台所ではサンジが何やら料理を作ってくれている。出汁巻きは絶対に作ってくれるはずだが、他には何を作ってくれるのだろう。
機嫌がいいのか、サンジの鼻歌が聞こえてくる。微かに耳に届くサンジの鼻歌をBGMに、ゾロは二階の自分の部屋へと戻った。放置したままの荷物をひとつひとつ解いていく。サンジに言われたのだ。いつまでもそのままにしておくな、と。
置いてあった箱の半分は片付けた。次の箱を開けたはいいがどこへ片付けようかと段ボールの中へと手を伸ばしかけたところで、サンジが廊下から顔を出した。
「昼飯、できたぞ」
顔を上げ、ゾロは作業を中断すると台所へとおりていく。
階段をおりる時にふと視線を下ろすと、前を歩くサンジのつむじが見えた。愛しいと思わずにいられない。これは男で、自分も男だ。しかしそんなことなどどうでもよくなってしまうぐらいに自分はサンジのことを好いている。つむじにじっと見惚れているうちに、階下についてしまった。
ゾロは、右手の中指と人差し指とで下唇にさっと触れてみた。さっき、サンジの耳の後ろに触れた時に唇に移った体温が微かに残っているような気がする。サンジに触れるチャンスは、まだあるだろうか? 触れても、サンジは嫌がらないだろうか?
居間のほうからは、出汁巻きのいいにおいがしていた。ワカメのスープと高菜の炒飯が並んだ食卓に、忘れていた空腹が蘇ってくる。ぐぅ、とみっともなく腹が鳴る。考えたら、昨日の夜に夕飯を食べてから何も口にしていないのだから当然だ。今さら思ったところで仕方がないが、いくら早朝に叔父の家を出るにしても、朝食ぐらいは食べさせてもらっておくべきだったとゾロは思った。
「あたたかいうちに食おうぜ」
サンジの言葉を合図に、ゾロは出汁巻にかじりついた。
昼食の後は、残っていた荷物を二人で片付けた。
たいした荷物ではなかったはずだが、やはり片付けるとなると時間がかかるらしい。ああでもない、こうでもないと二人で言い合いながら、荷物を解いていく。
この家を出ていった時はバタバタしていて、何がなんだかわからなかった。取るものも取らず、叔父夫婦の家に連れて行かれた。後は必要なものをその時々に応じて、叔父夫婦がここへ取りに戻っていたようだ。幼いゾロには大人の事情はよくわからなかった。ただ、両親がこの世からいなくなってしまったということしか、わからなかった。
ふぅ、と溜息をつくとゾロは、ちらりとサンジに視線を馳せる。
段ボールの箱の中から、ゾロの荷物を取り出しては畳の上に丁寧に並べている。几帳面な性格のサンジらしい。
「これ、どーすんだ?」
不意にサンジが尋ねてきた。
手元を見ると、畳の上に等間隔に並べられたのは剣道の雑誌だった。中学時代にゾロが購読していたものを、どうやら叔母がとっておいてくれたらしい。
「ああ……」
処分するからと言いかけて、ゾロは口を噤んだ。雑誌には、大会で優勝した時のゾロが載っている頁もあるはずだ。あの時は叔父も叔母も、実の両親が生きていたら喜んでくれるだろうと思われるのと同じぐらい喜んでくれていた。捨ててはいけないと、ふとゾロは思った。親代わりだった叔父夫婦が大切に取っておいてくれたのだ。きっとこれは、置いておくべきものなのだろう。そう思ったゾロは神妙な顔つきをして呟いた。
「いや、やっぱ置いとくか。箱の中に戻しといてくれ。押入に片するから」
これまでは叔父夫婦がしてくれていたことを、これからは自分でしなければならない。
一人で生活できるだろうか。相談できる両親もおらず、叔父夫婦とも離れて暮らすと自分で勝手に決めてしまったが、ちゃんとやっていけるのだろうか。
片づけの手を止めもせずにゾロは、胸の内でひたすら自分に問い続けていた。
途中で軽く休憩を入れた。
いつ頃から吸っているのか、サンジはジーンズの尻ポケットから煙草を出してきた。中学の頃はどうだっただろう。考えたが覚えがなかった。確か高校で再会した時には、もう煙草を吸っていたはずだ。だからゾロが知らない間にサンジは、煙草を覚えたのだろう。
「後でプリン食おうぜ」
紫煙を吐き出しながらサンジが言う。飲み干したコーヒーの空き缶を灰皿代わりにしたサンジは、悪戯っ子のような笑みを浮かべている。
「おう」
答えたものの、買い物の荷物の中にプリンなどあっただろうかとゾロは訝しんだ。買ったものの中に、プリンなどどう考えてもなかったはずだ。
一本目の煙草を吸い終わったところでおもむろに、サンジが立ち上がった。
「プリン、とってくる」
そう言うとサンジは、大股に部屋を横切って階段をおりていく。
