マンションの自分の部屋のベッドにごろりと横になってゾロは、窓の外を眺める。足下には革のジャケットが無造作に投げ出されていた。
今日の風見鶏は自分が思っていたよりも風の力が弱いからか、止まったまま動こうとしない。こちらの方角をじっと見つめて、まるでゾロに睨みを利かせているかのようだ。
罪悪感なら、わざわざ言われなくても持っている。
あの時、自分は何故、触れてしまったのだろう。手を伸ばして、あの赤い唇に触れてしまったのだろうか。かさついたサンジの唇をなぞると、うっすらと開いた口の中にちらりと見えた舌が艶めかしくて、どこかエロチックで、ドキリとした。
触れたい。この手で、この唇で、触れたいと思った。
衝動的に沸き上がった感情を、ゾロは抑えることができなかった。
そんなゾロを風見鶏は、どう思ったのだろうか。
風見鶏は無機物なものだったが、幼い頃からずっと自分とサンジを見守ってきた。だから風見鶏の前では、ゾロは嘘をつくことができない。子どものころの自分も、胸の内の想いも、なにもかもすべてを見透かされているようで、誤魔化すことができないような気がするのだ。
風見鶏に背を向けるようにして寝返りを打つと、ゾロは壁のほうを向く。片腕を枕がわりに頭を乗せて、もう一方の手をじっと見つめた。
自分の手で、唇に触れてみる。サンジの柔らかな唇とは違う。
何故、あんなことをしてしまったのだろうか。
サンジはエースのことが好きで、エースの態度からすると、もしかしたら二人はつきあっているのかもしれない。それなのに自分は、二人の仲を邪魔するようなことばかりしてしまう。昔、親友だった自分の立場を利用して、サンジをいいように振り回しているのではないのだろうか。
もしかしたらサンジは、そんな自分に困っているのかもしれない。親友面して寄ってきたかと思うと、手を握ったり唇を奪われそうになったり、そんなことが続いたらいくらサンジでも逃げ出してしまうのではないだろうか。もう、親友ごっこは止めだと、いつかそのうち、そう遠くない将来に宣言されてしまいそうな気がしてならない。
自分はいったい、どうしたいのだろう。
サンジと、どうなりたいのだろう。
唇をなぞっていた腕を無造作に投げ出すと、拳が壁に当たった。
拳を握りしめてゾロは、今度は軽く壁を殴ってみた。
胸の傷はまだ、ジクジクと痛んでいた。
夕方になって目が覚めた。
腹が減っていた。
そう言えば、登校したもののそのまま帰宅して、何も飲まず食わずで眠ってしまった。ゾロはのろのろとベッドから起きあがる。
頭をボリボリとかきながら部屋を出ると、デジタル表示の時計が薄暗さの割に時間はそう遅くないことを告げている。
レトルトの食事には嫌気がさしたが、食べないわけにはいかない。かと言って外食を続けるだけの余裕もなく、仕方なく電灯のスイッチを入れ、冷蔵庫のドアに手をかけた。
ペットボトルの水を取り出そうとして、胸の傷が痛んだ。
いや、実際には痛まなかったのかもしれない。しかし確かに胸に痛みを感じたゾロは、手にしたペットボトルを取り落としてしまった。
ゴトン、と音を立てて、ペットボトルが床の上を転がった。
自分はこんなにも弱っているのだと思い知らされたような気がして、ゾロは舌打ちをする。
身をかがめてペットボトルを拾い上げようとすると、また取り落としてしまった。握力が弱っているというわけではない。退院して以来、ゾロは無理のない程度に常に体を鍛えている。
ペットボトルを拾うことができなかった手を見て、その手が震えていることにゾロは気付いた。
怖いのだ。
自分は、怯えている。
──なにに?
