殺風景な部屋をぐるりと見回し、ゾロは唇の端をつりあげニヤリと笑う。
春休み初日に引っ越しをしたものの、荷物は解かずに放置してあった。
どことなく堅苦しい雰囲気のロビンのマンションを出たゾロは、幼い頃に両親と暮らしたあの家へ戻ってきていた。引っ越しは、結婚式を翌日に控えたフランキーの手を借りた。
引っ越しが終わり、ロビンとフランキーの結婚式が終わった翌日には、ゾロは気持ちの整理をするため、叔父夫婦の家に向かった。朝から晩まで道場で過ごし、叔父夫婦と少し前から居候をしているたしぎとゾロの四人で食卓を囲んだ。怪我のせいでここしばらく、体を動かすことをやめていた。だらけきった怠惰な体を鍛え直すため一心に竹刀を振るう。春休みはそんなふうにして過ぎていった。
春休みが終わる前日の早朝に、ゾロは風見鶏のある街に戻ってきた。
見慣れたはずの景色が、どことなく違って見える。
フラフラと歩きながら自分の家に戻ると、自分の家ではないような感じがした。
マンションに置いてあった荷物は少ししかなかった。叔父夫婦の家に置いていた荷物も、たいしてない。久しぶりに入る自分の部屋は何もなくて、窓の形に日焼けした畳がどことなく寂しい。
自分一人しかここにはいないのだと思うと、不思議な感じがする。
自分がこの家から遠ざかっている間に、部屋のそこここは片付けられ、知らない空間になっていた。叔父夫婦が、時間のある時に立ち寄っては少しずつ片付けてくれていたらしい。
ただそこにある空気だけが、懐かしいにおいをほんのりと含んでいるだけだ。
運びこんだ荷物はそのままに、ゾロは新しい生活を始めることにした。
ここは自分の家だとわかっていても、どことなくしっくりとこないような気がする。
何が足りないのだろうか。
自分には、何が必要なのだろうか。
色褪せた畳の部屋にゴロリと横になって、窓際から見える風見鶏をぼんやりと眺める。
今日は風があまりないからか、風見鶏はつまらなさそうに一方をじっと見つめたままだ。
ゾロは、小さく溜息をついて目を閉じた。
空腹を感じて目を覚ました。
どうやら風見鶏を眺めている間にうとうとしていたようだ。
まだ眠い目をごしごしとこすりながら、階下へとおりていく。そんなに長い時間うたた寝をしていたわけではないが、時間を見ると昼少し前だった。
誰もいない家というのが不思議な感じがする。子どもの頃には母がいて、いつも忙しそうにしていた。台所で料理をする母は、楽しそうだった。父は寡黙な人だったが、剣道が好きなゾロを応援してくれていた。両親のいない家はどこか自分の家ではないような感じがしてならない。
階段の一番下に辿り着いたところで、ぐぅ、と腹が鳴った。
と、同時に、玄関のシューズボックスの上に置きっぱなしになっていた携帯が目に入る。
携帯を手に取ると、ゾロはジーンズの尻ポケットに無造作に突っ込んだ。後で充電をしておこう。確か、引っ越しの後にここに置いてから、それっきりだったような気がする。
大きく口をあけてあくびをひとつすると、ゾロは台所へと足を向けた。
冷蔵庫の中は空っぽだった。当然だろう。低い電気の流れる音だけが響いている。レトルトの食品を買い込みに行くか、デリバリーを頼むかでしばらく悩んでから、ゾロは携帯をポケットから引きずり出した。
電源を入れる。隅っこの充電量を示すマークを見ると、通話一回分ぐらいなら使えそうだ。
迷うことなく指が、サンジの携帯番号を探している。
ボタンを押すと、コール一回でサンジが出た。
「もしもしっ!」
急き込んだような声に、ゾロは顔をしかめる。
どう言ったものかと思いながら口を開きかけたところで、また腹の虫が騒いだ。電話の向こうにまでその音が聞こえたのか、呆れたような溜息が聞こえてくる。
「……お前、今どこ」
抑え気味のサンジの声に、ゾロは少し安心した。
「腹減った」
正直に今の気持ちを告げる。続く言葉をどう告げようかとゾロは考える。自分が今いる場所を、どうやって教えようか。
「メシ、ちゃんと食ってるか?」
サンジが尋ねかけてきた。
心配してくれているのだと思うと、それだけで胸の奥がじわんとあたたかくなる。ゾロは口元に笑みを浮かべて、小さな子どものように訴えた。
「朝飯、食いっぱぐれた」
ポソリと呟くと、会話に間が空いた。携帯が、ピーと音を鳴らす。充電が切れかけてきたようだ。
携帯の向こうでサンジはきっと、あれこれ考えているはずだ。あの黄色いヒヨコのような頭で、いろんなことを考えているに違いない。
「……今、どこ」
今度は少し苛立ったような声色で、尋ねてくる。
「家にいるから、作りに来い。お前の出汁巻き、久々に食いてえ──」
言っている最中に、携帯の電源が落ちた。
サンジには、ちゃんと伝わっただろうか?
