孤独な月

  ずっと、好きだった。
  この人と一緒に生きていきたい、ついて行きたいと思った時からジャーファルは、シンドバッドのことが好きだった。
  誰にも言えない自分一人の秘密だが、たぶん、出会った瞬間から何からの感情が働いていたことは間違いないとジャーファルは思う。
  逆らい、反抗し、反発し……あまりいい記憶ではなかったが、それでも彼の真摯で一途な面を知るようになるにつれ、少しずつ好意を抱き始めた。気持ちを寄り添わせるとはどういうことかを、学んでいった。
  この先、この人以上に自分を理解してくれる者など、現れはしないだろう。
  きっと彼は、自分の半歩どころか数歩前を常に歩き、時にはずっと先のほうまで行ってしまうかもしれないが、それでも自分たちの行く先はいつもどこかで重なっている。二人の道が分かたれることなど、決してありえない。考えられない。そんなふうにジャーファルは思ってもいる。
  それだけこの人のことを、大切に想っている。
  もうずっと以前、出会った時からずっと。
  いつの間にか自分のベッドに潜り込んでくるようになった男は、図体ばかりが成長した子どものように見えないでもない。
  窓際の桟に腰を下ろしたジャーファルは、ベッドの中で鼾を立てて眠る男の横顔をじっと見つめている。
  不意に、愛しいという想いがこみ上げてきて、思わず身じろいだ。
  ぐっと奥歯を噛み締め、気持ちが溢れ出さないように堪える。
  知られて困るようなものではなかったが、あまり公にできるものではないだろう。
  胸の奥をつつきまわすジクジクとした痛みを追い払うように、手をさっと一振りする。
  それから、部屋の反対側、書き物机のほうへとそっと移動すると、ランプに火を灯す。灯りが洩れてシンドバッドの眠りを妨げないようにしてから、放り出したままになっていた仕事に手を付け始める。
  夜は、まだ長い。
  シンドバッドが眠っているうちに、少しでも仕事を進めておきたい。彼のために、少しでも力になりたい。
  羊皮紙にペンを走らせると、カリカリと微かな音がした。それから、インクのにおいが。
  ジャーファルはすぐにシンドバッドが眠っていることなど忘れて、仕事に没頭していった。



  いつの間にか、書き物をしたまま眠っていたらしい。
  気が付くとランプの灯りは尽きていた。シンドバッドは相変わらず、夢の中だ。
  ジャーファルは硬くなった首の凝りをほぐすように肩を軽く回した。
  窓の外には、白い月が出ている。
  そっと机から離れると、窓際の桟に手をかけ、月を見る。
  白い月、黄色い月、オレンジの月、青い月、そして赤い月。いろいろな月の顔をジャーファルは知っているが、どの表情も好きだ。まるでシンドバッドのようだと思わずにはいられない。
  周囲に星々が輝いている空にあって、ぽつねんと夜を照らす、月。
  夜道を照らし、時に明け方の空の隅っこで恋人たちの寝顔を優しく撫でる月は、孤独に見える。
  星々に混ざることのできない、月。
  異質な存在として生きていくシンドバッドを彷彿とさせる月が、ジャーファルにはとても愛しい存在のように思えてならない。
  ぴたりとそばに寄り添うことは、もしかしたらできないかもしれない。だけど、できうる限り近くにいて、彼が寂しくないようにすることぐらいなら、自分にもできるだろう。
  月を見ているうちに、空気がひんやりとしてきたようだ。
  小さく身震いをしたジャーファルは、窓辺から離れた。足音を立てぬようベッドへと近付いていく。
  シンドバッドが眠っていてすら、ベッドは広く見えた。シンドバッドの隣にジャーファルが横たわっても、まだ余裕がある。こんな大きなものは必要ないと言い張ったのはジャーファルだが、そのうちに慣れるとシンドバッドに押し切られた日のことを覚えている。
  確かに、このベッドの硬さや広さには、もうすっかり馴染んでしまった。シンドバッドがベッドに潜り込んでくるのと同じように、当たり前のことのようになってしまったのはいつ頃からだろう。
  シンドバッドを起こさないようにジャーファルは、そっとベッドに入る。
  左側だけがあたたかいのは、すぐそこにシンドバッドが眠っているからだ。
「そのままだと体が冷えますよ」
  声をかけるついでにシンドバッドの肩口まで布団を引き上げてから、自分も同じように夜具にくるまる。肌寒いと思ったのは気のせいだったのか、体の左側はほんわかとあたたかだ。
「……おやすみなさい、シン」
  呟いて、ジャーファルは目を閉じる。
  彼のぬくもりを感じるだけで、何故だか安心することができる。
  左肩に感じるあたたかさが嬉しかった。



