指先に願いを込めて

  指先に魔力を込めて、彼に触れる。
  直接触れることは躊躇われるから、彼が身に身につけているチュニック越しに、肩や背中、腕に触れる。
  好きだと、想いを込めて。
  この狂おしいまでに熱い気持ちは、指先から彼へと伝わるだろうか。伝わっているだろうか。
  夜の帳に守られた夢の中でしか、この気持ちを彼に伝えることはできないけれど、確かに自分は彼のことを好いている。純粋な好意の気持ちではなく、男女の恋愛感情で、自分は彼のことを好いている。
  男同士で何を馬鹿なことをと思うものの、この気持ちが間違いなくそういった、男が女に感じる気持ちと同等のものであることにシンドバッドはとうの昔に気付いている。
  女が駄目というわけではない。何人もの女たちを侍らせて、一夜限りの情を交わすことぐらいはいつだってしている。だが、それとは異なる想いが胸の奥底に息づいていることに気付いた時からシンドバッドは、自分のこの想いが報われないものだということを理解している。
  大っぴらに伝えるべきものではない。
  と、同時に、気付かれてはならない、想い。
  悪いことだとは思わない。自分の気持ちに真摯でいることを、後ろめたく思う必要もない。
  だが、告げてはならない。知られてもならない。
  もしかしたら彼は、シンドバッドの気持ちに気付いているかもしれない。
  それでもこの気持ちを隠し続けることには、意味がある。
  彼のことを思えばこそ、告げてはならないし知られてもならないのだ。
  だが、気を抜くとすぐに、彼に気持ちを伝えたくなってしまう。指先から、着ているものを通して少しでも、気持ちが伝わればいいと思う。
  自分のこの諦めの悪さを、彼が知ったらどう思うだろう。
  いつものようにあっさりと、一刀両断にバサリと切り捨てられてしまうだろうか、この気持ちごと。
  ──それならそれで、別にいいさ。
  と、シンドバッドはひとりごちる。
  気持ちを抑え、隠す必要はあったが、露見してしまうのであればそれでも構わないと思う。
  ただ、その時に彼がどう思い、どう行動するかがわからないだけに、不安でならない。
  互いの気持ちが同じだという確証は、ない。
  もしかしたら、と思うことは幾度かあったものの、いまだ確証するまでには至っていない。
  女たちと戯れる時はおおらかなシンドバッドだが、彼のこととなると途端、おどおどとした若造のようになってしまう。いい歳をした大人が、いったい何をもたもたしているのだと思わすにいられない。
  執務室の大窓の向こうには、鮮やかな青い空が広がっている。
  雨の日には固く閉ざされている鎧戸が今は大きく開け放たれていることで、島の空気とざわめきとが身近に感じられる。雲一つなく、海側から吹いてくる穏やかな風が時折、部屋の中の鬱屈した空気を攫っていってくれるのがありがたい。
  武術の鍛錬をしているのだろうか、中庭からは刃と刃のぶつかる金属音や、見物をしている者たちが思い思いにはやしたてる声が切れ切れに聞こえてくる。
  皆、楽しそうだ。
  それとも自分がこんなふうにくさくさした気分だから、そう思えるだけだろうか?
  はあぁ、と大きな溜息をつくとシンドバッドは、執務机の背後にある大窓から身を乗り出す。中庭を見おろすと、宮廷に仕える女たちが集まってかしましく言葉を交わしているのが見えた。誰もかれも、楽しそうだ。
  口うるさいジャーファルは、島内の視察に出ている。視察には自分も同行すればよかったと、シンドバッドは思った。執務室でおとなしくしているのは性に合わない。外へ出て、あちこちを見て回ってこそ自分らしさが生きてくる。
  窓の向こう、埠頭のある方角へと視線を向ける。
  執務室から埠頭のあたりが見えるはずがなかったが、ざわめきや人いきれ、潮のかおりなどを思い起こすことは容易だった。自分が今、そこにいられないことが残念でならない。
  生真面目なジャーファルのことだからきっと、港の隅々まで見て回るのだろう。そのまま周辺区域も見て回るつもりだと言っていたから、シンドバッドが少しぐらいサボったところで誰に見咎められるわけでもないだろう。
  近辺の地区というと、漁場だろうか。それとも……と考えて、シンドバッドは頭を横に振る。今はそんなことを考えている場合ではない。
  決裁箱に山のように積み上げられた紙の束を片付けなければならない。それも、ジャーファルが戻ってくるまでに、だ。
  あの生真面目で頭のお固い政務官殿は時々、こういった意地の悪いことをする。
  シンドバッドが王として執務室で真面目に仕事をこなさなければならない時間をわざわざこしらえているのだと面と向かって言われてしまえば、素直に従うしか他はない。
  本当は、ジャーファルと一緒に視察に出かけたかった。二人で同じ景色を見て、それぞれに感じたこと、思ったことを語り合いたかった。同じ時間を共有したかった。
  その気持ちが親愛の情からくるものだったのは、遠い昔のことだ。
  はあ、と溜息をつくと、シンドバッドはもう一度、中庭を見おろす。
  中庭ではやはり男たちが武術の稽古をしていた。その男たちを遠巻きに見ていた女たちが、窓辺に佇む王の姿に気付いたのか、色めき立った様子でこちらを伺っている。にこりと笑って手を振ってやると、キャーキャーと黄色い声を上げながら、それでも嬉しそうに手を振り返したり、投げキッスを送ったりと、それぞれに色目を使ってくる。。
  娘たちの愛らしさは純粋で健康的で、見ていて微笑ましい。刹那的な開放感と、王は全員のものという暗黙の了解のおかげで、この国にいる限りは妙な後腐れもない。彼女たちを見ていると、ホッとする。それなのに心が寂しいと感じるのは、シンドバッドが彼に対して密かな想いを秘めているからだ。胸の奥底に秘めた想いが燻っているからだ。
  苦しくて、ほんのりと甘いこの気持ちをもう何年もの間、シンドバッドは隠し続けてきた。
  自分はいったいどこの若造になってしまったのだと、自嘲気味にシンドバッドは思う。
  こんなみっともない姿は他の者には見せられない。特にジャーファルには、絶対に見せたくないと思う。
  好きで、好きで、好きすぎて、頭がおかしくなりそうだ。
  それに、想いを秘め続けるのも、そろそろ難しくなってきている。
  潮時なのかもしれない。この複雑な感情にけじめを付けて、しっかりと地に足を付けたほうが、もしかしたらいいのかもしれない。
  こんな鬱屈した気持ちのままでは仕事をする気にもなれない。シンドバッドは窓際から離れると、執務室を後にする。
  今、中庭に顔を見せたら女たちはいっそうかしましくなるだろうか。シンドバッドの気紛れは、武術の稽古の邪魔になるだろうか?
  そんなことを考えながらシンドバッドは、迷路のように広い王宮内を進んでいく。