自分の居場所がここだということを、サンジはあの短い会話から理解してくれるだろうか?
伝わらなかったら伝わらなかったでまあいいかと、ゾロはまたあくびをした。
腹は減っていたが、サンジがきっとここへ来てくれるだろうことを考えて、荷ほどきもしていない段ボールの箱が並ぶリビングで、ゴロリと横になる。
窓の向こうにちらりと見えた風見鶏は、楽しそうに風と戯れているところだった。
一時間もしないうちにサンジがやってきた。
急かすようにインターフォンを鳴らされ、仕方なしにゾロはのろのろと玄関口へと出ていった。
「……んだよ、うるせぇな」
ブツブツと文句を言いながら玄関のドアを引くと、両腕にいっぱいの荷物を抱えたサンジがいた。
鮮やかなインディゴブルーのパーカーは、サンジの瞳の色をいっそう明るく見せている。
一瞬、ドキッとしたものの、すぐにそれを押し隠してゾロはサンジを家の中へと招き入れた。
「てめっ、帰ってんなら帰ってるって、教えろよ」
膨れっ面のサンジは、歳よりも幼く見えた。
口の中で「悪い」と呟いて、サンジの後をついて家の中へと上がる。
子どもの頃に何度か来たことがあるからだろうか、迷うことなくサンジは台所へと足を向けた。キッチンのテーブルに持ってきた荷物を置いたサンジは、まず冷蔵庫のドアを開けた。
「いつからここにいるんだ?」
中が空っぽなのを確かめながらサンジは尋ねる。
「引っ越したのは式の前日だな」
結婚式前の新郎をこき使うのかと、散々ロビンには嫌味を言われた。向こうは向こうで新居への引っ越しが重なっていたのだ。それでもフランキーは快く、ゾロの引っ越しを手伝ってくれた。と、いうのも、手伝わないことには自分たちの新居にスペースが空かないのだから仕方がなかったのだろう。
「じゃあ、休み中ずっとここにいたのか……?」
訝しげにサンジは尋ねた。何故もっと早くに知らせてくれなかったのだと、目が怒っている。
「いや、叔父貴ンとこに行ってた。向こうに置いてる荷物も持ってきたかったし、ずっと道場で寝泊まりしてた」
何やら料理の用意をしているサンジの後をついて歩きながら、ゾロは言った。
春休み中、叔父の家では道場の片隅に布団を持ち込んで生活をしていた。以前にゾロが使っていた部屋にはすでにたしぎの荷物が入っていたし、わざわざ客間を使うのも気が引けた。どうせ道場で体を鍛えるつもりだったからと、布団を持ち込んで一日中竹刀を振っていたのだ。
「うえぇ、塩も砂糖もねえ……」
何やらブツブツと呟いて、サンジはテーブルの上に置いた荷物を冷蔵庫にしまい直したりと忙しそうだ。
「スーパーまで行ってくっから、少し待ってろ」
そう言ったサンジの腕を、ゾロはぐい、と引いた。
突然のことに、よろけたサンジがゾロのほうへと体重を預けてくる。
「塩も砂糖もいらねえ」
自分よりも華奢な体を腕に抱き込んで、ゾロは耳元に囁きかけた。
首筋に鼻先を押しつけ、においをかいだ。昔のまんま、消毒用石鹸のにおいがうっすらとにおっている。
小さく笑うとゾロは、耳の後ろの髪に隠れて目立ちにくいあたりの柔らかな皮膚をやんわりと吸い上げた。チュ、と音を立てて唇を離すと、ほんのりと朱色に色付いていた。
満足そうに喉を鳴らしてから、腕を解いた。
腕の中からするりと逃げ出したサンジの頬は、ほんのりと赤かった。
