道場の、ひんやりとして張り詰めた空気が好きだった。
よそよそしくも冷たい空間は孤独で、あたかも自分が孤高の高みにいるかのような錯覚を感じさせてくれる。
誰も寄せつけないこの空間が、ゾロは好きだった。
ここにいると、くいなのことを思い出す。両親のこともだ。
失ったものがあまりにも多すぎて、剣道に打ち込むことでそれらのことを忘れようとした。しかし忘れられると思いかけた矢先、剣道までも取り上げられてしまった。
袋小路のどん詰まりに閉じこめられ、自分はいったいどうしたらいいのだろうと思わずにはいられない。
怪我の後、なんとか中学を卒業したゾロは叔父夫婦の家を出ることにした。
叔父夫婦の家には小さいながらも剣道場があった。竹刀を持つことのできないゾロにはそれが嫌でたまらず、逃げ場を求めて家を出ることにしたのだ。
逃げ出した先は、ロビンの元だった。
入院中からロビンはなにかとゾロの世話を焼いてくれた。命を助けてもらったお礼だと言って、彼女にできることならなんでもしたがった。天涯孤独の彼女とは、もしかしたらどこかで波長が合ったのかもかもしれない。
同級生から一年遅れでゾロが進学する予定の高校近くのマンションを購入した彼女は、それまで住んでいた部屋を引き払い、呆気ないほど潔く引っ越した。マンションの購入費用には結婚資金をあてがったらしいが、それについて元婚約者のフランキーは一言も口を挟むことはなかった。いや、フランキーはロビンのすることを全面的に支持している。彼女が年下のゾロと同居すると決めた時にも、フランキーは嫌な顔ひとつすることはなかった。快く引っ越しの手伝いを申し出ると、まだ無理のきかないゾロのかわりに荷物を運び込んでくれさえもした。
ゾロの世界はゆっくりと、しかし確実に変化していた。
昔からそうだ。変化の速度はまちまちだったが、ゾロ一人の力でこの変化を止めることはできない。かえることも叶わないこの力は、否応もなくゾロをねじ伏せ、従わせようとしてくる。
だからだろうか、ゾロはいつしか、その力に逆らうことを諦めてしまった。
自分をねじ伏せる力に逆らっても、なにもかわらない。自分一人の力では、抗うことができない。ならば黙って自分はその変化を甘受するしかないではないか。
そんな諦めが、いつの間にか当たり前になってしまっていた。
その一方でロビンとの同居は窮屈ではあるものの、お互いに相手に干渉しすぎることはなかったから、ある意味、気楽でもあった。
困ったことといえば、叔父夫婦の家にいた時のように気軽に裸になることができなくなったぐらいだ。風呂上がりにタオル一枚を腰に巻いて部屋の中をうろちょろしていると、いつの間にか帰宅したロビンが居間のソファでくつろいでいることがあった。その時にはまだ、たいしたことではないと思っていた。
ゾロが無事に高校に入学してしばらく経ったある日、とうとうその気軽な生活に終止符が打たれることとなった。バスルームで、タオル一枚の姿のロビンと鉢合わせしてしまったのだ。運の悪いことにその日は、フランキーも部屋にきていた。いい歳をした男と女が一緒にいれば、たとえなにもやましいことはなかったとしても、他人から見て疑われることもあるのだということをフランキーに懇々と諭され、仕方なくロビンとゾロの間で共有スペースに関する取り決めが交わされた。面倒だが、恋人でもなんでもない男と女が同居しているのだから仕方がない。その時のゾロは、そんなふうに思っただけだった。
高校生活は単調で、だからだろうか、時折、ゾロはふらりと屋上に出て授業をサボることがあった。以前のようながむしゃらさは、今のゾロにはない。なにをするにもまずは体のことを考えなければならなかった。怪我のせいでゾロは、臆病になっていた。
サンジに再会したあの日、すんなりと言葉が出てこなかったのは、引け目があったからだ。サンジを裏切った自分に、以前と同じように大きな顔をして声をかけてもいいのかどうか、一瞬、ゾロは迷いを感じた。
目端の利くサンジのことだからきっと、ゾロの態度がこれまでと違うことに気付いているだろう。
臆病でどうしようもない人間に成り下がってしまった自分だが、事故のことを言い訳にしたくはなかった。だからゾロはただ一言、「留年したんだ」とだけ、サンジに打ち明けた。幸いにもゾロの中学時代を知る者はこの学校にはおらず、唯一、留年の理由を知っているエースには口止めをしてあるから、サンジにはまずバレることはないだろう。
なかなか思い通りに動いてくれない自分の体に悪態をつきながらゾロは部屋のベランダから表を覗いた。風見鶏が風に吹かれて、クルクルと回っている。なんと気楽そうな様子だろう。
目の前にはそして、憂鬱な梅雨の季節が迫っていた。