  目がさめたのは、体にかかる妙な重みのせいだ。
  何か、とてつもなく大きな獣にのしかかられているような気がしてジャーファルは、そっと目を開ける。
  目を閉じてから、ほんの半時ほどしか過ぎていないような気がする。
  窓辺から差し込む月の光が、部屋の中を思ったよりも明るく照らしてくれていた。
「シン……何をしてるのですか?」
  隣で眠っていたはずのシンドバッドが、ジャーファルの上に乗り上げていた。
  全身で押さえ込まれ、ジャーファルは身動きできない状態にされてしまっている。いつものシンドバッドのお遊びか、それとも寝る前の酒が過ぎたか……。
「退いてください」
  やんわりと、諌めるように男の体を押し返す。体格の差から、力では敵わないことはわかっている。また押し返す。胸のあたりに手を付いて、ぐいぐいと押す。そうするとシンドバッドは余計に体重をかけてのしかかってくる。
「勘違いしないでください、シン」
  ぐい、と押し返した途端、さらに体重をかけられ、押し潰されそうになった。
「うわっ……!」
  両手でぐいぐいと押しやるのに、それでものしかかってくるのは、紛れもなくジャーファルの王だ。
「こら、この酔っ払いが!」
  腕だけでなく足も使ってじたばたと暴れていると、ようやくシンドバッドの動きが止まった。
  ホッとして胸を押し返していた腕から力を抜いた拍子に、本格的に力をかけられた。
  どう、と男に押さえ込まれ、体が密着する。書き物机に向かっている時から漂っていたきつい酒のにおいと、そこに微かに混ざるシンドバッドの汗のにおい。ジャーファルが仕事と称して机に向かっている間に、シンドバッドが一口、二口と酒を飲んでいたのは知っている。そう大量に飲んでいるようには見えなかったから油断していたが、かなり強い酒だったようだ。
「まったく……仕方のない人ですね」
  呆れたように呟くとジャーファルは、男の体に腕を回した。



  男の背中を抱きしめると、ますます密着度が増す。酒のにおいはきつかったが、不快なほどではない。まるで図体の大きな子どもを抱きしめているようだなとジャーファルは思った。
  酔って、男である自分にしがみついてくるだなんて、随分と酒癖の悪い男だ。
  だが、嫌ではない。
  こんなふうに抱きつかれるのも、部屋に忍び込んで来られるのも、いつの間にか気にならなくなっていた。
  好きだから──だと、思う。
  自分の想いを閉じ込めたままでもいいら、今だけはこの男を抱きしめていたい。
  きっと、朝になったら驚くだろう。酔いが醒めてみれば、女と思い込んでシンドバッドが抱きしめていたのは、彼の臣下で政務官のジャーファルだったと気付いたなら、どんなにか驚くだろう。その時の顔が見ものだ。
「シン……」
  好きです、と。唇の形だけで小さく呟いてみる。
  それで充分ジャーファルは幸せだと思った。
  自分の気持ちなど、閉じ込めてしまえばいいだけのことだ。
  一国の王たる者がこれから大事を成そうとしているのだから、臣下である自分の気持ちなど構ってもらっている場合ではない。
  シンドバッドを抱きしめたまま窓のほうへと視線をやると、その向こうの空に月が見えた。
  窓辺から見ていた時には遮るものもなく明るく輝いていた月に、今はうっすらと雲がかかり始めている。
  寂しいなとも、ジャーファルは思った。
  自分の気持ちを伝えられないこと、この先も隠したままでいなければならないことが、辛い、とも。
  だから男を抱きしめる腕に少しだけ力を込めて、その髪に唇を寄せる。
  これがジャーファルの精一杯の気持ちの表し方だ。決して伝えることのない気持ちの、昇華の仕方だ。
  月を眺めているうちにジャーファルは、ゆっくりと目を閉じた。
  眠ろう。今日はもう、あれこれ考えるのはよそう。明日からはまた、いつもの自分に戻って、シンドバッドと共に国を盛り立てていけばいい。
「おやすみなさい、シン」
  今度こそ、本当に──そう呟いてシンドバッドの頭に頬を寄せたジャーファルは、再びゆっくりと眠りに落ちていったのだった。



(2012.11.30)


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