翌日、ゾロは目の上を腫らしたまま登校した。
あれこれと立て続けに起こったからだろうか、かえって腹が据わったような気がする。
もう、サンジとエースが一緒にいるところを見ても何も思わなかった。
「よ」
校門の手前でサンジが気付くよりも先に、ゾロのほうから声をかけた。
これまでなら、サンジのほうから声をかけるのが常だった。ゾロのほうから声をかけるのは何となく憚られて、サンジの姿を目にすると同時にいつも視線を逸らしていたのだ。
「お…はよ」
驚いたようにサンジがこちらを見ている。
「男前じゃん」
からかうようにエースが声をかけてくるのに、ゾロは迷惑そうに顔をしかめてみせる。お前だって頬を腫らしているだろうと軽く睨み付けてやると、からかうようにニヤリと笑われた。
サンジは、ゾロとエースの二人を見比べては怪訝そうな顔をしていた。昨日の朝はどうしようもないほど落ち込んだ顔をしていた。目の縁がわずかに赤かったから、もしかしたら人知れずどこかで泣いたのかもしれない。今朝もまだなんとなく赤い。泣かせてしまったのは自分だが、今さら取り繕ったところでどうしようもない。
「今日の昼飯、出汁巻きあるか?」
素知らぬふりをしてゾロが尋ねると、サンジは「ある」とふて腐れたようにムッとした表情で返した。
「じゃあ、昼休みにいつものとこな」
そう言うとゾロは、さっさと自分の学年の下足箱へと向かう。
昨日、エースと取っ組み合いの喧嘩──殴り合いではない──をして、ゾロは気付いた。どうして今まで、自分の感情を押し殺そうとばかりしていたのだろうか、と。両親が亡くなり、自分の気持ちを押し殺し、叔父夫婦の顔色をうかがって過ごしてきた。事故の負い目を持ったロビンの負担にならないように、ゾロなりに気遣って過ごしてきた。自分が悪いわけではないが、そうしなければ、自分の居場所がなくなってしまうような気がしていたのだ。現実はそうではなかった。皆が皆、ゾロのことを気にかけてくれていた。エースだってそうだ。相変わらずゾロの気には入らない男だが、彼なりにゾロのことを認め、心にかけてくれていた。周囲の様子に気付かなかった自分は、なんと鈍感な人間だったのだろうか。これではサンジがゾロの側から離れたいと思っても当然ではないか。
だから、もうやめることにした。自分の殻に閉じこもって、マイナス思考でいるのは止そうとゾロは思った。
久々に真面目に出席した授業は所々わからないところがあったが、週末にでもロビンに教えてもらえばいいだろう。どうせこの生活にも、もう少ししたら終止符が打たれることになる。それまではせいぜい周囲に甘えさせてもらえばいいだろう。
昼休みのチャイムが鳴ると、ゾロは珍しく駆け足で屋上へと上がった。
一番乗りに気をよくして、コンクリートの上に無造作に腰をおろす。冬とはいえ、このところ日差しの柔らかな日が続いており、風も爽やかだ。
階下へ降りるドアのところにサンジとエースが姿を現した時も、ゾロの機嫌はこれまでにないほど良かったのだ。二人に向かって手を振ることまでした。
それが、尻ポケットに入れた携帯が珍しく着信を告げた途端、嫌な感じがした。
眉間に皺を寄せてポケットを探ると、携帯を取り出す。通話ボタンを押した途端にフランキーの声が聞こえてきた。
『引っ越し、いつするんだ?』
いきなり、フランキーはそう尋ねてきた。
「あ?」
不機嫌全開のゾロの声に気付いたのか、ちらちらとサンジが様子をうかがっているのが感じられる。
「あー……いや、まだちょっと……」
どう返そうか、ゾロは逡巡した。
まだ、詳細は決めていない。夕べのうちにロビンとは軽く話し合ったものの、細かいところまで詰めることができなかったのだ。
それに、近くにサンジがいる。まだ決まったわけでもないのに、サンジの前で引っ越しの話はしたくはなかった。
『だけど、そのうち必要になるんじゃねーのか? うちなら格安で引き受けてやるぞ』
そう言われたものの、すぐにその話に飛びつくことはできない。
「いい加減にしろよ。そーゆー話はアイツに相談しろよな、オッサン」
『そりゃ、そのほうが早いだろうが……』
ぐだぐだと受話器の向こうでフランキーがごね始める。悪い奴ではないのだが、いちどごね始めるとしつこいのが難点だ。マシンガンのように何やら喋り始めたフランキーを、ゾロは怒鳴りつけた。
「だー、もう、しつこいな。引っ越しは延期だ、延期。話詰めるから待てっつってるだろ!」
携帯の電源ごと落として通話を終わらせてからゾロはハッとした。
眉間に皺を寄せたサンジがじと目でゾロを睨んでいた。
