マンションに戻る前に、ゾロはいつもの丘に登った。
月のきれいな夜だったから夜道は明るかった。風見鶏の丘へと続く道を一人で歩きながら、肌寒さを感じている。この季節はいつも、こんな感じだ。昼間は汗ばむほど暑い日があるかと思うと、朝晩の冷え込みは冬を思わせる日があった。冷たい風が吹くとそれだけで手足が縮こまるような感じがする。
赤茶けた土が剥き出しになった斜面を上がりきると、しだれ桜の枝が風に吹かれてゆらゆらと遊んでいるのが見えた。
正面には、風見鶏。さきほどのゾロの所業を知っているのだと言わんばかりの悠々とした様子で、風の中で踊っている。
「い…ってえ……」
呟いて、ゾロは胸を押さえた。
あの店を出た時からずっと、チクチクと胸が痛んでいる。
無性にサンジに会いたくて、仕方がない。つい今し方、会ってきたばかりだというのに、いったい自分はなにを望んでいるのだろうか。
草の上に腰をおろすと、ひんやりとした感じが尻に伝わる。
空には月と星が出ていた。昔に比べると月はずいぶんと遠くに見えるようになったし、星の数は少なくなったように思う。しかしそれでも月も星も、昔と同じように輝いている。あれは彼らなりの精一杯の証なのだと思うと、ゾロは、なんとも言えない切ない気持ちになる。
しばらくそうやってじっと地面に座り込んでいたゾロだったが、そのうち夜の寒さのせいで体の芯まですっかり冷えこんでしまった。胸の傷が本格的にキリキリと痛み始めるのを感じて、ゾロは重たい腰を上げる。
帰りたいとは思わなかったが、少なくともマンションに戻ればあたたかい。食べることに困ることもなく、のんびりと自由気ままに過ごすことができる。
足下に注意しながらゾロは、丘を後にする。
坂を下りる時に丘を振り返ると、暗がりの中で風見鶏がゆっくりと体の向きを変えるところだった。
アイツも眠たいんだろうな──そう呟いて、ゾロは歩きだした。
灯りにひかれるようにして、商店街のほうへとゾロは回った。
目についたファストフードの店に入る。コーヒーとバーガーを注文すると、ガラス張りになったカウンター席にゾロは腰をおろした。塾帰りの学生のグループと、会社員風の男女が何人か、まばらになってテーブル席に座っている。カウンターに座ったのは自分一人だが、かえって気楽でいい。
カウンター席からは、嵌め殺しになったガラス窓を通して風見鶏の鶏冠らしき部分だけがわずかに見えていた。ぼんやりと風見鶏を眺めていると、尻ポケットに突っ込んだままの携帯がブルブルと震えた。
慌てて携帯を取り出すと、通話ボタンを押す。
「……もしもし」
一呼吸置いてから喋りかけると、受話器の向こうで相手が怒っているのが感じられた。
『てめっ、まだ帰ってねえのかよ!』
サンジだった。
一方的にサンジは怒るだけ怒ると、電話を切った。
手にしたままの携帯を、ゾロは呆然と見つめる。何故、自分が怒られなければならないのだろうか。自分がどこでなにをしていようと、サンジには関係のないことだ。どうして怒られたのかが、ゾロには理解できない。
眉間に深い皺を寄せたまま、食べかけだったバーガーを口に運ぶ。コーヒーを飲むと、あっという間にトレーの上は空になってしまった。ポテトも頼むべきだったかとさらに眉間の皺を深くしていると、背後からいきなり声をかけられた。
「こらっ、不良学生!」
顔を上げると、正面の窓ガラスに映っているのはサンジだった。息せき切って走ってきたのだろう。ゼエゼエと息を荒げながら、ガラス越しにゾロを睨み付けている。
「……お前、なんでこんなとこにいるんだよ」
振り返ってゾロが尋ねた途端、サンジの拳骨がゾロの頭を殴りつけた。
「馬鹿か、お前は! そっちこそ、なんでこんなとこにいるんだよ?」
本気で怒っているなと、ゾロは思った。
いったいなにをサンジは怒っているのだろうか。
まなじりをつり上げたサンジの顔は、きれいに整っている。子どもの頃は女顔だと思っていたが、そうでもない。いつの間にか自分と同じぐらいの背丈になり、声だって割といい声をしていると思う。料理上手で、よく気もつく。短気だが、女には心底優しい。誰かがサンジのことをフェミニストだと言っていたが、どういう意味なのか、ゾロは知らない。どうせいい意味ではないのだろうぐらいにしか、思っていない。女たちはそんなサンジを可愛いとよく言っていた。それもどうだろうかとゾロは思っている。可愛いのとは少し違うような気がする。
昔のゾロならサンジに殴られたら即座にやり返していた。しかし今のゾロは、違う。胸の傷が痛むのが恐くて、やり返すことができなかった。スツールに腰かけたままのゾロは、口を半開きにしたまま、じっとサンジを見つめるばかりだ。
「俺は……風見鶏を見た帰りだ」
そう言ってゾロは、「まあ座れよ」と、サンジに隣に座るよう促した。
なんだかんだ言ってもサンジもちゃっかりトレーを手にしていた。ポテトとコーヒーが乗っている。サンジがスツールに座るのを待ってゾロは、ポテトに手を伸ばした。
「月が出てたから、風見鶏がよく見えたぞ。半分ぐらい寝かかってるようだったけどな」