「塩も砂糖も醤油もねえだろ。買いに行ってくっから」
ぶっきらぼうにそう告げると、耳の後ろのあたりを無意識に擦りながらサンジは台所を後にする。
のんびりとした足取りでゾロは、サンジの後をついて玄関へと行く。
「荷物、持ってやるよ」
先に靴を履いていたサンジの後を追うように、ゾロもスニーカーをひっかける。
「当たり前だ」
照れているのか、少し俯き加減にサンジは言い放った。
玄関のドアを開けた途端にさあ、と風が吹いてきて、サンジの金髪がふわりと揺れる。耳の後ろにつけた所有印がちらりと見えて、ゾロは密かにほくそ笑んだ。
二人は無言で近所のスーパーへと向かった。
正直なところ、ゾロには何が足りなくて何が必要なのか、さっぱりわからなかった。そんなに足りないものが多いのならレトルトでもいいと言いかけたが、それを言葉にすることはサンジが許さなかった。
結局、調味料やら茶葉やら、ゾロにしてみれば普段は使わなさそうなものをサンジはたっぷりと買い物籠に放り込み、それらを強引に買わされてしまった。
こんなに買っても使わなければ意味がないではないかとムッとしながらゾロは会計を済ます。
籠の中のものをスーパーの買い物袋に詰め直すと、最初に言ったのはお前だからと荷物をすべて押しつけられてしまった。
仕方なく荷物を手に提げてゾロは帰り道を歩き出した。
「あ……」
歩き出してすぐに、サンジが小さく声をあげた。
「あ?」
振り返ると、何やら思い出したのか、サンジはスーパーのほうを振り返っている。
「忘れもん! 先、帰っててくれ」
そう言うとサンジは、スーパーへと元来た道を駆け足に戻っていく。
忙しいやつだと思いながら、ゾロはのんびりと歩き出した。ゆっくり歩けば、そのうちサンジも追いついてくるだろうと思ってのことだった。
家までの道を半分ほど行ったところでサンジが追いついてきた。
パタパタと駆け寄る足音に、ゾロは子どもの頃のことを思い出していた。あの頃とかわらない足音が、懐かしい。
「悪りぃ」
そう言って追いついたサンジの手には、アイスバーが握られていた。
「なんだよ、それ」
ちらりと横目でアイスバーを盗み見て、ゾロは尋ねる。
「お遣いのお駄賃」
ニヤリと笑ってサンジは返した。
クランチチョコレートでコーティングされたアイスバーを振り回して、サンジは嬉しそうにしている。
「ちゃんと買い物しただろ?」
褒めてくれと言わんばかりの笑みを浮かべてサンジが言う。
料理のことがさっぱりわからないゾロにしてみれば、サンジがいると安心して任せておける。しかしたった今買い込んだこれらの食材や調味料を、今後どうしろというのだろう。ゾロはしかめっ面をサンジのほうへと向けた。
「なんだ、欲しいのか?」
的はずれなことを尋ねながらサンジは、ニヤリと笑う。
「はい。アーンてしてみ?」
目の前に、アイスバーを突きつけられた。
戸惑っていると、唇にひんやりとした感触が押し当てられる。
「ほら、さっさと口開けろよ。溶けてくっだろ」
唇をアヒルのように尖らせて、サンジが言った。
観念したゾロは口を開けて、アイスバーを申し訳程度に囓った。甘かった。甘ったるいチョコの味と、中のバニラの味とが口の中に広がった。
「甘い……」
思いきり顔をしかめてゾロが呟くと、サンジはケラケラと声をあげて笑った。