今年も誕生日がやってくるのかと思うと、ゾロはうんざりした。
緑色の髪の端々からシャワーの雫を垂らしながら、バスルームからリビングへと出てくる。
腰にタオル一枚を巻いただけの姿だったが、構うことはない。今日は同居人であるロビンは出張でいないのだから。
滴り落ちる雫をバスタオルでがしがしと拭き取ると、ソファに投げ出す。
なにもかもが億劫で仕方がない。
誕生日が近いからだろうか、神経がピリピリしていする。まるで剣道の試合が近づいてきた時のようだ。
喉の渇きを感じて冷蔵庫を覗くと、缶ビールが数本、並んでいた。ロビンのものだ。たまに仕事から帰ってくると飲むこともあったし、休日に朝から飲んでいることもある。たいていはワインやカクテルを飲んでいるようだったが、たまにやりきれない時があると、ビールになるらしい。そういう時はゾロも一口だけ、相伴に預かることがあった。
サンジあたりに知られたら、なにを言われるかわかったもんじゃないなと思いながらゾロは、目の前のビールに手を伸ばす。
一本ぐらいなくなっても、ロビンは気にしないだろう。
ゾロの怪我に関しては神経質すぎるほど気にするロビンだったが、未成年の飲酒については割と大らかな面がある。そういえば、叔父もそうだった。正月やゾロの誕生日など、なにかイベントごとがある時には一口だけと言って、ほんの少しだけ、お酒を飲ませてくれることがあった。一口どころか、ひと舐め程度にもならないのではないかと思うこともあったが、それで叔父やロビンとの同居生活がうまくいくのならと思っていた。
プルトップをあけると、小気味よい音がしてビールの香りがふわん、とゾロの鼻をくすぐる。
口をつけるとよく冷えていて、少し冷たいぐらいだ。
テーブルの上に置いてあったリモコンを手に取り、ゾロは暖房のスイッチを入れた。
ちびりちびりとビールを飲んでいるうちに、どうやら眠ってしまっていたらしい。
うっかり裸でうたた寝をしてしまったからだろうか、目が覚めた時には体のあちこちの筋肉が凝り固まっていた。喉も痛い。
ソファに投げ捨ててあったバスタオルを拾い上げ、覚束ない足取りで脱衣所へと向かう。
脱衣所の隅に置いてある洗濯機の中にバスタオルと腰に巻いていたタオルを投げ込むと、ゾロは素っ裸のままで部屋を大股に横切った。時間的にもロビンはもっと後にならないと帰宅しないから、まだ大丈夫だろうと思ってのことだ。
自室に入ると、ようやくそこでホッと溜息をつくことができた。
タンスの中から新しい着替えを取り出すと──と、言っても、ジャージがゾロの部屋着であり、寝間着でもあるのだが──、素早く身につけた。
腹が減っていた。
レトルトものを食べるのは面倒だったし、一人で食べるのもなんとなく気分ではなかった。
どうしようかと考えてから、着込んだジャージをジーンズとTシャツに着替え、皮のジャケットを羽織った。尻のポケットに携帯と財布を無造作に突っ込むと、ゾロはマンションの部屋を出る。
どこへ行くともあてはなかったが、風見鶏を正面に見ながらふらふらと歩きだす。
足の向くまま、気の向くままに適当に歩いているうちに、見慣れた赤い瓦屋根が近づいてくる。小洒落た洋風の煉瓦造りの建物は、一階が商売をしており灯りがついているためか夜目にもはっきりと見えた。尖塔のてっぺんには、馴染みのある風見鶏が、威嚇するかのようにゾロを見おろしている。
「どこだ、ここ」
呟いた途端、どこか懐かしいようないい香りが漂ってきて、ゾロの腹が盛大に鳴った。
そうだ、自分は腹が減っていたのだと、ゾロは思った。
キョロキョロとあたりを見回すと、件の風見鶏が幅を利かせている館から、いい香りが漂ってきているようだった。
可愛らしいドアの向こうから、カップルらしき男女の二人組がおいしかったねと言いながら、姿を現した。また連れて来てねと女性のほうが言うのに、男はそうだねと頷いている。