風はあまり強くなかったが、冷気がきつかった。この時期はいつもこんな感じだ。胸の傷が痛んだことはサンジには、まだ内緒の話だ。知っているのはエースだけだ。そうそう隠しておくこともできないだろうと思ってはいるが、どうやって話せばいいのかがゾロにはわからない。
「それで、お前は?」
と、ゾロが尋ねると、サンジは気まずそうに口ごもった。
正面の窓ガラスをじっと見つめると、小さな声で、ポソリと呟いた。
「俺は……アレだ。エースに頼まれて、ちょっと…──」
ボソボソと、語尾が消えていく。
ああ、こいつはエースが好きなのだと、ゾロは思った。
背を丸くしてサンジは、じっとトレーを見つめている。
ゾロはそんなサンジの様子を、ガラス越しに見つめていた。
ファストフードの店を出て、なんとなく二人で歩いた。
どちらも喋りたいことは山のようにあったが、思うように言葉が出てこない。そんなもどかしさだけが胸の内でいっぱいになって、グルグルと走り回っている。
このままここで別れてしまったなら、互いの気持ちがさらに離れてしまいそうな気がして、二人とも、なかなか「帰る」と言い出すことができないでいた。
車が行き交う道で信号待ちをしている間、ゾロはこっそりとサンジを見る。寒そうにしているのは、細っこい上に彼が薄いジャケットしか着ていないからだ。くしゃん、とくしゃみをしたのを機に、ゾロは自分が着ていた革のジャケットを脱ぐと、サンジのほうへと突き出した。
「着てろ。寒いんだろ」
ぶっきらぼうに言うと、サンジは躊躇いながらも手を伸ばす。
昔のサンジなら、喜んで着ただろう。こんなふうにゾロの様子をうかがいながらジャケットを受け取るようなことはしなかったはずだ。
「……サンキュ」
小さな声で、サンジは返した。
間もなくして信号がかわると、信号待ちをしていた人の波がゆっくりと動き出す。ゾロが歩き出すのに遅れて、サンジがついて来る。
車道沿いにゆっくりとした足取りで歩いていると、黒い車が歩道側に寄ってきて、クラクションを鳴らした。
「ゾロ、こんな時間にどうしたの」
見慣れない黒のバンの運転席から顔を出して、ロビンが手を振る。
「友達んとこに行ってたんだよ」
嘘ではない。百パーセント真実というわけでもなかったが、なにもかも洗いざらい彼女に話してやる気は、ゾロにはない。
「こんばんは」
ロビンが声をかけると、サンジは萎縮したように背を丸めた。
「こんばんは」
言いながらサンジは、ゾロにもの問いたげな眼差しを投げかけてくる。絶対に質問攻めにされるなと思いながらゾロは、わざとらしく視線を逸らした。
どうしようかとゾロが思っていると、ロビンが、それはそれはきれいな笑みを浮かべてサンジに声をかけた。
「よかったら送りましょうか?」
乗り込んだ後部のシートは、広々としていた。
いつもロビンが乗っているようなすっきりとしたデザインのものではなく、後部のシートを向きあわせにしたフルサイズバンは、どこか無骨な感じがする。
「これ、アンタの車か?」
怪訝そうにゾロが呟くと、ロビンはカラカラと笑った。
「いいえ。フランキーに借りたの」
こういう車は趣味じゃないのと言ながら、ロビンはハンドルを切る。
幅も広ければ全長も長く、明らかにこのバンが国産車ではないことがうかがわれる。
「二人とも、寒くない?」
バックミラー越しにロビンが尋ねる。暖房が入っていたおかげで、車の中はあたたかい。ゾロは胸の傷を庇わなくてもいいことにホッとして、シートに背をもたせかけた。
さっきゾロがオムライスを食べたばかりの赤い屋根の洋館まで、サンジを送り届けるためにロビンは車を運転した。危なげのないハンドル捌きに、ゾロは感心した。女だてらに日々、スポーツカーを乗り回しているわけではないのだ、と。
サンジはというと、始終無口だった。
窓の外の景色をじっと見つめるその様子が、どこか子どものころの自分を思い起こさせる。そうすることで、まるで周囲から自分を遮断しようとしているかのようだ。
一生懸命に外の景色を眺めるサンジの手は、シートの上で寒そうに握りしめられている。
隣に座ったゾロは、そんなサンジの様子を観察する。
すっきりとした頬は暖房のせいか少し赤い。目元も、耳たぶもだ。ほっそりとした首筋は今は寒そうに縮こめられている。少し前にゾロが押しつけたジャケットを着ているものの、いちど冷えてしまった体温はなかなか元には戻らないらしい。
さりげなくゾロは、膝の上に置いていた手をシートの上にだらりと落とした。
ロビンは運転に集中しているらしく、ゾロの動きには微塵も気付いていない。
くしゅん、とサンジがくしゃみをする。
「寒い?」
もういちど、ロビンが尋ねる。
「いえ、大丈夫です」
几帳面にサンジが返している間にゾロは、そっと手を伸ばしていく。
じりじりとした焦燥の後に触れたサンジの白い手は冷たかった。
ぎゅっと握りしめると、驚いて手を引こうとする。それを強引に押さえつけてゾロは、サンジに自分の手のぬくもりをわけてやった。
このまま、ずっと一緒にいられたらいいのにと、ふとゾロは思った。サンジが、エースを好きだろうと関係ない。自分だってサンジのことが好きなのだ。
サンジの家に着くまでゾロは、白く冷たい手をしっかりと握りしめていた。