「引越しすんの?」
尋ねかけるサンジの唇が、微かに震えている。
はあ、とわざとらしく溜息をついたゾロは、ちらりとエースに視線を向けた。しかし今回ばかりはエースも助けてはくれなかった。素知らぬ顔をしてエースは、サンジの特製弁当を摘んでいる。
「引っ越し……するかも、しれねえ」
多分と、ゾロは言った。
引っ越すのは十中八九間違いない。ロビンが、とうとうフランキーと結婚する決心をしたのだ。どこでどういったやりとりがあったのかは知らないが、できることならゾロの春休み中に引っ越しをしてもらいたいと昨夜、言われた。
急な話だと思ったが、少し前から結婚を考えていたのだそうだ。よくよく話を聞くと、子どもができたからだと言っていた。籍は年明け早々に入れてしまって、ゾロの引っ越し前後に式を挙げる予定をしていると、ロビンは言っていた。それよりも後になってしまうと、お腹が膨らんでくるからドレスが着れなくなるというのがロビンの言葉だった。
勝手にしろとゾロは思った。ロビンやフランキーがどうしようが、自分には関係ない。
しかしマンションを出るとなると、叔父に連絡をして近々戻ることを話しておかなければならない。少し遅い時間だったがまあいいかと叔父に連絡を取ったところ、引っ越しどころではなくなってしまった。
と、いうのも、ゾロの部屋はこの春から、叔母のほうの遠縁の娘が使うことになったからだ。たしぎという名の女子大生らしい。生きていれば、くいなと同じぐらいの年になると叔父は言っていた。
そういうわけなので、引っ越したくても引っ越すことができないのが実情だったりする。
だから、多分、なのだ。
「かもとか多分てなんだよ」
そう言って顔をしかめるサンジの目は、どことなく怯えているように見えないでもない。何を恐がっているのだろうか、この男は。
「行き先が決まらねーからだよ、ターコ」
軽くサンジの額を小突いてから、ゾロは立ち上がる。居心地が悪くてたまらない。やっぱり学食で何か適当に食べようと屋上を後にする。出汁巻きを食べられないのは残念だが、サンジのことが気にかかって、一緒に昼を食べる気にはなれなかった。
のろのろとした足取りで階段を降りて行くと、バタバタと騒がしい足音がゾロを追いかけてきた。サンジだ。
「待てよ……ゾロ、待てって!」
階段の上段から大きく身を乗り出して、サンジが声をかけてくる。
「いつだよ?」
「あ?」
立ち止まってゾロは、サンジを見上げた。
「いつ、引っ越すんだよ?」
怒ったような眼差しでサンジは、ゾロを睨み付けている。
言葉を発するたびに、唇が動いている。触り心地のよさそうな唇だ。
今度こそ置いて行かれないように、音信不通になってしまわないように、必死になってサンジはゾロの後をついてこようとしている。そんなふうに見える。
「だから、マンション出て行くとこっつったら、叔父貴ンとこしかねーだろ」
やや唇を尖らせてゾロが言うのに、サンジはムッとして返した。
「じゃあ、叔父さんちに戻んのかよ」
そうだとは、即答できなかった。
眉間に皺を寄せたままゾロが黙りこくってしまうと、サンジはさらに手摺りから身を乗り出してきた。
「お前……どこに引っ越す気だよ!」
そう言ってサンジが手摺りにぐい、と体重をかけた途端、細っこい体がぐらりと揺れた。
「危ない!」
咄嗟にゾロが腕と肩とを下から支えなければ、サンジはそのまま頭から転落していたかもしれない。ぐっと力を込めてサンジの肩を押しやると、そこから後は自力で体勢を立て直すことができたようだ。手摺りのぎりぎりまで相変わらず乗り出したままで、サンジは尚も尋ねてくる。
「マンションでもない、叔父さんちでもないとこって、どこだよ?」
そんな都合のいい場所があるわけないと、ゾロは言い返そうとした。いちどは口を開けたものの、すぐに口を閉じた。それから、まだ掴んでいたサンジの腕を軽く引っ張って、ほっそりとした体を引き寄せた。
「なんだよ、黙ってねーで……──」
言いかけたサンジの唇を、唇で塞いだ。
出汁巻きの味も、昔いっしょに食べた甘い焼き菓子のにおいもしなかったが、柔らかな感触だけがゾロの唇に残った。
「この間の告白な、あれ、三十点ぐらい。もうちょっとウマい告白ができたら、どこに引っ越すか教えてやる」
そう言ってゾロは、カラカラと笑った。
何故だか楽しくて嬉しくて、たまらなかった。
いきなり笑われたサンジはわけがわからず、不機嫌そうな顔をしている。それでも構わなかった。急に視界が開けて、目の前がくっきりと見えるようになったような気がしてゾロは、久しぶりに声をあげて笑った。