  中庭に出ると、ちょうど男たちの武術の稽古が一段落ついたところだったらしい。
  思い思いの位置に腰を下ろして休憩をする者、互いに今習ったばかりのことを確かめ合う者と様々だ。そこへ女たちがよく冷えた飲み物や果物を持ってきて、賑やかなことこの上ない。
  楽しそうだなと思った途端、自分がここにいることが場違いなように思えてくる。姿を見られないうちにと、シンドバッドはくるりと踵を返す。
  さて、どこへ行こう。ジャーファルがいないから、どこで何をしようと口うるさく注意を受けることもない。いつも以上に自由に、好きなことができるのだと思うと、開放的な空気を感じる。
  王宮の薄暗く長い、迷路じみた回廊を渡り歩くうちに、いつしかシンドバッドは王宮の外へと足を向けていた。
  供を連れずに歩き回ると後で気付かれたらジャーファルにうるさく言われることはわかっていたが、今はどうしても一人でいたい気分だった。
  ふらりと足を伸ばして、街のほうへと向かってみる。
  一人でいることが妙に寂しく感じられるのはどうしてだろう。いつも側にいてうるさいくらいの彼がいないからだろうか。
  ああ……彼は今頃、何をしているのだろう。どうして自分も一緒に視察に出かけると言わなかったのだろうという、もう何度目になるかわからない後悔と共にシンドバッドは深い溜息をつく。
  一緒にいられるだけで構わない。側にいて、言葉を交わし、あの不思議とざらついた声を聞いていたい。心地よい響きの、穏やかなあの声で名前を呼ばれると嬉しくなる。怒った顔もいい。どんな表情をしていても、彼のことが好きだと思う。
  自分は……もういい歳をしたオジサンなのに、それなのに彼のことが気にかかってしかたがない。こんなふうに日がな一日彼のことばかりを考えて、いったいどうしようと言うのだろう。
  従順な部下でもある彼は、こんな自分の鬱屈した気持ちを知ったらどう思うだろう。
  気持ち悪いと思うだろうか? 男同士はご免だと言うかもしれないし、良き臣下でもある彼のことだから、自分が主としての命を下せば、或いは……。
  道行く人たちと笑顔を挨拶を交わしながら、シンドバッドは街を散策する。
  愛想笑いを浮かべて言葉を返しながらもその実、シンドバッドは何も見ていない。見ているのは、自らの妄想の中のジャーファルだ。
  今頃もしかしたら彼は、港のあたりを歩いているかもしれない。こちらが気付かないような些細なことにまで注意を払い、如才なく立ち回る彼のことだから、自分は安心して国政を任せていられる。ジャーファルが目端が利くのは、彼の生い立ちにも関係しているかもしれない。あの目で彼が、どんな景色を見ているのか知りたいとシンドバッドはずっと思っていた。今もまだ、彼が見ているものがどんな景色なのか、シンドバッドにはわからない。
  だが、ずっと一緒にいることで知った新しい一面ならたくさん知っている。
  これからも二人で、同じ景色を見続けることができるだろうか?
  彼は右を見て、自分は左を見て。或いは彼は前を見て、自分は後ろを見て……そうして時々は二人で同じ景色も見て、ひとつの景色を作り上げていくことができたなら、これ以上の幸せはないだろう。
  今までは、そうしてきた。
  これからも……そうしようと思えば、できないこともない。
  自分が胸の内を明かさない限りは、今のままの関係が続いていくはずだ。
  それが辛いとも思うし、嬉しいとも思う。
  このままの関係を続けていくのなら、もっと真摯に願うべきだろうか。
  いつまでも一緒にいられますようにと、願うのだ。
  指先に魔力を込めて、真摯に願う。
  そうすればきっと、いつまでも自分たちのこの関係は続いていくだろう。
  少し苦しくて、ほんのりと甘い、青臭い想いと共に。



(2012.9.15)


シンジャTOP