いったいどれぐらいの値段がするのだろうかと思いながら、ゾロはその建物のほうへと近づいた。入り口の脇には木製のイーゼルが置かれていた。イーゼルの上の黒板に、チョークで走り書きしたメニューがあったがゾロにはさっぱりだった。
腹はまだ、鳴り続けている。
うまいものを食わせてくれるところだというのはわかった。
その香りが、自分好みの料理を出してくれそうなところだというのも、腹具合からなんとなく感じ取れる。
メニューの値段をじっくりと検分してからゾロは、ままよとばかりに店のドアを開ける。
いちばん安いメニューなら、なんとかなるだろう。
ドアを開けて中に入った途端、なんと場違いなところへ来てしまったのだろうと、ゾロは思った。
ここは、自分のいるべき場所ではない。
照明を少し落とし気味にした、あたたかく居心地のよさそうな店内に違和感を覚える。
マンションの冷え冷えとしたあの部屋でレトルトの夕飯を一人で食べる自分のほうが、似合っているような気がしてきた。あのまま部屋にいればよかった。気紛れに外に出たりしたから、こんなところに自分は来てしまったのだと、軽く後悔をする。
入り口から先へ足を動かすことができないでいると、厳つい顔をした老料理人が、顎をしゃくってテーブルへと案内してくれた。髪も髭も真っ白で、やたら山高になったコック帽をかぶっている。
窓際の席へと案内され、ゾロは椅子に腰かけた。
窓の向こうに見える車道を、赤やオレンジや青をした車の灯りが忙しなく行き交っている。あの車の群の中には、ゾロ迎えにきてくれる車は一台もないのだと思うと、悲しい気持ちがじわじわと胸の内側を侵蝕していく。帰ってこなかった両親。叔父夫婦もロビンも、ゾロを新しい生活へと向かわせた。自分を迎えにきてくれる両親は、もういない。誕生日を祝ってくれるのは両親ではない誰かになってしまい、自分はいつも肩身の狭い思いをしている。
いったいいつになったら、心から笑うことができるようになるのだろうか。
じっと窓の外の景色を眺めていると、テーブルの脇に誰かが立った。
「ご注文はお決まりですか?」
穏やかな声だが、その声にゾロは思わず顔を上げていた。
「サンジ……」
なんでこの男がここにいるのだと、ゾロは思った。
「なんでこんな時間にお前が店にいんだよ」
ゾロが黙りこくっていると、サンジのほうから尋ねかけてきた。
言いながらもサンジは、メニューを手際よく広げてゾロの目の前に差し出す。
「注文決まってっか? 言っとくけど、うちはそこらの定食屋みたいに安くはないぞ」
ぶっきらぼうにサンジが言う。サンジがぶっきらぼうなのは、これは照れているからだ。長年の付き合いで、こういった時のサンジがなにを考えているのか、だいたいのところはわかる。小学校の頃ならきっと、互いの考えていることが手に取るように理解できただろう。だいたいのところしかわからなくなったのが離れていた時間のせいだと思うと、どこかしら寂しい気がする。
ゾロはゆっくりとした動きでメニューの中のひとつを指さした。
「表のメニューに出てたのって、これか?」
オムライスだ。楕円形に包んだ黄色い卵の上に茶色いケチャップがかかっている。この写真はあまり美味しそうには見えないなと思いながらもゾロは、うかがうようにしてサンジの顔を見る。
「オムライスだな。すぐに用意してやっから、待ってろよ」
そう言ってサンジは、ニッと笑った。いつものサンジだ。その笑顔にゾロはどこか安心して、微かに笑い返した。
すぐにサンジは厨房へと引き返し、自分のためにわざわざ手ずから作ってくれるもりなのだろうか、中へと引っ込んでしまった。
ゾロはまた、窓の外の景色を眺める。