サンジの手料理はどれもうまい。中でも出汁巻きは絶品だ。甘いものが苦手なゾロのために、あっさりとした味の菓子を作ってくれることもあった。小学校時代に食べたサンジのプリンは卵のやさしい味がしていた。あの時のプリンなら、もう一度、食べてみたい気がしないでもない。
はぁ、と息を吐き出すと、ゾロは片づけを再開した。早いところ片付けてしまわないことには、いつまでたっても落ち着かない。
当座の着替えは子どもの頃に使っていたタンスに詰め込んだ。入りきらなかった分は、段ボールに戻して押入に片付けた。近いうちにタンスを購入するか、両親が使っていたものをもう少し整理するかしなければ自分の荷物が押入から溢れることになるだろう。もし買いに行くならサンジを連れて行こうと、ゾロは思った。
間もなくしてサンジが戻ってきた。
ガラスの容器に入った淡く黄色いプリンは、甘くやさしいにおいがしている。
「ほら」
そう言ってサンジがプリンを差し出した。
店頭で売っているようなものではないことは、一目でわかった。
「そんなに甘くないから」
サンジの声が、どこか遠くから聞こえてくるような気がする。
あの時のプリンだと、ゾロは思った。いつの間にかサンジは、卵のプリンを用意してくれていたらしい。目の奥がジン、と熱くなり、懐かしさにゾロの唇が微かに震えた。
結局サンジの優しさに甘えてしまい、夕飯まで作らせてしまった。
もしかしたらどこかに、この家に一人でいたくないという思いがあったからかもしれない。ゾロが小学生時代を過ごした家だ。もう父も母もこの家のどこにもいないのだ。しんとした一人の空間を思い知らされるのがまだ少し恐いのかもしれない。
夕飯の支度はサンジに任せ、ゾロは片付けに専念した。
これからは一人きりでこの家で生活をしなければならない。少しでも居心地がいいようにしておきたかった。
夕方、暖かかった空気に冷気が混じり、ひんやりとし始めた頃になってサンジの声がかかった。
「メシ、できたぞ」
居間へとおりていくと、甘辛いにしんのにおいが鼻をくすぐった。蕎麦の上のにしんの照りを目にした途端、ゾロの口の中にじわりと唾液が沸きだしてくる。
「蕎麦?」
サンジのほうへと視線を向けると、ニヤリと笑われた。少し前まではおどおどと何かに怯えるような表情をしていたくせにと、少しだけムッとしながらもゾロはサンジの言葉を待つ。
「お前のことだからどーせ、引越蕎麦も食ってねえんだろ」
引越祝いだとサンジは言った。
そういえばと、ゾロは思う。引越をしたものの、引越当日はフランキーのおごりで居酒屋へ連れて行かれた。その後は叔父夫婦の家にいたから、食べるものに困ることもなかった。この家に帰ってきて食事をするのは、よくよく考えたらこれが初めてではないだろうか。
「ああ……うん」
頷いて、ゾロは席についた。
箸を手に取り、いただきますとボソボソと口の中で呟く。
目の前の席についたサンジは、笑っていた。幸せそうな笑みに、何故だかゾロはホッとした。
一口、口に入れるとホロリと崩れるにしんの身はほんのりと甘くて、醤油の辛さと生姜の香りとがしている。急だったからちょっと手抜きなんだとサンジは言っていたが、ゾロにはどこが手抜きなのかがわからない。わからないが、美味いということだけはわかった。
夕方の風に冷えかけていた体が、ゆっくりと温まっていく。
顔を上げると、じっとこちらを見つめるサンジの目と視線が絡み合う。
「美味いな」
一言、そう告げた。
「だろ?」
誇らしげにサンジが返した。
食べ終えた後の食器の片付けまでサンジはしてくれた。
鼻歌を歌いながら皿洗いをするサンジの後ろ姿をちらちらと眺めながら、ゾロは帰したくないと思った。
一人になりたくはなかった。まだ、この家で一人きりで眠ったことはない。引越の後、なるべく家に寄りつかないようにしていたのは一人になりたくなかったからかもしれない。
背後から近づいていくとサンジの腰に手を回し、ほっそりとした肩口に額を預けた。
「なんだよ、いきなり」
一瞬、サンジの体がビクッと跳ねた。
「帰んなよ」
駄々っ子のようだと、ゾロは自分でも思っていた。
もうそろそろいい時間になる。帰るなと言ったものの、このあたりでサンジを帰したほうがいいだろう。そうでなければ……。
洗いカゴの中に皿をそっと戻したサンジの手が、ゾロの手に重ねられた。
「──…と……泊まってけって、言っ……言うのかよ」
ボソボソと、サンジが尋ねる。
俯き加減のサンジの頬から首筋にかけては、ほんのりと赤く色づいている。
「泊まりたいなら泊まっていけばいい」
そう言ってゾロは、サンジの白い首筋に唇を押し当てた。あたたかい。頸動脈にペロリと舌を這わせてから、金髪に口づけた。
ゾロの腕を掴んだサンジの手に、ぎゅっと力が込められた。