すこしだけ

  合宿第一日目の夜は、昼間の練習疲れで誰もが心地よい疲労を感じていた。
  風呂上がりにストレッチをして体をほぐしていると、黒子の頭の中は真っ白になっていく。考え事をしていられるような余裕がなくなってしまうのは、今、自分のてのひらの下で前屈をしている男のせいだ。
  目の前の男の背中を押すたびに、ほどよくついた筋肉が自分の手の下で隆起するのが感じられる。まるで小さな子どものように体温は高く、がっしりとした体つきにも関わらず、背中を押すと体がしなやかに前へと屈むのは、見ていて惚れ惚れする。
  考えることは山とあったが、シャツ越しに感じる男の筋肉に、気持ちが乱されてしまい、うまくいかない。考えようと思えば思うほど、頭の中が混乱してしまう。逆もまたしかり、だ。
  声をかけられても、思うように言葉を返すことができない。
  それでも、自分はバスケ部の仲間と一緒にこの合宿に来ているのだと思うと、それだけで黒子はホッとするのだったが。
  それにしても自分はこの人が好きなんだなと、黒子は思う。
  シャツ越しに火神の肌を感じているのだと思うと、心臓がドキドキしてくる。苦しいような、切ないような、それでいてどこかしらほんのりと甘い、不思議な気持ちに包まれる自分がいる。
  こんなことにうつつを抜かしている場合ではないというのに。
  今、自分が本当にしなければならないのは、考えることだ。
  考えて、考えて、考えて……自分の感覚をもっと研ぎ澄まし、考えを纏めなければならない。足掻いているのは自分一人ではない。そんなことはわかっている。だからこそ焦燥感が募る。
  このままだと自分だけが置いていかれてしまいそうな感じがして、怖くてたまらない。
  皆、先へ、先へと行ってしまう。どんどん強くなっていく。
  自分には手の届かないところへ、行ってしまう……。
  そんなのは嫌だと思うものの、先へと進むためにはどうしなければならないのかが、今の自分にはまだ、わからない。
  わからないからもがいている。
  まるで、堂々巡りの輪の中に囚われてしまったようで、もどかしくてならない。
  一言、二言、火神と言葉を交わした後は、誰もが皆疲れていたのか、早々に寝入ってしまっていた。



  真夜中に、喉の渇きを感じて黒子は目を覚ました。
  微かに聞こえる鼾や寝返りの音の他は、静かなものだ。
  どうしたものかとぼんやり考えていると、隣で寝ていたはずの火神が不意にのそりと起きあがった。
  ううー、と低く掠れた声を出した火神は、部屋の隅に寄せた座卓にぶつからないようにしながらそっと縁側に出ていく。たいして大きくはないが、縁側の突き当たりには昔ながらの小型の冷蔵庫が置かれている。合宿の間中はこの中に、ミネラルウォーターやその他個人個人が持ち寄った飲料水等が納められている。
  火神が冷蔵庫のドアを開けると、一瞬、中の灯りが洩れてきた。すぐにお目当てのペットボトルを見つけたのか、火神は冷蔵庫のドアをさっと閉めた。それから縁側に置かれた椅子に腰を下ろす。ギシ、とスプリングの軋む音が、黒子の耳にも聞こえてくる。
  窓の向こうは暗かったが、人工的な灯りが少ない分、空が大きく広く見える。
  さっき、寝る前に見た時にも思ったが、溢れそうなほどの星が空に輝き、瞬いている。
  あれは、たった今、部屋でぐっすりと眠っているこの人たちと一緒にここへ来なければ見れなかった景色だと思うと、どこかしら感慨深い。
  ゆっくりと時間をかけてペットボトルの中身を飲み干した火神が、自分の布団へと戻ってくる。息をひそめてそっと布団に潜り込んだものの眠れないのか、何度も寝返りを打っている。
「眠れないんですか?」
  声をかけると、ヒッ、と上擦った声を火神は上げた。
「な…おまっ、起きて……」
「火神君がごそごそしているから、ボクも目が覚めてしまったんです」
  拗ねたように黒子は告げる。
「うっせ、ヒトのせいにすんな」
  声を抑えながらも火神が言い返してくる。
  楽しいと、黒子は純粋に思った。
  火神とこんなふうに何気ない会話を交わしていることが心地よく感じられる。自分は今、この状況を楽しいと思っている。火神と一緒にいられるのが嬉しくてならない。
「……さっさ寝ろよ。お前、体力ねーんだから」
「それは、そうですけど……」
  彼の言うことはもっともだが、もっと話をしていたいと黒子は思う。
  後ろ髪を引かれるような気持ちで真っ暗な天井を必死になって見上げていると、不意にガシッ、と頭を捕まれた。
「さっさと寝ろ」
  そう言うと彼は、黒子の髪をガシガシと乱す。
「わかってても無理に寝かし付けられると余計に眠れなくなりそうです」
  憮然として黒子が返すと、彼は低く喉の奥で笑った。
「じゃあ、手を繋いでてやるから、今度こそ本当にさっさと寝ろ」
  乱暴に言った彼の手が、黒子の手を探し当てたのはそれからすぐのことだ。大きな手がぎゅっ、と黒子の手を握りしめてくる。
  黒子の体温と火神の体温とが混ざり合って、じっとりと汗ばんでくる。それを不快に思わないことが不思議だった。他人の汗なんて不快でしかないのに黒子は、自分から彼の手をぎゅっと握り返している。汗ばんだ火神の手を、好ましく感じている。手を繋いでいることで、安心感が生まれる。   眠れそうな気が、する。
  目を閉じると、すぐに黒子の意識は遠退いていく。余計なことは何も考えない。考える必要もなく、黒子は寝入ってしまっていた。次に目を開けるとあたりはうっすらと白んでいた。手は、まだ繋いだままだ。気付かれないうちにと黒子は早々に手を離す。
  窓から差し込む朝日に、今日もまた暑くなりそうな気配が漂っている。
  また、一日が始まるのだ。