待っている間にあの山高帽の老人が片足を引きずりながら入り口の表に看板を出しに行った。入ってきた時に客がいないと思ったのは、閉店時間が近かったからだろうか。だとしたら、こんな時間に店に入ってしまって申し訳ないことをしたと、ゾロは思う。
あの老人がおそらく、サンジの祖父なのだろう。昔から話にはきいていた。顔を合わせるるのはこれが初めてのはずだ。厳つい顔をしてすぐ怒る、恐いジジィだと小学生のサンジは言っていた。だけど料理がうまくできた時のジジィは、誰よりも優しい顔をしてサンジを褒めてくれるのだ、とも。なんだかんだと言いながら、つまるところあの老人はサンジにとって大切な人なのだ。
しばらくすると、サンジがテーブルに戻ってきた。手にしたトレーにはゾロの注文したオムライスが乗っている。
「食べ終わるまでここにいてやろうか?」
からかうようにサンジが尋ねる。
驚いたようにゾロが目を丸くすると、サンジは意地悪く笑った。
「お前さ、オムライスの食べ方、ぜってーわかんねーだろ」
そう言われてムッとしたものの、目の前に並んだオムライスはゾロが思っていたものとはずいぶんと違っていた。
少し深見のある皿に盛られたオムライスはチキンライスを卵焼きでくるんと包んだ上からデミグラスソースをたっぷりとかけたものだった。ケチャップではないのだと、ゾロは思った。それと一緒にサラダとスープがついてきた。これにまだコーヒーがつくのだと、サンジは言う。
だからあの値段なのかと、ゾロはぼんやりと思った。
サンジの手料理をゾロは味わって食べた。
二人だけで言葉を交わすのは、ずいぶんと久しぶりなような気がする。
学校ではいつもエースがサンジの隣にいたし、そうでない時はたいがいどちらかに用事があって急いでいた。
学年が違うとこんなにも顔を合わすことが少ないのだと、初めてゾロは気付いた。
学校が違う時には、そんなことは思いもしなかった。あの頃は、いつかどこかで必ず自分たちはまた、同じ道を進む時がやってくると信じていたような気がする。確かに間違ってはいない。今だって二人は偶然とはいえ同じ学校に通っている。しかし一年という学年の差は、学生生活が続く限りは決して埋まることはないのだ。
卵のふんわりとしてやさしい味に、ゾロの胸がチクリと痛む。怪我の痛みではない。顔を上げると、昔の椅子に腰かけたサンジが真剣な表情でゾロの一挙一動を見つめている。
「ウマいだろ?」
そう言って破顔するサンジは、なんと幸せそうに笑うのだろう。
「ああ、ウマい」
ゾロが返すと、サンジは当たり前だと言って胸を反らした。最近では、店の料理の一部をジジィに任されているのだとサンジは言っていた。サンジは一歩一歩、夢に近づいているのだろうか。いつかサンジが本当に自分の手の届かないところに行ってしまいそうで、時々、ゾロはひどく不安になった。
置いて行かれる。
自分ひとりが皆から置いて行かれてしまい、走っても走っても追いつけない悪夢のように、サンジも自分から離れて行ってしまうのだろう。そんなことを考えていると、サンジに「どうかしたのか?」と尋ねられる。考えごとに没頭していて、手が止まっていたらしい。
目の前に並べられた料理を食べ終える頃になると、サンジがコーヒーの用意をしに席を立った。
久しぶりにレトルトではない手料理を食べたからだろうか、腹八分目どころか、腹一杯で心まで満たされた感じがする。
コーヒーのおかわりまでもらって、ゾロは店を後にした。
料理の代金は、誕生日が近いゾロのためにサンジが肩代わりをしてくれた。閉店間際にやってきたのにそれは駄目だとゾロは言ったが、支払いをすることはサンジが許さなかった。
結局、ゾロはサンジの手料理を食べるためにあの店に行ったような感じになってしまった。
店の外に出ると、暗がりの中で風見鶏の薄ボンヤリとした影が空に浮き上がっていた。
なんとなく決まりが悪く、ゾロはそそくさとマンションへの道を歩きはじめたのだった。