ひんやりとした床の上は肌寒く、意識がはっきりとしてきたところで思わずくしゃみが出た。
一晩、道場で過ごしたのだ。体じゅうが痛いのは、疲れてそのまま床の上で眠ってしまったからだろう。どうやら叔父夫婦は、ゾロが部屋に戻っていないことには気付いていないらしい。
床の上で大の字になったままの姿勢でゾロは、ゆっくりと目を開ける。
空が明るんできている。
夕べは、闇雲に竹刀を振り続けた。
前日の試合では勝ったというのに、納得がいかなかった。相手が勝つだろうと、ゾロは思っていた。実際、途中までは相手のほうが優位に立っていた。それが、どうだ。ゾロの鋭い打ち込みに気迫負けして、相手はあっさり負けてしまった。
許せないと、ゾロは思う。
好きで剣道をやっているくせに、その程度の気持ちしか持っていないのかと尋ねたかった。
何よりも腹が立つのは、好きで剣道をやっているのではない今の自分が勝ってしまったことだ。自分は、くいなとの約束にしばられている。好きで剣道を始めたものの、今の自分は、くいなのために強くなりたい一心で、竹刀を振るっている。
その程度の気持ちで剣道をしている自分が勝つなんて、本当はあってはならないことだ。
両手で顔を覆うと、また、目を閉じる。
しばらくじっとしていると、鶏の声が聞こえてきた。本格的に夜が明けたのだろう。鶏小屋の鶏たちが騒いでいるのは、いつものことだ。
もう少ししたら、叔父がゾロを探しにくるはずだ。
ゾロは、深い溜息をついた。
ゆっくりと体を起こすと、道場の片隅から掃除道具を持ち出してくる。
夕べは掃除も片付けもせずに眠ってしまったから、今朝は特に丁寧に掃除をしよう。それからランニングついでに両親の墓参りに行って、何事もなかったように朝食をとる。きっと叔母は、ゾロのためにほんのり甘い出汁巻きを用意してくれているはずだ。
叔父夫婦の元に引き取られて一年と少しが過ぎた。中学生に通いだして、ゾロは剣道部に入部した。叔父夫婦の自宅には道場があったから、家にいる時も学校にいる時も道場に入り浸って竹刀を振るっている。自分なりになかなかうまくやっていると、ゾロは思っている。
時折、耐えられないほどの喪失感と深い悲しみに胸の奥がキリキリとしたが、それらをやり過ごす方法をゾロは学んだ。逃げ出せばいいのだ。剣道に逃げて、自分一人の世界に逃げ込めばいい。そうすれば、胸の痛みはいつか薄れる。
ただし、この方法があまり長くは続かないこともゾロは知っている。
ゾロが現実から目を背けて逃げだそうとすると、決まってサンジのことが思い出された。
色白で、幼い頃には女の子のように見えた親友は、あの外見でなかなか頑固なところがあった。幼稚園、小学校と悪ガキで通したゾロを恐がる男子もいたが、そんなゾロに平気で意見をし、喧嘩を売ることのできる数少ない友人がサンジだった。
今にして思うと、好き……だったのかも、しれない。
でなければ、いくら親友とはいえ、男相手にキスなんてできるはずがない。もちろん、サンジは知らないはずだ。遊び疲れて二階のゾロの部屋のベランダで昼寝をしているサンジに、こっそりキスをしたのだ。ほわんと開いた唇がおいしそうに見えて、唇を近づけてみた。寝入ってしまう少し前に食べたサンジお手製のケーキの甘いにおいがして、思わずサンジの唇に自分の唇を押しつけてしまった。あれは、間違いなく初キスだ。サンジ自身は眠っていて知らないはずだから、自分一人の思い出のはずだ。
しかしそのサンジからも、自分は逃げ出した。
両親の死を受け入れることのできなかったゾロは、いちばんストレートに自分に現実を突きつけてきそうなサンジから逃げたのだ。
離れたくないと思いながら、サンジから距離を取った。そうすることで、これ以上、大切なものを失わなくてすむようにしたつもりだった。
「俺は、バカだからな……」
ランニングをしながらゾロは、ぽつりと呟いた。
ふと、風見鶏の丘を思い出していた。
春の陽気に誘われるようにして、ゾロは、空を仰ぎ見た。
懐かしい風見鶏の丘の景色が、脳裏に蘇ってくるようだった。