考えたものの、自分がなにに怯えているのかまではわからなかった。
そのうちに、ロビンが帰ってきた。入り口のドアを開けて、部屋に入ってくる。
「あら、今日は帰ってたのね」
電灯の下で見るロビンの顔は、どことなく疲れているようだ。
「ああ……バイト、サボっちまった」
口に出して言ってからゾロは、自分が学校だけでなくバイトまでサボってしまったことに気がついた。バイトと言っても、フランキーの会社の手伝いだ。事情を知っているから、ゾロの調子がいい日だけという約束になっている。
「別にいいんじゃなくて? 彼なら一人でもなんとかするわ」
さらりと言って、ロビンは冷蔵庫を開けた。
「嫌だ。ビールがないわよ」
ちらりとこちらを見る目が、ゾロを責めている。
「水があんだろ」
そう返すとゾロは、素知らぬ顔で冷蔵庫から離れた。
誕生日の朝、ゾロはいつもより少し早い時間に目を覚ました。
服を着替えると、トーストとコーヒーを腹に詰め込んでマンションを後にする。
前日に叔父夫婦から電話がかかってきた。誕生日を一緒に祝いたいから週末にでも帰ってこないかという誘いの電話だった。しかし今年は帰らないと、ゾロは言った。竹刀を持ちたいと願う気持ちは日々強くなっている。それでもまだ、恐いのだ。事故のことを思い出して、手が震える。胸の傷が、キリキリと痛むような気がして体が竦んでしまうのだ。
だから、帰らないと言った。
叔父夫婦の家に行けば、嫌でも道場が目に入る。竹刀を持ちたいと思うゾロには、道場がすぐ目の前にあることが辛かった。まだ、無理だ。道場で一日中過ごすことができたらと思わずにはいられないが、竹刀を振ることもできない状態では、どうしようもない。
深い溜息をつきながらゾロは、道を歩いていく。
いつもより早い時間にマンションを出たのは、寄り道をしていくためだ。
風見鶏の丘へと続く道を歩きながら、ゾロは空を仰ぎ見た。
雲ひとつない青空が広がっている。少し前まではひんやりとして寒い日が続いていたというのに、今日はやけに暑い。夏の制服でもいいのではないかと思われるほどの気候に、ゾロは顔をしかめた。
通りを越えて山道に入ると、剥き出しの土の階段が続いている。ゾロは一段飛ばしに階段をあがった。
丘の向こうにちらりと見える風見鶏に、自然と口元が緩んでくる。
ここだけは、昔からかわらない。
階段をあがりきった奥には、しだれ桜がゆらゆらと枝を風に遊ばせている。そしてその向こうの景色に溶け込むようにして、風見鶏が見えた。
ここに来ると、ホッとする。
ここにいると、子どもの頃のままの気持ちでいることができた。
お気に入りの定位置に、ゾロは腰をおろした。今日は地面を冷たく感じることもない。
鞄を枕にしてゴロリと横になると、すぐに眠気が襲ってきた。
尻ポケットに入れた携帯が、ブルブルと震えている。
片目を開けてゾロは体の向きをかえた。のろのろと手を動かして、ポケットから携帯を取り出す。
「あ?」
電話に出た途端、ゾロはしまったと思う。サンジからだった。
「……お前、今どこ?」
怒っている。
また自分はサンジを怒らせてしまったと思いながら、ゾロはあたりの景色にさっと目を馳せた。
「……風見鶏の丘」
横になったらつい、うたた寝をしてしまっていた。そんなに時間は経っていないはずだ、ちょっと目を閉じただけだ。そう言おうとして口を開けた途端、電話の向こうから怒鳴られた。
「なんでそんなとこにいんだよ? 今、何時だと思ってる??」
サンジのきつい口調に、ゾロはボリボリと頭を掻く。
中学を卒業してロビンと暮らすようになって、携帯を買い与えられた。叔父夫婦は高校進学のお祝いに腕時計でもと言っていたが、ゾロは断った。持たされた携帯に時計がついているから、それで充分だと思ったのだ。まさかこうして通話中に時間を尋ねられるとは思わなかった。
