見渡す限り一面に、白い花が咲いていた。湿原に広がるのは、白い花、花、花。遠い遠い日の記憶の断片に、ミズバショウの花咲く光景がある。
縁側でごろりと横になって昼寝をしていた同田貫は、薄目を開けて空を見上げる。
あの日も確か、今日のように空が高かった。
雲一つなく、空は青く晴れ渡っていた。
爽やかな風が吹いて、刀だった頃の同田貫を手にしたその当時の主は、いったい何を思っていただろう。
主は、田舎出の年若い青年だった。
それまで畑を耕していた手に刀を持ち、一旗揚げるのだと言って郷里を後にした。
後ろでひとつに結わえた髪が吹き付ける風になびき、誇らしげな顔にはうっすらと笑みが浮かんでいた。ミズバショウの咲き乱れる湿地を抜けて、青年は先を急いだ。
希望に満ちた青年の笑みは、同田貫から見ても清々しいものだった。
まだ何も知らないまっさらな心の持ち主は、これから出仕する屋敷のことでも考えていたのだろうか。それとも、手柄を立てることを考えていたのだろうか。
実際、青年は手柄を立てた。同田貫を手に戦に出て、いくつかのささやかな武勲を上げた。
正直で、どこか不器用なところが好ましいと同田貫は思っていた。
仲間の同田貫たちから主にまつわる愚痴とも小言ともとれる言葉を耳にするたびに、彼が自分の主でよかったと、当時はよく思ったものだ。
青年のすっきりと通った鼻筋は凛々しく、骨ばった手は優しかった。同田貫を手入れする時の手つきはことのほか慎重で、丁寧だった。
しかし人の時間というものは、どうかすると刀よりも早く過ぎ去っていく。青年は、彼と似たような身分の娘と恋に落ち、出仕先の人々の好意でどうにか祝言を上げることができた。
青年が戦に出る回数は目に見えて増え、手柄を立てたいと先走る主の気持ちを同田貫は痛いほどに感じるようになった。
それでもまだ、同田貫は幸せだった。
汗と血と泥とにまみれて、主と共に戦場を駆け回るができて自分は幸せだと思っていた。
試し切りの玩具にされて刀身を折損させられたり、ぽきりと折られりといった噂話を仲間伝いに耳にすることも多々あった時代だっただけに、自分は刀としての役目を充分に果たしていると自負していた。 だが、終わりの日はゆっくりと近付いてきていた。
その頃には青年は年老いて、何人かの息子と娘、それに孫に囲まれて、刀を手にすることもままならなくなっていた。時々、縁側に出ては同田貫の手入れをし、空を見上げては郷里の景色を懐かしんだ。
庭の片隅には、白いミズバショウが植わっていた。
年老いた男は時々、思い出したように同田貫に声をかけるとは、昔のことを何度も繰り返し語りかけた。
そうしてある日、一人きりで逝ってしまったのだ、主は。
年老いた妻と息子や娘、それに孫たちに囲まれて、同田貫の主は生涯を終えた。
刀である同田貫から見ればそれは、充実した人生だったように思える。田舎を後にした若者が武勲を上げ、幸せな生活を送った。これ以上、何を望むというのだろう。
同田貫は年老いた男の遺体と一緒に埋葬された。
同田貫の命は暗い土の中で主だったものの亡骸と共に、ゆっくりと時間をかけて土に還っていった。
埋葬される時に見上げた空は、高く青かった。
最後に目にしたその空の青さは、今も同田貫の目に焼き付いている。
そうして、誰かが棺に入れたミズバショウの花のひんやりとした感触が、今も同田貫の頬に残っている。
気が付くと、居眠りをする同田貫のすぐそばで鶴丸の気配がした。
縁側に腰を下ろして、茶を飲んでいる。
「……なんだ、あんたか」
片目を開けた同田貫がぼそりと呟くと、鶴丸はこちらを見もしないで小さな包みを寄越してきた。
「さっき、審神者と一緒に買い出しに行ってきたんだがな。団子でも食うか?」
そう言われればと、同田貫は腹に手を当てた。この陽気に誘われてつい居眠りをしてしまったが、小腹がすいているような気がしないでもない。
「おっ、悪りぃな」
そう言って起き上がった同田貫の目から、不意にポロリと何かが零れ落ちる。
「──あ?」
同田貫は怪訝そうに手を目元にやった。
気付かなかったが、どうやら自分は眠っている間に泣いていたらしい。
「なんだ、これ……」
一瞬、頭の中にかつて主の姿が浮かんでは消えた。
高く青い空と、白いミズバショウの花。誇らしげな若者の横顔。主と共に過ごした頃の記憶が、同田貫の脳裏を駆け巡っていく。ここにはあの若者はいないというのに、どうして思い出したりしたのだろう。
「これは驚いたな。泣いているのか、同田貫」
そう言われた同田貫は、やはり自分は泣いているのだと改めて確信した。何か言い返そうとしたが言葉が出てこずに、ただただ鶴丸を睨み付けるばかりだった。
きまりが悪くなってぷい、と横を向くと、庭先に白い花が咲いているのが目に入った。
「あれ……あんな花、あそこにあったか?」
同田貫が声を上げるのに、どれ、と鶴丸が視線の先を確かめる。
同田貫の視線の先には、白い花が咲いていた。湿原に咲き乱れるミズバショウの白が、そこにはあった。
「ああ、あれは遠征に出ていた第四部隊が調査用に持ち帰ったものだ。場所がなかったからとりあえずあそこに植えたらしいな」
薬研藤四郎率いる第四部隊は検非違使対策の調査遠征を中心に行っている。時々、わけのわからないものを持ち帰ってくることがあったが、今回のこれもそうなのだろう。何をどう調査するのか、同田貫にはさっぱりわからないが、薬研にとっては大事な調査対象らしい。
すん、と鼻を啜ると同田貫は庭へと降りた。
すらりとした立ち姿のミズバショウが、かつての主のしゃんと背を伸ばした姿と重なる。同田貫はごしごしと目元を擦ると、小さく微笑んだ。
それからおもむろに空を見上げ、呟いた。
「今日も空が高いなぁ」
あの日、雲一つなく空は晴れ渡り、爽やかな風が湿原を駆け抜けていった。ミズバショウが咲き乱れ、あたりは白い花でいっぱいだった。まっさらな心の、少し不器用だった主のことを考えるといつも、同田貫は自分が幸せだったことを思い出す。最期まで自分は、主に愛されていた。そのことだけが同田貫の誇りであり、ただひとつの美しい記憶だ。
「どうだ、手合せでもするか」
いつの間にか鶴丸も庭に出てきていた。
「そりゃあ、いいな」
腕まくりをすると同田貫は、鶴丸と向き合った。
一陣の風が吹き付けてくる。
風がおさまるのを待って同田貫は、刀を振りかざして鶴丸の懐へと斬り込んでいった。
(2015.4.18)
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