サンジから電話がかかってきたのは、金曜日の夜のことだった。
叔母に受話器を手渡された時にわけもなく気まずさを感じたのは何故だろう。
コードレスの子機を手に取ると、「もしもし」と言いながらゾロは、玄関脇の階段に腰をおろす。叔父夫婦がいる居間で話をするのは気が引けた。聞かれて困るような話ではないが、かといって自分の部屋に子機を持っていって話をするのも気が引ける。いつもだったら居間で怠そうに応答をしてそそくさと電話を切ってしまう自分が、サンジとだけ長電話をするというのも気まずく感じる理由のひとつだった。
しばらくサンジに好き勝手に喋らせておいて、自分は適当に相づちを打ってやった。階段に座って玄関を見ると、灯りが点いたり消えたりしているのが目についた。手元が暗くなったり、薄ボンヤリ明るくなったりと忙しい。
会話が途切れて、そろそろ受話器を置こうとしたところで、サンジの微かな溜息が聞こえてきた。
『あの…さ。明日、いつものとこで弁当食おうぜ』
どことなく言いにくそうな気配がしているのは気のせいだろうか。
何かあったのだろうかと思いながらゾロは、小さく笑った。
「いいぜ」
あっさりと返すと、少しだけサンジがホッとするのが伝わってくる。
「あ、だし巻き玉子はちょっと甘いのがいい」
ついでとばかりにゾロが告げると、サンジは『わかった』と言って電話を切った。
夏の大会を目前に控え、このところサンジとは通学電車でも滅多に会わなくなっていた。黄金週間を過ぎて剣道部の朝練が始まったあたりからサンジと顔を合わす機会が減っているから、もしかしたらひと月近く会っていないかもしれない。
「明日、昼から出かけるから」
子機を居間の元の位置に戻しがてら、ゾロは叔母に声をかけた。
「あら、遊びに行くの? お昼は?」
「いらねー」
甲斐甲斐しく声をかけてくる叔母につっけんどんに返した。愛想がないのは昔からだから、叔父も叔母もそんなゾロの態度をたいして気にはしていないようだ。
「デートかい?」
晩酌をしながらしれっと叔父が尋ねるのに、ゾロはさらにつっけんどんに言い放った。
「ちげーよ!」
言い返しながらもゾロは、胸の隅っこがほわんとしていることに気付いていた。サンジと会えるのだと思うと、それだけで気持ちが浮き浮きとしてくる。デートなんかではないことは確かだった。風見鶏の丘に行って、サンジお手製の弁当を食べてくるだけだ。それなのに自分は、こんなにも浮ついた気持ちでいる。
早く明日にならないかと、そんなことを思いながら布団に潜り込む。
目を閉じると、二秒もしないうちにゾロは眠ってしまっていた。
翌日は、湿度の高いじめじめとした天気だった。梅雨の合間の晴れの日だというのに、湿気が高く、じっとしているだけで息苦しくなってくる。風が吹くとムッとした湿気が全身に押し寄せてきて、皮膚呼吸を遮ろうとする。
約束の時間は午後一時だが、朝のうちサンジは学校があると言っていた。ゾロのほうはこの日は授業こそなかったが、部活があった。昼までみっちり竹刀を振ることになるだろうから、その後にサンジの弁当が食べられるのだと思うと、いつも以上に熱心に部活に打ち込むことが出来た。
湿度の高い道場で汗まみれになりながら、ゾロは竹刀を振った。来月の試合が最後の部活動になるから、竹刀を振る腕にもいっそう力がこもる。サンジは応援に駆けつけてくれるだろうかと、竹刀を振りながらふと、そんなことを思った。きっとサンジのことだから、言わなくてもどこからか試合のことを聞きつけてやってくるはずだ。弁当には、ゾロの好きなだし巻き玉子を入れてもらおう。
