風見鶏のいる館に着くまでは、あっという間だった。
車が微かな振動を残して停止すると、目の前にはあの赤い屋根の洋館があった。
握りしめていたサンジの手を離すと、ゾロは夢から覚めたような気がした。サンジの手の冷たさ、少しずつあたたかくなっていったあの感覚すべてが、まるで夢のようだ。
それと同時に、昂揚していた気持ちがしゅんとしおれていくのが感じられる。
手を放した途端、サンジとの繋がりが途切れてしまったようだ。
寂しくて、冷たくて、寒い、マイナスの気持ちだけがゾロの中に残り、車を降りるサンジになんと言葉をかければいいのか、それすらわからない。
サンジのいなくなったシートは、ガランとしてひどく広く感じられる。三列シートを向かい合わせにした状態の後部フロアは、空々しい感じがする。フランキーが乗るのなら確かに、これぐらいのスペースはほしいかもしれないが、今、ガランと開いた空間を目にするのは寂しすぎる。
「──ありがとうございました」
ロビンに向かってサンジが声をかけているのが、どこか遠くから聞こえてくるかのようだ。
「じゃあな、ゾロ」
振り返って告げるサンジの表情が躊躇っているように見えて、咄嗟にゾロは声をかけようとした。口を開きかけたところで、ロビンの声がゾロの思考に割って入ってくる。
「そろそろ戻りましょうか」
その声で、ゾロは完全に夢から覚めてしまった。
さっと身を翻したサンジは赤い屋根の風見鶏の家に入っていく。車の窓から見えた風見鶏は、闇に紛れて真っ黒だった。怒っている。何故ここまでのこのことやってきたのだと言いたげに、風見鶏はギロリとゾロを見おろしていた。
心地よい夢は、ゾロから離れてしまった。
もう、手元に呼び戻すことはできない。
シートにもたれたままゾロは、こっそりと溜息をついた。
それまでは感じなかった寒さをふと感じて、ゾロは舌打ちをする。革のジャケットをサンジに貸したままだったことを思い出し、もういちど、ゾロは溜息をついたのだった。
誕生日が近づいてくる。
嬉しくもない誕生日を、どう迎えたらいいのだろうか。
ゾロの誕生日などにロビンは、興味を示すことはないだろう。婚約を解消したとはいえ、いまだにつきあいを続けているフランキーの誕生日すらものの見事に忘れ去り、デートの約束をすっぽかしてしまうような女がゾロの誕生日に興味を示すはずがない。
当面の問題は、サンジだった。
あの男は、自分の誕生日にいつもと同じように料理を作ってくれるのだろうか。甘すぎないケーキと、ゾロの好きな出汁巻き卵の入った重箱を用意してくれるだろうか?
しかし今の自分にはサンジの手料理を受け取る資格は、二重の意味でないはずだ。すっぽかした約束のせいで愛想を尽かされているはずだし、なによりも今のサンジは、エースが好きなはずだ。こんな自分にサンジがなにかしてくれると望むことのほうがどうかしている。
自分はサンジにとって、必要のない人間なのだ。
たいした存在意義もない自分がサンジの周囲をうろついている姿は、さぞかし未練がましく見えることだろう。
自室のベッドに横になったゾロは、じっと暗がりの中でベランダの向こうを見つめている。風見鶏の姿は夜の闇に溶け込んで見えないが、こちらの方角を見つめているような気がしてならない。胸にやましいことがあるから、そう思うのだろうか。
居心地悪そうに寝返りをうつと、ゾロは目を閉じた。
疲れていたのか、すぐにゾロの意識は途切れ、次に目を開けた時にはすっかり夜が明けていた。
翌朝、ゾロが登校してみると教室にはサンジがいた。
のろのろとした足取りでゾロが教室に入っていくと、自席に我が物顔でサンジが座っている。近くの席の級友たちは、上級生のサンジが大きな顔をして居座っていることで、どことなく居心地悪そうにしている。
「お前、忘れてっだろ」
そう言ってサンジは、ゾロの革のジャケットを差し出す。
「おう……悪りぃな」
差し出されたジャケットをゾロが受け取った途端、教室にいた生徒の一部がこそこそと言葉を交わすのが聞こえてきた。
ゾロは眉間に皺を寄せると、そのままくるりと向きを変え、教室を出ていく。
噂話は好きではなかったし、どうでもよかった。たとえその話題が自分のことだとしても、別に構わないと思っている。
それよりもゾロは、胸の痛みを感じていた。
このところの急な冷え込みで、胸の傷跡が疼くのだ。傷が痛むと、入院中のことを思い出してしまう。忘れようと思っても忘れられないのは、なんども入退院を繰り返したからだろうか。
歩きながらゾロは、受け取ったジャケットを制服の上から羽織った。
後ろからサンジがなにか言いながら追いかけてくる。
屋上に行こうかと思ったが、登校中に吹きつけてきた冷たい風を思い出し、昇降口へと足を向ける。その途中で声をかけてきた長鼻の男子生徒に「担任に、調子が悪いから帰ると言っといてくれ」と頼むと、眉間に皺を寄せたゾロの顔に怯えたのか、頷いて足早に教室へと駆けていった。
下駄箱の中から自分の靴を取りだしていると、いつの間にか靴を履き替えたサンジが仁王立ちになってゾロを待ち構えていた。
「さぼんの?」
高校生になってゾロは、授業をサボるようになった。体がついていかない日は無理をしないようにしているだけのことだったし、授業が空いて困るようになるとはロビンに助けてもらっている。しかし今の自分は、なにも知らない人間が見れば、学生としての規律を守らずに好き勝手する不真面目な生徒にしか見えないだろう。
