はあぁ、と溜息をつくとソトバは、ふと足を止めた。
ホワイトデーからもう何日も過ぎているが、まだボタンにバレンタインのお返しをしていない。このところボタンの顔を見ないからすっかり忘れていたが、そう言えばバレンタインにチョコをもらっていたなとソトバは思う。
ボタンのことは、別に嫌いというわけではない。
帝室の生まれで第三皇子という身分には最初は戸惑いはしたが、いつの間にか慣れてしまっていた。見た目の愛らしさと、人懐こい愛嬌のあるあの瞳に、いつしか懐柔されてしまっていたようだ。
「……お返しのプレゼントでも用意しとくか」
そう呟くとソトバは、すぐ近くにある市場へと向かう。市場と言っても、女性向けの装飾品やちょっとした布製品や革製品、それに化粧品などを売る露店が集まった場所だ。
街外れの広場のようなところに大きな天幕が張られていた。その下にたくさんの人々が集まり、思い思いに買い物をしている。
あたりの賑やかな空気に、ソトバの口許がふっと緩んだ。
ふらふらと露店を眺め歩きながらソトバは、ボタンに何を渡そうかとあれこれ考えを馳せる。 いくら可愛いと言ってもボタンもあれで一応は男だから、化粧品はさすがに駄目だろう。かと言って装飾品は値の張るものが多く、ソトバの今の手持ちでは買えそうにない。
布製品、革製品、珊瑚や瑪瑙などを一通り見せてもらったソトバは、ふと露店の片隅に飾られた腕輪に目を止めた。
紗でできた薄く淡い絹の腕輪には、赤い花飾りがついていて、なんとも可愛らしく見える。
「これを、包んでくれ」
声をかけると、露店の女将は小さな紙の袋にその腕輪を入れてくれた。
「好きな子にだろ?」
ニヤニヤと笑いながら女将は紙の袋をソトバに手渡してくる。
「頑張っておいで!」
そんなふうに励まされ、ソトバは曖昧に頷くしかない。
それにしても、ボタンは喜んでくれるだろうか。
小さな紙の袋を手に、ソトバは自分が暮らす屋敷へと足早に歩いていく。
今日あたりボタンが来てくれたならいいのにと、そんな都合のいいことを考えながら。
その日の修練は夕方まで続いた。
師兄の元から逃げ出して街をうろついていたことがバレてしまい、ソトバはいつも以上に厳しい修練を与えられるはめになってしまった。
へとへとの状態で武道場を出たソトバは、結局ボタンにあの腕輪を渡すことができなかったなと思った。
もう日も暮れそうな時刻だ。
西の空は茜色に染まり、山と雲の向こうに太陽が沈んでいこうとしている。
ふとソトバは、屋敷の門の前に見知った顔がちらりとこちらを覗いているのに気付いた。
「……ボタン様?」
声をかけると、少し恥ずかしそうにボタンがするりと物陰から出てきた。いつもながら女の子のように見える華奢な体型のボタンは、お気に入りの浅葱色の長袍を身に着けている。
浅葱色の長袍なら、きっとあの腕輪がよく映えることだろう。
「疲れているようだな、ソトバ」
屈託のない笑みを向けてくるボタンに、ソトバは微かな笑みを向ける。
「疲れてなんかいませんよ」
嘘ではない。
さっきまでは確かにもう一歩も動けないほどくたくただったが、ボタンの顔を見た途端に、急に元気が湧いてきたような気がする。
「ここしばらく、来ませんでしたね」
どうされていたのですか? と暗に問いかけると、ボタンは途端にムスッとした顔になる。
「婚姻の話を断るのに忙しかったのだ」
腕を組んで、つん、と顎を反らしてボタンは告げる。
不機嫌そうなその顔には、この話が本意ではなかったことがはっきりと映し出されている。
「そうでしたか。それは大変でしたね」
と、ソトバが返すのに、ボタンはさらにムッとして眉間に可愛らしい皺を寄せた。
「他人事みたいに言うのだな、ソトバは」
拗ねた顔のボタンも可愛いなどとは口に出しては言えないから、ソトバは気まずそうに顔を反らすばかりだ。
「……そ、それはそうとボタン様。この間のバレンタインのお返しを用意しました」
慌ててソトバが話題を変えると、ボタンの表情もころりと変わる。大きな目をさらに大きく見開いて、ソトバの顔を覗き込んでくる。
「お返し、とは?」
何があるのだろうと好奇心いっぱいの表情でボタンは、ソトバを見つめる。
「本当はホワイトデーにお渡しするはずだったのですが、遅くなってしまってすみません。きっとボタン様に似合うと思いますよ」
そう言うとソトバは、あの小さな紙の袋をボタンに手渡す。
「何が……?」
小首を傾げてボタンが尋ねてくるのに、ソトバは笑って「開けてみてください」と返した。
手渡された袋の口を開けて、ボタンは中を覗いた。
「わ、ぁ……」
まず、声があがった。
それからソトバを見上げて、ボタンはちょっとだけ顔を赤らめた。
「これは、私がもらっても……?」
袋の中からボタンは、腕輪をそっと取り出す。
紗でできた腕輪はすぐにでも壊れてしまいそうな弱々しいもののように見える。だが、作りはしっかりしているはずだ。
「貸してください。つけてあげます」
腕輪を受け取るとソトバは、それをボタンの手首に飾ってやった。
薄い絹糸の青と黄色の輪っかが、ボタンの手首にしゅるりと巻き付く。青いほうの輪っかについた赤い花は、牡丹の花に見えないでもない。
「お可愛らしいですよ、ボタン様」
声をかけると、ボタンはいっそう頬を赤く染めて、それでも小さく「ありがとう」と返してくる。
それから二人で屋敷を後にすると通りを抜けて、皇居のほうへと向かってゆっくりと歩き出した。
暮れかかる空には、一番星がきらりと輝いていた。
(2015.3.23)
|