「今、何時だ?」
おそるおそる尋ねると、今は昼休みだとサンジにまた怒鳴りつけられる。
そう言えばと、ゾロは腹のあたりを空いているほうの手で撫でつけた。腹が減っているような気がする。今朝はトーストだけだったから、家を出る時から実は少し物足りない感じがしていた。食べ損ねた昼食をどうしようかと考えていると、受話器の向こうからサンジが言った。
「そこ、動くな。ぜってーそこにいろよ!」
ゾロが言葉を返す前に、電話は切れていた。
しばらくサンジを待っていたが、また眠気が差してきたのでゾロはゴロリと仰向けになった。
空が青い。
目を閉じると、子どもの頃の懐かしい記憶が不意に脳裏に浮かび上がってくる。
ここに来てはサンジの拙いお手製の弁当や、菓子を食べた。二人で宿題をしたり、他愛のない話をしたり、ただ流れていく雲を眺めて時間を過ごした。少しずつ二人は成長した。それぞれの時間が過ぎて、気付けば別々の時間を過ごすようになっていた。
目を閉じているというのに照りつける光が眩しくて、ゾロは額に腕を乗せて目隠しがわりにした。
風が吹いて、しだれ桜の枝葉がざわざわと騒ぐ。
向こうに見える風見鶏が、風に吹かれて軽快にクルクルと回っていた。
階段を上がってくる人の息づかいと足音に、ゾロは目を覚ました。
日差しのおかげで体が温もり、傷跡が痛むことはなかった。それでもそろそろと気をつけて上体を起こすと、ちょうどしだれ桜の葉影の向こうに人の姿が見えたところだった。
「サンジ?」
驚いて、声を出してしまった。
滅多に学校をサボることのないサンジが丘の入り口に立っている。よほど急いで来たのだろう。少し息を切らし気味にして、じっとこちらを見ている。
「……昼飯、食ってねーだろ」
憮然としてサンジが言うのに、ゾロは微かに頷いた。
「弁当、作ってきたから」
すたすたとゾロの前までやってくると風呂敷を解き、二段重ねの重箱をサンジは広げ始める。ゾロの好きな出汁巻き卵、里芋の煮っ転がし、昆布巻きと続き、天ぷらの詰まった一段目に、二段目は栗の入ったおこわと鰤の照り焼きが詰め込んである。どれもゾロの好きなものばかりだ。これをサンジは学校へ持って行ったのかと思うと、感心せずにはいられない。
「今日、お前の誕生日だろ」
唇を尖らせて、サンジはつっけんどんに言い放つ。それから、ふっと表情を緩めて笑った。
「ケーキはないけど、お祝い事だから朝から赤飯炊いたんだぜ。お前、ケーキあんま好きじゃないだろ」
そう言われて、ゾロは口の中にケーキのあの甘ったるい味を思い出した。確かにそうだ。ケーキよりも、赤飯や天ぷら、出汁巻き卵のほうがゾロにとっては好物だった。そのことをサンジは、覚えてくれていたのだ。
「ローソク、歳の数だけ立てるか?」
尋ねられて、ゾロは顔をしかめる。
「赤飯にローソクかよ」
眉間に皺を寄せて返しながらもどことなく嬉しそうなゾロに、サンジはニヤリと笑った。
「いーじゃん。祝ってやる、って言ってんだから」
そう言うが早いか、サンジは鞄の中から蝋燭を取り出した。ほっそりとしてカラフルな蝋燭を、サンジは赤飯の上にそっと立てる。それからポケットの中から百円ライターを出してくると、蝋燭に火を点していく。
「ほら、一息で消すんだぞ。失敗すんなよ」
赤飯の上の蝋燭をさして、サンジが告げる。
「おう」
答えてゾロは、蝋燭の火を一息で吹き消した。
「ハッピーバースディ、ゾロ」
サンジの言葉と同時に小さなクラッカーが鳴り、紙吹雪がゾロの目の前に飛び散った。ひらひらと、赤や青や緑の細い紙テープがゾロの髪に、肩に、降り注ぐ。
ゾロの心の中の小さなしこりもその瞬間、弾け散った。
これまでサンジに対して持っていた、約束を破ってしまったという負い目が、ほんの少し、軽くなったような気がした。