一面カレー色になったキッチンを呆けたように見つめながらボタンは、ずるずると床の上に座り込んでしまった。
明日はバレンタインだから、好きな相手にチョコレートを贈る日だから、頑張ってソトバに手作りチョコを作ろうと思ったのに、失敗してしまった。しかもこれはチョコではなく、カレーだと、通りすがりの青年に言われてしまった。
今まで自分がしていたことが無駄だったのだと思うと、あまりにもショックが大きくてボタンは指一本動かすことすら苦しくて、ただただため息をつくことしかできないでいる。
「ソトバ……」
皇帝である父に頼み込み、異国の地に一人暮らしができる部屋を借りてもらった。
少しずついろんなことができるようになり、ようやく一人暮らしの楽しさを実感できるようになってきたところだった。
目尻にじわりと涙が浮かんできて、ボタンは慌てて手の甲でごしごしと目元を擦った。
ソトバが来るまでに、まだ時間がある。それまでにこの惨状を何とか元通りにして、もう一度はじめからチョコレートを作り直して……と、そこまで考えてボタンは、自分の手元にあるのがチョコレートではないということに気が付いた。
これはカレーだと、さっき屋敷の前を通りがかった青年が言っていた。
でも、ボタンにしてみればチョコレートの形をしているように思うのだが、どう違うのだろう。スパイシーなにおいだとあの青年は言っていた。それに、言われてみれば少し黄色っぽい色をしているかもしれない。
「誰か……チョコレートを買ってきなさい」
皇居にいる時にはもっとはっきりとした声が出るのに、今のボタンは弱々しい声しか出てこない。
「誰か……ソトバ……」
ボソボソと口の中で呟いて、ボタンはのろのろと手を動かす。
とりあえず、立ち上がらなければ。
ここには誰もいない。この屋敷で一人暮らしをするにあたって、皇居にいた時にボタンにかしずいていた者たちを連れていってはならないと、父である皇帝からきつく言い渡されている。
我儘を言っていわば出奔するようなものだから、自分一人で生活してみなさいと、そんなふうに父からは言い渡されている。
だから、いくらボタンが癇癪を起しても誰も様子を見に来る者はいないのだ。
がっくりと肩を落としたままボタンは、時間も忘れてその場で放心していた。
パタン、とドアの開閉する音がした。
足音がするから、誰か……きっとソトバがやってきたのだろう。
「ボタン様……うわっ!」
キッチンを覗き込むなりソトバは声を上げた。
「ソトバぁ……」
ぐず、と鼻を啜るとボタンはカレー粉まみれの姿のまま立ち上がり、ソトバのほうへと駆け寄ろうとする。
「ちょっと待ってください、ボタン様。いったい何があったんですか」
聡いソトバのことだから、この惨状を目にしただけでだいたいのことは理解しているのではないかと思われたが、ボタンは掠れる声で事情を説明しだした。
手作りのチョコレートを作ろうと思い立って、板チョコなるものを用意したこと。その用意した板チョコが、どこでどう間違ったのかカレーのルーだったこと。それから、チョコだと思っていたものを鍋に入れたらいきなり鍋が爆発したこと……などなど。
そんなことをポツリポツリとボタンが語るのを、ソトバはときどき相槌をうちながら聞いてくれた。
「わ、私は……ソトバにチョコを贈ろうと思っていたのだ……」
すん、と鼻を鳴らすボタンに、ソトバが優しく微笑みかけてくる。
「そのお気持ちだけで俺は嬉しいですよ、ボタン様」
ボタンの手を取ったソトバに、シャワーを浴びてくるようにと言われた。その間にキッチンを片付けておくからと、そんなふうに優しく諭されればさすがのボタンも癇癪を起こすに起こせない。
「うむ、わかった」
いつになく殊勝な態度で頷いたボタンは、シャワーを浴びるためにキッチンを出ていった。
スパイシーな香りを落とし、シャワーを浴びてすっきりした。
浅葱色の長袍を身に着けてキッチンへ戻ると、元通りの綺麗なキッチンが目の前には広がっている。
「ソトバ、私のために片付けてくれたのだな」
思わず駆け寄るとボタンは、ソトバの腕にしがみついた。
「あのままではスパイシーな香りと色が染みついてしまいますからね」
何でもないことのようにさらりと告げるとソトバは、ボタンを椅子に座らせた。
「ボタン様がシャワーを浴びている間に、すぐそこの店でチョコレートを買ってきました」
バレンタインだからたくさん売ってましたよと、ソトバは楽しそうに話してくれる。
「それで、ボタン様にも作れるチョコレートのレシピを聞いてきたので、よかったら一緒に作りませんか? ホットチョコなら初心者でも短観に作れますよ」
にこりと優しく微笑まれると、ボタンは何も返すことができなくなってしまう。
ほんのりと頬を赤らめて、ボタンは小さく頷いた。
チョコを贈りたかったのは事実だが、失敗してしまったのだから仕方がない。かわりにソトバがチョコを調達してきてくれたというのなら、そして一緒に作ろうと言ってくれるのなら、是非とも二人でキッチンに立ちたいとボタンは思った。
「わ、私と……一緒に?」
驚いてソトバの顔を、覗き込むと、彼は楽しそうに頷いてくる。
「さあ、エプロンをつけてください、ボタン様。今度は俺がついているから、失敗なんてさせやしませんからね」
ソトバのその言葉だけでも充分に心強いと、ボタンは思う。
一人暮らしで寂しいことも多かったが、こんなふうにソトバがこまめに顔を見せてはボタンを気遣ってくれる。心強くもあるし、嬉しくもある。
「なんだか新婚さんみたいですね、ボタン様のエプロン姿って」
冗談交じりにソトバがポロリと洩らした瞬間、ボタンは手にしたチョコレートを危うく取り落としそうになる。
「し……新、婚……そんな、新婚だなんて……」
一気にボタンの顔が真っ赤になって、思考力が低下する。ソトバの姿だけしか、目に入ってこない。
「ほら、ホットチョコ作るんでしょう、ボタン様」
隣に立って鍋にミルクを沸かすソトバの姿が、頼もしく思える。ごつごつとしたソトバの指が、二人で細かく砕いたチョコを温めたミルクの中に落としていく。
「さ、ボタン様。ゆっくりと掻き混ぜてください」
レードルを渡され、ボタンはおっかなびっくり鍋の中身を掻き混ぜていく。
そっと、自然な動きでソトバの手が、レードルの柄を持つボタンの手に重なる。
「完成したら、二人でいただきましょうね」
低い声が耳元でして、ボタンは狼狽えながらも頷いた。
(2015.2.15)
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