  繋いでいた手を離してからしばらくの間、黒子はぼんやりと火神の寝顔を見つめていた。
  起きるにはまだ早すぎて、だけどこの幸せをこっそりと堪能したくて、黒子はじっと火神の顔を見つめている。
  ひょろっとした体格の自分と比べると、羨ましいぐらいに火神の体は整っている。上背もあり、筋肉のつきかたも申し分のないこの男に、自分は惹かれている。最初はもしかしたら、憧れだったり嫉妬だったりしたかもしれないが、今は違う。
  好きなのだ、火神が。
  今、目の前で呑気に鼾なんてかきながら眠っている男のことが、好きで好きでしかたがない。
  夕べ、手を握られた時にはどうしようかと思うほど、心臓がドキドキして困った。ドクン、ドクン、と響く心臓の音があたりに聞こえてしまうのではないかと思うほどうるさかったのを覚えている。手を握ってもらったおかげだろうか、今朝は何だか頭がスッキリしている。あれこれ悩んでいたことの手がかりが少しだけ、見えてきたような気がする。
  それにしても、だ。まさかあんなふうにして手を繋いで眠ることになるとは思ってもいなかったから、喜んでいいのかどうかさえ、黒子には判断できなかった。
  目の前のこの男は、なんて幸せそうに眠っているのだろう。
  こんなふうに無邪気であどけない子どものような寝顔を見せつけられると、余計に心臓がドキドキしそうで、困る。
  裏表のない彼のことだから、自分の秘めたる気持ちを知ったなら、おそらく真面目に考えてくれるだろう。だから、この気持ちは黙っておこうと黒子は思う。気持ちを告げてしまうことで、火神の負担にはなりたくないとも思う。
  火神のマイナスになるようなことは、決してしたくはない。
  それがバスケのプレイに及ぶことなら、絶対に自分はこの気持ちを告げてはならないと黒子は強く思う。
  だから、見てるだけでいいのだ。
  火神にいちばん近いところから、彼のことをずっと見ていようと思う。
  言葉にしなくても彼ならきっと、黒子の気持ちに気付き、受け止めてくれることだろう。
  そう思うと余計に自らの気持ちを隠さなければと思うのだ。
  だけど、今くらいはいいだろう。
  皆が起き出す前のほんのひととき、火神を間近から見つめていたい。
  自分の素直な気持ちと向き合って、直接言葉にはしないが、「好きです」と囁いてみる。火神は、黒子のこの気持ちをちゃんと受け取ってくれただろうか? 口を半開きにしてガーガーと豪快に眠っているこの男が、どこまで黒子の気持ちをわかっているのか、気になるところでもある。
「まあ、期待はしてませんけど」
  小さく呟いて黒子はまた、目を閉じる。
  やはり起きるには少し早かったようだ。またしても眠気がこみ上げてきて、黒子はうつらうつらと二度寝の時間に突入していく。
  早朝の風は海からの潮風で、ひんやりと心地よかった。
  まだ、もう少し早いから大丈夫だろう。
  自分に言い聞かせるようにして黒子は口の中でポツリと言った。
  遠くから聞こえてくる波の音が、いっそう黒子の眠りを深くする。
「もう少し、だけ……」
  自ら呟いたのか、それともそんな気分になっていただけなのか。
  何にしても黒子は目を閉じ、二度寝を決め込んでしまった。
  次に目を覚ますともういい時間で、皆、そろそろ起き出す時間だった。
  黒子も同じように布団の中から起き出してくると、寝癖の髪が見られたものではない状態になっていることがなんとなく感じられる。
「すごい頭だな、それ」
  慰めるような木吉の声色にも、黒子は苦笑いを返すばかりだ。
「毎朝こんな感じです」
「毎朝?」
「はい」
「大変だな」
  木吉の言葉に「はあ」と気のない返事をした黒子は、洗顔の用意をして洗面スペースへと移動する。
  思った通り、今日も暑くなりそうだ。
  バスケの練習はきっと楽しいものになるだろう。
  そっと火神の隣に立つと黒子は、歯を磨き始めた。



(2012.9.20)


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