空気はほのかな甘さをふくみ、優しく頬をなでる。どこもかしこも暖かな色彩に衣替えをして、緑に溢れている。春爛漫だ。丘にある桜も学校のロータリーを彩る大樹も満開に咲き乱れ、誇らしげに枝を揺らす。
ゾロと再会して一年が経とうとしていた。早いものだ。いや、どちらかといえば長かった。ほとんどが膠着状態で過ぎ去り、その間ずっと、悩み落ち込むのを繰り返していた。負のスパイラルに陥り、当たり前に隣にいた頃を懐かしく思い出しては羨んでばかりいた。終わりが見えなくて、でもそんな日々を終わらせたくて、必死に足掻いた。けれど空振りばかりでちっとも前に進めなかった。
望んでいたのは子供時代の関係か、それとも別の新たな関係だったのか。じたばたしていた時は子供の頃のようにとそればかりだったが、いま思えば、欲していたのはもっと違うものだった。玉砕覚悟の体当たりはどういう訳か跳ね返って戻された。それからが早かった。
屋上で寝転がって、サンジはゆるやかに泳ぐ雲を見上げた。片手を頭の後ろにやり、反対の手でマルボロをはさむ。膝をたてるように足を組んで、踵をふんだ上履きをリズムをとって揺らす。目をつぶると風の音がして、自然と口端があがる。強い北風はなりをひそめ、春になったのだと実感する。
ここのところ、ゾロのことばかり考えている。といっても、サンジの頭の中は再会してからずっと彼でいっぱいなのだが、そうではない。そうではなくて、思い出すのは、あのキスシーンだけだった。近頃のゾロはずいぶん明るくなった。おしゃべりになったりゲラゲラと声を上げて笑うわけではないが、なんというか、そう、眼差しがとても穏やかになった。目を細めたり口元をゆるめたり、そういった些細な仕草がふいに大人びて見え、その度にサンジをドキリとさせた。
一瞬のくちづけはだんだんと記憶を曖昧にしていく。あの時のゾロの瞳はよく覚えているのに、唇の感触をはっきりと思い出せない。まるで溶けてしまったように儚く感じる。サンジは煙草を持った手の甲で口をおさえた。こんなに硬くなくて、もっと温かくて弾力があった気がするが、単にサンジ自身の想像かもしれない。もう忘れてしまいそうだ。
胸がぎゅっと痛くなって、切なくなる。もしかしたら夢を見ていたのだろうか。ゾロとそうしたいと思う気持ちがあったのだろう。そのゾロはといえば、本当に何事もなかったよう接してくる。だからやっぱり、自分の願望が見せたリアルな夢なのかもしれない。
サンジはちょっと恥ずかしくなった。思い込みでキスする夢を見るなんて、どれだけ欲求不満なのだろう。いやしかし、あんなに現実のような夢があるだろうか。まばたきを忘れてしまうほど間近で見つめ合った。ゾロの呼吸が温かかった。頬に一気に熱が集まる。屋上には自分だけしかいないが、真っ赤になった顔を両手で隠した。
「あっち…!」
中指と人さし指に熱を感じ、手を払って起き上がった。一人悶えている間に煙草がフィルターぎりぎりまで短くなっていたようだ。火傷をしていないか確かめてから、大きなため息をついた。なんでこんなに悩まなくてはいけないのだ。どうせゾロはこんな春の陽気に寝ているに違いない。授業も関係なくあどけない表情をさらしているだろう。昔から無愛想であったが、寝顔だけは歳相応だった。それを思って、再び深いため息をつく。
向こうは告白されるのを待つだけだから、すいぶんいいご身分だ。なんだか割に合わない。なぜならこれだけ思い悩んでも、ゾロが合格をくれなければ意味がないのだ。点数が足りなければまたやり直しなのか、それともチャンスは一回きりなのか。幼なじみのよしみで融通をきかせてくれたりはしないのだろうか…。
「だあー!バカじゃねえの!融通ってなんだよ!」
「うんうん、融通ってなに?なんの話?オニーサンに教えてみ?」
「ぎゃあ!エース!!」
思いもよらぬ頭上からの返答にサンジは心底驚いた。屋上には誰もいなかったはずなのに、音もなくエースが現れた。後ろを見れば扉が半開きになっている。もう一度うえを見ればそこに彼はいなくて、今度は隣に座っていた。
「おま、声かけろよ。ビビんだろ!」
「かけたって。でもサンジ、顔赤くしたり、煙草で火傷しそうになったり、奇声発したり忙しそうだったから」
「そっから?!」
もう嫌だ、と膝に顔を埋めた。そんな間抜けな姿を目撃されていたなんて、情けなくなる。ほかに何か変なことを口走っていない事を祈るのみだ。サンジの耳が染まっているのを苦笑して、エースは彼の頭にぽんと手をのせた。それからぐしゃぐしゃにかき混ぜる。
「もう授業おわったぜ。帰ろ」
「…なんも聞かねえの?」
「教えてくれんの?」
やっぱりエースは優しいと思った。無理やりではなく、サンジが話しやすい流れを自然に作ってくれる。それはたぶん、サンジが本当は話したいと知っているからだ。一人でいくら考えたって答えはでない。話したからそれが分かるなんてことでもない。サンジが自分できちんと答えを出さない限りこのままだ。それでも、エースならきっと助言をくれる。サンジの本心を理解して勇気をくれる。肩の触れ合う距離で、横をうかがえばにこりと笑う彼に、サンジはここ最近の自分を悩ませていことすべてを打ち明けた。
「え、それナニ悩んでんの?」
「聞いとけよ!」
「つかチュウした時点で気づけよ。あのゾロが挨拶でキスするか?そんなのキモチわりいだろ」
そんな、身も蓋もない。そりゃ、友人だからといって誰かれ構わずキスしているゾロなど想像できないししたくもないが。
「…キスは俺の思い込みかも」
どこか気まずそうな憮然とした表情のサンジに、エースはいたずらに口角をあげた。
「じゃあ、試してみる?」
「あ?なにを?」
キスしたかどうか、という彼の言葉に抵抗する間もなく、肩をひかれたサンジは唇に温かくしめった感触を覚えた。驚きすぎて体が動かない。目が、閉じられたエースのまぶたがゆっくりと開かれるのを映している。明るい瞳に捉えられ、反射的に彼を押しのけた。急いで口をぬぐう。そうしてる間にエースは笑って立ち上がった。
「エース!」
「先帰ってる」
「なんだよいまの!」
「相談料~!」
じゃあな、といつもの調子で消えていった彼を見送りもできずに、サンジは呆然となった。ゾロの相談が何故エースとのキスになったのか。考えれば考えるだけ迷宮にはまりそうだ。悩みが解決したのか増えたのか分からない。呻いて、その場に仰向けに倒れた。
ドキッとした。サンジを見下ろすように、明らかに不機嫌なゾロが立っていた。
「エースと何やってた」
どうやら悩みは尽きないらしい。あとからあとから難題を抱えてやってくる。覚えとけよ、とすでにいなくなってしまった親友に悪態をつき、サンジは途方に暮れた。