あたりに人の気配はなかった。
ソトバは足を忍ばせ、気配を殺し、そっと部屋から抜け出そうとする。
今なら大丈夫だ。師兄のタケミチは買い物に行った。他の弟子たちは、師兄から言いつかった修練の真っ最中だ。
今なら、抜け出すことも難しくはないだろう。
そーっと、そーっと。微塵も物音を立てないように気を付けて部屋の戸を開けると、中庭へ出る。修練中の弟子たちは、屋敷を挟んで中庭と反対の位置にある修練場に集まっているはずだ。見付かるはずがない。
ニヤリと口元に笑みを浮かべてそろそろと門扉のほうへと向かい始めたソトバに向かって、不意に声がかかった。
「ソトバ、何をしているのだ?」
あっけらかんとしたボタンの声に、ソトバは何もない場所だというのにつまづきそうになる。一歩、二歩、とよろけてたたらを踏むと、顔を上げて声のしたほうへと視線を向けた。
「ボタン様……どうしてここへ?」
今日はボタンは、ここへは来ないと言っていたはずではなかったのかと、ソトバは頭の中で忙しく考え始める。
祭事の関係で明日は忙しいだろうからソトバとは会えないと、昨日、別れ際にボタンはそう言っていたはずだ。
怪訝そうにちらりとボタンを見ると、楽しそうに微笑み返してくる。
「用事は朝一番にすましてきたのだ」
自信満々に胸を張ってボタンは答える。
「どうしてもソトバに会いたかったから、急いで皇居を抜け出してきた」
「抜っ……」
また黙って飛び出してきたのかとソトバは険しい顔付きになる。
第三皇子であるボタンは、皇居での生活に嫌気が差してお忍びで街へとやってくることが頻繁にあった。ソトバと出会った時のボタンもそうだ。皇帝である父に勝手に結婚話を進められそうになり、黙って皇居を飛び出してきたところだった。雑多な世間のことを知らされずに育てられた皇子に対して同情を禁じ得ない部分も多々あるが、だからといってこう連日ソトバのところに通ってこられても、困るのだ。
ソトバにだって、いろいろと都合がある。
隣街のお嬢さんとお茶をしたり、茶店のお姉さんとちょっとそこまで花を見に行ったり、そんなことを密かに目論んでいたソトバの予定は、このところボタンに振り回されるばかりの日々になりつつある。 「第三皇子がこんなにふらふらしていていいのですか、ボタン様」
溜息交じりにソトバが尋ねると、ボタンはニヤリと笑った。
「何を言う。ソトバだって抜け出そうとしているところだったのではないか?」
図星だった。困ったように顔をしかめてソトバがどう返そうかと頭の中でああでもない、こうでもないと考えていると、屋敷の裏手からタケミチがやってきた。
「こら、ソトバ。どこにもいないと思ったら、また修練をサボって抜け出そうとしていたな」
張りのある声で一喝されると、さすがのソトバも反射的に腹の底がきゅっとなる。普段は温厚な師兄が本気で怒ると、どれほど怖いかをソトバは知っている。だからこそのこの反応だった。
「たまには真面目に修練することだな、ソトバ」
そう言ってタケミチはソトバの腕を乱暴に掴みあげた。
嫌がるソトバを強引に引きずって、タケミチは修練場へと戻ろうとする。
慌ててボタンが止めに入ろうとした。
「まて、タケミチ。ソトバは嫌がっているではないか」
こういう時のボタンの物言いは、なかなか凛々しい響きをしている。
やはり生まれながらにして皇子だからだろうか。
「ですがね、ボタン様。ボタン様に何かあった時にこいつがボタン様をお守りできなければ困るのではありませんか?」
振り返ると、タケミチは言った。
真顔でタケミチに返され、ボタンは一瞬、眉間に皺を寄せる。
「……確かに、それは困るな」
ソトバの元に通うようになったボタンは、男同士で婚姻関係を結ぶことはできないということを初めて知った。それでもいまだソトバに懐いてくるのは、少なからず好意を寄せているからではないだろうか。
「ソトバ、修練に行ってくるのだ。私のために」
くるりと振り返るとボタンは、ソトバに言い放った。
「タケミチ、しっかりソトバに修行をつけるのだぞ。ソトバには将来、私を守ってもらわなければならないのだからな」
ボタンの言葉に、タケミチはくくっ、と忍び笑いを洩らした。
少し前にタケミチと交わした会話がソトバの頭の中に蘇ってくる。
ボタンの境遇を思うと頻繁に皇居を抜け出そうとしたくなる気持ちもわからないでもなかったが、それにしてもこんなふうに懐かれるとは思ってもいなかった。
「承知しました、ボタン様」
タケミチは恭しくボタンに頭を下げると、ソトバの腕を掴んだまま修練場へ戻ろうと踵を返す。
「わ、ちょっと待ってください、師兄」
修練は嫌だ。しかしボタンと一緒に出かけるのも嫌だ。複雑な表情を浮かべるとソトバは、二人の顔を交互に見比べる。
「いつまでも待っていられるか。修練場には他の師弟たちも待っているんだぞ」
珍しく苛ついたようにタケミチが言う。こんな時ばかり師兄の顔を持ち出すのはズルくはないかと、ソトバはこっそりと思う。
「わかった、わかった! 今日は……その、ボタン様を町に案内するから、修練は勘弁してください、師兄」
最後の最後ばソトバは、修練を休むことを選択した。
「町へ出かけるのか? そんな話は聞いていない……」
タケミチが言いかけるのに、ボタンが慌てて言葉を被せてくる。
「いや、本当のことだ。わたしとソトバは町へ出かける約束をしていたのだ」
助かったと思うと同時にソトバは、今日一日はボタンには頭が上がらないなと思った。
世間知らずの割にボタンは、機転が利く。そのうち本当に、ボタンには頭が上がらなくなって、尻に敷かれる日がくるかもしれない。そう考えるとあまりいい気はしない。
ソトバは自分の言葉にがっくりと肩を落とした。
結局のところ自分は、今はまだ、誰かのてのひらの上で躍らされている未熟な人間でしかない。
「そうでしたか。それではお気を付けてお出かけになってください、ボタン様」
そう言うとタケミチは、態度を一転させた。
「では、しばらくソトバを借りるぞ」
鷹揚な態度でボタンはそう告げると、ソトバの腕を取る。
「ソトバ、行こうか」
にこにこと柔らかな笑みを浮かべたボタンは、ソトバの腕にしがみついてきた。
「気を付けて行ってこいよ、ソトバ」
年長者らしくタケミチが言葉をかけてくるのにソトバは、渋い顔をしながらも頷いた。
「……行ってきます」
納得がいかない。
そう言いたかったが、言えるような雰囲気ではなかった。
ソトバの腕にしがみついた気まぐれな皇子様は、嬉しそうに満面の笑みを浮かべてタケミチに手を振った。
「行ってきます!」
(2015.5.2)
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