昼前になって汗まみれの練習がようやく終わると、ゾロは学校を飛び出した。
風見鶏の丘でサンジが待っているのだと思うと、自然と気が急いてくる。
いつも歩いている駅前の商店街は遠回りになるからと、ゾロは堅苦しいビルが建ち並ぶビジネス街のほうへと足を向けた。早足に通り過ぎていくスーツ姿の男女が、我が物顔で灰色のビルを出たり入ったりしている。
少し前からビルの工事が続いているのか、このあたりで大型のトラックをよく見かける。時には商店街の裏道を強引に通り抜けようとする大型車両もあるぐらいだ。見れば、なるほど、この近辺でいちばん背の高いビルが目隠しのシートに覆われて、風に煽られるたびにちらちらと足場を覗かせている。鉄骨と鉄板で組んだ足場はしかし、強い風が下から吹き上げるとはたわんでいるようだ。作業をしているわけでもないのにギシギシと音をたてながら、はるか下のアスファルトへと近づこうとしているように見えないでもない。
立ち止まってちらりと足場を見上げたゾロは、吹き寄せる風に顔をしかめた。ねっとりとした汗が肌にへばりつき、息苦しくてたまらない。
額の汗を腕でごしごしとこすってから、ゾロは足場の真下を一直線に貫いているアスファルトの舗道を足早に歩きはじめる。
正面から、スーツ姿の女性が小気味よくヒールを響かせ歩いてくる。手にした書類を熱心に見つめている。あんなふうに歩いてて、けつまづくようなことはないのだろうか。大人というのはたいへんな生き物なのだなと思いながら、もういちど頭上を見る。
不意に突風が足下から吹き上げてきた。
「ああっ!」
OLの手にした書類が勢いよく風にさらわれ、あたりに散らばった。ばさばさと音を立てて、書類が一枚、二枚、と風に舞う。
咄嗟にゾロは、書類をかき集めていた。風に飛ばされた書類がこれ以上あちこちに逃げ出さないように鷲掴みにすると、OLの元へと持っていく。
「まあ、ありがとう。親切なのね」
黒髪がさらりと揺れて、OLの頬にかかる。汗ひとつかかず、涼しげな表情で女性が微笑んだ。
「悪い。ちょっと、皺になった」
そう言って書類を手渡すと、彼女は「いいのよ」と返した。
ゾロはそれ以上は何も言わず、この場を立ち去ろうとした。風見鶏の丘で、サンジが待っている。時間にうるさいサンジが、ゾロの遅刻にだけはいつも寛大だった。今日だって、学校を出たのが正午を少し過ぎていたから約束の時間には遅刻せざるを得ない状況だったが、きっとサンジは怒りながらも許してくれるだろう。
「ありがとう、君」
OLが手を振って言うのに、ゾロは軽く会釈をした。
きびすを返そうとしたところで、また、足下から風が吹き上げてきた。さっきよりも強い風に混じっていたのか、ゴミが目に入った。慌てて目をぎゅっと閉じて拳で擦る。
目を開けると、吹き上げる風に煽られて、頭上の防塵シートが大きくはためいていた。今し方のOLの頭上だ。大きくたわんだ足場の鉄板の上で、何かが弾けるのが見えた。
「……危ない!」
声を荒げるのと、体を動かすのはほぼ同時だった。
突風にまくり上げられた頭上の足場から、鉄骨が落ちてくる。固定策が切れてしまったのか、じゃらじゃらと鎖が音を立てて蛇のように鉄骨に絡みついているのが見える。
女の体を突き飛ばしたところで、ゾロの体が舗道に叩きつけられていた。
衝撃で、肺が苦しい。
いちどは目を開けたものの、すぐに目を閉じてしまった。
頭のてっぺんから足の先まで、全身が痺れてしまったような感じがして、指一本動かすのも苦しいぐらいだ。
周囲のざわめきは耳に遠く、薄れていく意識の中でゾロは、サンジとの約束をまた破ってしまったと思わずにはいられなかった。