部屋に戻ると獄寺は、血まみれの手を手当てしてもらった。
綱吉がフロントに連絡をしたら、すぐに医者がやってきたのだ。港の近くで開業医を営んでいる地元の医者で、ホテルの宿泊客が体調を崩したり怪我をした時には、往診をしてもらうこともあるらしい。
きびきびとした医者の手が、消毒液をたっぷりと染みこませたガーゼを獄寺のてのひらにあてる。幸い、薄皮一枚の軽い傷だった。傷口にガラスの破片が入り込むこともなく、傷口を縫うほどの怪我でもなかった。そのままテープでガーゼを固定され、包帯を巻かれた。
「明日、もう一度消毒をしましょう。三日分の薬を出しておきますから、食後に必ず飲むように」
それだけ告げると医者は、自分の診療所へ帰っていった。こんな時だというのに、どこかの医者とはえらい違いだと獄寺は密かに思った。
「……たいしたことなくてよかったね、獄寺君」
医者の後ろ姿を見送りながら、綱吉がポツリと呟く。
獄寺は小さく頷いた。
取り乱したりした自分が、今は酷く恥ずかしい。結局のところ自分は、綱吉の気持ちを読めるという邪な優越感に取り憑かれていたに過ぎない。その一方で、こんなことをするのはいけないことだと思い悩み、少しばかり神経過敏になりすぎていたのかもしれない。
洗面所の鏡の件は、綱吉がうまくごまかしてくれたらしい。怪我の手当の後、二人は別の部屋に案内された。これから早急に新しい壁紙と鏡に交換されるのだろう。
獄寺はホッと息をついた。
おそらく、綱吉には今回のことすべてを打ち明けなければならないだろう。綱吉に自分が秘密を抱えていることを知られたのだと思うと、肩の荷が下りたような安堵を感じる。不安だったのだ、今まで。綱吉の気持ちを読みとることができる自分が嬉しくもあったが、胸の奥底では重荷に思っていた。当の本人に断りもなく、勝手にその気持ちを読みとっていたのだ。秘密を覗き見るような気分の悪いことを自分がしていたのだと思うと、どう詫びればいいのだろうかと思う。それでも、はっきりとこれまでのことを綱吉に伝えなければならないということだけは、獄寺にもわかっていた。
それにしても、だ。
いったいどう伝えればいいのだろうか。
テラスのウッドチェアに腰かけて、獄寺は思う。自分の失態を、綱吉にどのように話せばいいのだろうか、と。
テーブルの上に無造作に投げ出してあったシガレットケースから煙草を一本取り出す。口にくわえると前歯でカシ、と甘噛みをし、ぼんやりと空を見上げる。火を点けると、ゆっくりと燻らせた。ニコチンが灰に染み渡っていくのを感じてようやく、ホッとすることができたような気がする。
頭の上には雲ひとつない青い空が広がっている。太陽が眩しくて、獄寺は目を細めた。怪我をしていないほうの手で目の上のあたりを覆い、手庇を作る。
部屋の中でドアの閉まる音が聞こえた。獄寺の頼みで煙草を買いに行っていた綱吉が、戻ってきたのだろう。
「獄寺君、買ってきたよ」
部屋の中からひょいと顔を出した綱吉が、声をかけてくる。
「お帰りなさい、十代目」
振り返って獄寺が言うと、綱吉は渋い顔をした。
「煙草。やっぱり休暇の間だけでもやめたほうがいいと思うよ」
そう言えば、手の傷を見た医者が、帰る間際に煙草はしばらくやめたほうがいいと言っていた。それを綱吉は言っているのだろう。
「でも……」
煙草がなければ口寂しいとはさしもの獄寺も言えず、押し黙ってしまう。
困ったようにうつむいていると綱吉の手が、口にくわえた獄寺の煙草をさっと取り上げてしまった。
「怪我が治ればいつでも吸えるんだからさ」
言いながら、獄寺の髪に口づける。
「命令だよ、獄寺君」
耳の中に響く甘い囁きに、獄寺は躊躇いがちに頷いた。
テラスからは海が見えている。
白い砂浜では時折、鳥が遊んでいた。人影はひとつとして見えない。
海からの潮風が、肌に心地いい。
テラスからの景色をぼんやりと眺めながら獄寺は、あくびをひとつする。疲れているのだろうか、少し前から眠たくて仕方がない。
「そろそろ部屋に戻ったほうがいいんじゃない?」
タイミングよく綱吉が声をかけてくる。どこかしら心配そうな声なのが、獄寺には嬉しい。
「はい……でも俺、十代目に話が……」
言いかけて、またあくびをした。
慌てて口を押さえると、ちらりと上目遣いに綱吉を見つめる。まぶたがやけに重たいのはどうしてだろう。
「もう休んだほうがいいよ、獄寺君。明日、ちゃんと話を聞くから」
そう言って綱吉は、獄寺の腕を取り、そっと自分のほうへと引き寄せる。つられるようにして立ち上がった獄寺は、数歩も進まないうちに綱吉の腕の中にいた。どうやら眠たすぎて、足元もおぼつかないようだ。
「ほら、さっさとベッドに入った、入った」
まるで小さな子どもにするように、綱吉は獄寺の体を抱きしめたまま部屋へと連れて入った。綱吉の腕に抱きしめられたまま、ベッドまでエスコートされる。よろよろと歩きながら、頬のあたりにかかる綱吉の吐息に獄寺はドキドキしている。ベッドの端に腰を下ろすと獄寺は、綱吉の腕を取った。今しがたテラスで綱吉にされたように、掴んだ腕をぐい、と引き寄せようとする。
「う、わっ……?」
途端に、バランスを崩した綱吉が、獄寺の体にのしかかってきた。
「ごめ、獄寺君」
いつもなら身軽に避けることもできただろうが、いかんせん眠すぎた。獄寺は腕を広げて綱吉にしがみついていく。
「……十代目」
話したいことがあるんです──と。そう言ったのは、夢か現かどちらだろうか。
眠たくてたまらない。ぼんやりと靄がかかったような頭で、獄寺は必死に綱吉の顔を見つめている。口元がうっすらと開き、綱吉がなにか言っていたような気がする。なにを言ったのだろうか、綱吉は。眠くてたまらない獄寺には、綱吉の口にした言葉を理解することはできなかったようだ。
ふわりと意識が浮き上がるような感じがして、そのまま獄寺は意識を手放してしまった。
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