スローモーションのように、頭上から鉄骨が降ってくる。
鉄骨に巻き付いているのは、ちぎれた鎖だ。足場の一カ所に集めてあった資材を固定していた鎖が緩んでいたらしい。吹きあげてきた突風のせいで防塵シートがまくれあがり、負荷がかかって鎖が切れてしまったのだ。足場から宙へと飛び出した鉄骨が落下して、ゾロを押し潰そうとした。
目を閉じると、なんども何度もそのシーンがゾロの頭の中に蘇ってくる。
舗道に叩きつけられたゾロの体を袈裟懸けに裂いたのは、鉄骨の先端の鋭利な部分だった。胸の傷をそれるようにしてできた内臓破裂の跡はしばらくのあいだ、紫色の汚い痣となって腹に残っていた。左腕の骨は折れたはずみで皮膚を突き破っていたし、肋骨も何本か折れていた。
病院の天井を見上げて、ゾロは顔をしかめる。真っ白な天井の隅のほうに滲み出た染みがぼんやりとした人の顔のように見えて、あまりいい感じがしない。
サンジとの約束を破ってしまったという何とも言えない後味の悪い気持ちだけが胸の内で渦巻いている。
救急車で搬送される最中にいちどは意識を取り戻したものの、すぐにまたゾロは意識を失ってしまった。
サンジにこのことを知らせることができないのがずっと気にかかっていた。とぎれとぎれの意識の中で、サンジに連絡をしてほしいと告げたような気もするし、何も言えなかったような気もする。口を開けば言葉にならない呻き声かヒュッ、ヒュッといった呼吸音が洩れるだけで、喋るどころではなかったのだ。
意識が戻ったゾロの枕元についていたのは叔父夫婦と、あのとき助けた女性──ロビンだった。
黒髪がきれいな女性だと思った。パリッとしたスーツを着こなして、高いヒールをカツカツと鳴らして颯爽と歩いていた彼女は、ゾロの意識が戻るまではと頻繁に病室に顔を出してくれていたらしい。助けようとしてゾロが突き飛ばした時にできた掠り傷なのか、腕や顔に絆創膏が貼ってある。念のために精密検査を受けてから退院するとロビンは言っていた。
入院から三日目になって意識がはっきりしてくると、サンジに合わせる顔もなければ、連絡をとるだけの甲斐性も自分にはないのだとゾロは思うようになった。
ただぼんやりと窓の外を見て一日を過ごした。
一命は取り留めたものの、仰々しく時間のかかる検査がいくつも待ちかまえていた。巡回の医師や看護士に傷を見せたり薬を飲んだりで、一日の大半をゾロは寝て過ごした。
一週間もすると、袈裟懸けになった胸の傷の抜糸をした。傷跡は痛痒く、じくじくとした感じが残っていた。眠ると、無意識のうちに傷を引っ掻いていたようだ。朝、気付くと胸に当てられたガーゼが外れており、血が滲んでいた。看護士には叱られるし、傷が熱を持って痛いしで、散々だった。結局、しばらくすると傷口が壊疽してきたために再縫合をすることになった。
学校から叔父夫婦の元に届けられたプリントやノートは気になったが、見る気にもなれなかった。夏休みの宿題だと渡されたプリント類には、もっと嫌気が差した。もっとも、夏の間に何度も胸の傷が化膿して、結局のところ縫合をし直さなければならなかったから、プリントどころではなかったのだが。
夏の終わりにようやくゾロは、怪我の治りを実感できるようになった。
退院の日も決まり、この調子なら少し無理をすれば二学期の途中からでも登校できるだろうと内心で喜んでいたところに、胸の傷が悪化した。ジクジクと化膿して、またもや縫合し直さなければならなくなったのだ。
始業式の日の夕方、エースが見舞いにやってきた。ゾロがこの病院に入院して初めての見舞客だ。入院した当初から、級友や剣道部の仲間には入院先を秘密にしてくれと頼んでいた。誰かと顔を合わせることが煩わしくて、つい叔父に頼んでしまったのだ。だから級友たちは、ゾロが夏休み以前から休んでいても、どこの病院にいるのかすら知らないはずだ。
それにしても、だ。本来、エースはこういったことをするような男ではない。珍しいなと思っていると、何のことはない。弟のルフィが足の怪我で別の階に入院していただけのことだった。どこでどうやってゾロのことを知ったのかはわからないが、ルフィが入院しているのだと言われれば、納得できることだった。
「怪我、したんだってな」
顔を合わせるなり前置きもなく、ポツリとエースが言った。
どう答えればいいのだろうかと、ゾロはこっそりと口の内側の肉を噛み締める。
「サンジがさぁ……泣きそうな顔して言うんだよ。引っ越す前の日にお前と会う約束をしてたのに、すっぽかされた、って。アイツ、ガキの頃からぜってー人前で泣かないだろ。何とも言えない辛そうな顔して言うからさ、こっちも見てられねえ、ってか……」
そんなことは、言われなくてもわかっている。悔しさをこらえるため、ゾロは拳をぎゅっと握りしめる。力を入れるとまだ、体の節々が痛んだ。完全に治ったわけではないのだと知らされているような感じがして、それがいっそうゾロを不機嫌にする。
「……引っ越したのか」
行き場のない怒りをこらえて、ゾロが呟いた。声が掠れているのは、どうしてだろう。
「親父さんの転勤だってさ」
ふぅん、と、ゾロは興味なさげに頷いた。
カーテンの隙間から差し込んでくる西日が、目に眩しい。
「──…言うなよ」
目をすがめて、ゾロは言った。
「俺のことは、絶対にアイツに言うなよ」
押し殺したゾロの声の強さにエースは、少し驚いたようだった。
「言わねえよ」
ややぶっきらぼうにエースは返した。
それからもエースは、ゾロが退院するまでのあいだに何度か見舞いにきてくれた。しかしそれだけだった。いつ退院するかをゾロは、エースには言わなかった。
二学期が始まってしばらくしてようやく、ゾロは退院した。時折、肋骨や腕が痛むことはあったが、胸の傷に比べるとはるかにマシだった。胸の傷は、再縫合の後も鈍い痛みが続いていた。痛痒く、熱を持った状態のことが多く、退院をするとまたしても化膿してきた。怒りっぽく、不機嫌な顔を一日中していることもしょっちゅうだった。
登校を再開しようとした矢先に胸の傷が本格的に化膿して、再びゾロは入院した。その頃にはもう、怒りの矛先をどこへ向ければいいのかわからなくなっていた。中学最後の大会に出ることも叶わなかった。かれこれ三ヶ月、竹刀には触れていない。体力どころか筋力や握力も落ちていた。ゾロが悪いわけではない。ロビンも悪くはない。身近なところにいる人たちは、誰も何も悪くはない。それがわかっていて尚、やり場のない怒りを鎮めることは困難だった。
その後も短期の入退院を何度か繰り返し、年が明けてようやくゾロは病院から解放された。その頃には教室内はすっかり受験一色になっていた。張り詰めた空気が肌を突き刺すような二月になってゾロは久々に登校したものの、周囲の空気に馴染むことはできなかった。級友たちの会話についていくこともできず、卒業までの日々は体を慣らすためにのんびりと過ごすしかなかった。
無性に風見鶏の丘に行きたかったが、恐くて行くことができないのもまた事実だった。
その気持ちはちょうど、サンジに会いたくて仕方がないのに、二度も約束を破ってしまったことを怖れて会いに行くことができない複雑な気持ちにも似て、苦々しくも腹立たしいものだった。