたらいいのだろうと溜息をつくも答えが出ることはなく、憂鬱ばかりが募っていく。
このままでは、自分は山姥切を嫌いになってしまうかもしれない。
大切な自分の近侍が嫌で嫌でたまらなくなってしまうかもしれない。
そう思うと、自分がひどく醜い人間に思えてたまらない。
どうしたらいいかとふと顔を上げた先には、いつものように山姥切がいた。襤褸布を頭から被って、ほんの少しこちらへ体を向けて、女審神者の様子を全身で窺っているのが感じられる。
ああ──と、女審神者は小さく呻き声を上げた。
やはり彼のことを嫌いにはなれないだろう、自分は。
「山姥切国広……」
名前を呼ぶと、不躾な眼差しがこちらを見つめてくる。
「なんだ」
素っ気ない態度、冷たい物言い。
だけど、彼は主である女審神者のことをちゃんと見ている。無関心を装いながらもその実、彼女のことをちゃんと見ている。たった今、気付いてしまった。彼のこの素っ気ない態度は、自分を嫌ってのことではないということに。
「少し、庭を散歩しませんか」
声をかけると、彼は驚いたようにわずかに目を見開き、それから微かに頷いた。
さっさと庭に下りると山姥切は女審神者のために履物を揃え、手を差し伸べてきた。彼の首のあたりがほんのりと赤いのは、照れているからだろうか。
彼はぶっきらぼうに声をかけてきた。
「転ぶなよ」
差し伸べられた手に触れると、ひんやりとしていた。まるであの時と同じだと、女審神者は思った。
「相変わらず冷たいのね」
女審神者は小さく囁きかける。
山姥切は怪訝そうな顔をしていたが、女審神者は口元にうっすらと笑みを浮かべて、そ知らぬふりで庭へと下りた。
ひんやりとした手の冷たさが、今は妙に心地よく感じられる。
そっと振り返ると、山姥切の眼差しが優しく女審神者を見下ろしていた。いつもとは異なる眼差しに、少しドギマギする。
「そうよね。手が冷たい人は心が暖かいって言うものね」
自分に言い聞かせるように女審神者は呟くと、山姥切の手をぎゅっと握りしめた。
(2015.12.6)
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