ゾロは眉間の皺をさらに深くして、サンジを睨み付けた。
「用ができたんだ」
そう言ってゾロは、目の前に立ち塞がっていたサンジの体を右腕で押しのけようとする。
サンジは動こうとしなかった。
腕に力を入れると、胸の傷跡が微かに痛んだ。少し力を入れればサンジをどかすことなど造作もないことだ。それなのに、力を入れると同時に傷が痛むのではないかと怯えてしまい、ゾロはそれ以上どうすることもできない。困惑したように手をだらりと脇に垂らしてゾロは、項垂れた。
「……どっか具合でも悪いのか?」
学校を出てのろのろと歩くゾロの後を、つかず離れずの距離を取りながらサンジがついてくる。
不意に尋ねられて、ゾロはドキッとした。
そろそろ、隠し続けるのも限界に近づいているのかもしれない。どうしようかと考えてから、やはり今日のところはいつも通り誤魔化すことにした。
「ああ、少しな」
本当は、少しどころではない。ジャケットを上に着ているものの、なんとなくだった傷の痛みが、先ほどから次第に強くなってきている。
去年の今頃は、部屋でだらだらと過ごしていたから傷跡が痛んでもたいして気にはならなかった。自分のペースでゆっくりと痛みが去るまで適当に休んでいればよかったのだから。しかし今は違う。今の自分は、高校生だ。学校に通い、他の生徒と同じように授業を受け、学生生活を送らなければならない。担任には怪我のことは知らせてあったが、級友には一言も話していない。ゾロが学校をサボりがちなのを級友たちは、ただ単に彼が不真面目だからだと思っているはずだ。
「どこが悪いんだ」
ストレートに尋ねるサンジの声は、硬い。
まるで諸々の事情を知っているかのような様子に、ゾロは立ち止まってサンジを振り返った。
「お前、留年してからぜってーおかしいぞ。前の……俺の知ってるゾロじゃないみたいだ」
今にも泣き出しそうな表情で、サンジは言った。
「いったいどうしたんだよ、ゾロ。なんでお前は…──」
その先をサンジは、続けることができなかった。
ゾロはゆっくりとした足取りでサンジのほうへと近づいていく。手を伸ばし、サンジの唇に触れる。カサカサに乾いた唇だが、下唇は肉厚で柔らかい。
「今は、なにも訊くな」
掠れた声でゾロが言うと、サンジはうっすらと口を開いたまま固まってしまった。
親指の腹でゆっくりとサンジの唇をなぞり、顎に手をかける。心持ち上向けにサンジの顔を傾けてやってから、ゾロは少しずつ顔を近づけていく。
ドキン、ドキンと、胸の鼓動がうるさいくらいだ。
怪我の痛みと、それとは別の痛みとが混ざり合って、ゾロの胸をキリキリと締め付けてくる。
唇が触れるほど、近くに…──
ドン、と突き飛ばされた瞬間、ゾロの目の前が真っ暗になった。
痛みで体が動かない。
数秒遅れて、サンジに胸の傷跡を強く押されて尻餅をついてしまったのだということにゾロは気付いた。
「バカ毬藻!」
仁王立ちになったサンジは、真っ赤な顔をして怒鳴り散らしている。
通行人が怪訝そうな顔をしながら二人をチラチラと眺めている。この近所の人だろうか。
地面に座り込んだ格好のままゾロは、呆然とサンジを見上げていた。上気した頬がほんのりと色づいていて、可愛らしく感じられる。女顔だからではない。自分と同じ男だが、どこか幼い感じがして、いい。子どもの頃のサンジはいつもこんなふうにしてゾロにつっかかってきていたっけ。とても一生懸命で、そこが可愛いと子供心にも思っていた。そんなことを思い出しながら、ゾロは口元に淡い笑みを浮かべた。
「俺がこんなに心配してやってんのに、お前は……」
そのうちに、近年にないほどに怒り続けるサンジの目が赤く潤んでいることに、ゾロは気付いた。
いくつになってもこの男はかわらない。人前では決して泣かないくせに、こんなふうに泣きそうになるほど、自分のことを心配してくれている。
こんなふうに自分のことを心配するように、サンジはエースのことを想っているのだろうか。いや、そんなことはないだろう。そもそもエースは、サンジに心配をかけるようなことはしないはずだ。きっとエースのことだから、サンジを怒らせるよりも、笑わせて穏やかな気持ちにさせてやることのほうが多いはずだ。
怒り続けるサンジを見上げたまま、ゾロはそんなことを考えていた。
ひとしきり怒鳴り続け、息が切れたところでサンジはようやくおとなしくなった。
座り込んだままのゾロに黙って手を差し出す。
ゾロはのろのろと手をのばし、サンジの手を取った。ひんやりとした白い手が、ぎゅっとゾロの手を握りしめ、力を込めて引き上げようとする。
サンジの力を借りてゾロはもたもたと立ち上がった。胸の傷が、キリキリと疼いている。
「お前、本っっ当に、具合悪いだろ」
尋ねられ、ゾロは目を閉じた。
「ああ。少し」
胸の傷跡が疼いている。
ドキドキと動悸を打っているのは、傷跡が痛むのを怖れてだろうか。それとも、サンジの唇に指で触れたからだろうか。
あと少しで、サンジにキスしてしまうところだった。
サンジが、自分を突き飛ばさなかったなら……。
「……帰る」
そう告げた自分の声は驚くほど小さくて、掠れて弱々しかった。