唇のOMERTA

  特訓の合間に綱吉が様子を見に来てくれた。
  陣中見舞いだと本人は言っていたが、そうではないことを獄寺は知っている。ようやく匣の開匣に至ったものの、バイクの練習もかけ持ちでこなさなければならない綱吉がどれほど忙しいかに、獄寺は気づいていた。
「オレなんて、まだまだだよ。獄寺君みたいに教える立場になれるほど早く使いこなせるようにならなきゃな」
  苦笑いを浮かべる綱吉に、まだまだだなんてそんなことはないと獄寺は言いたかった。
  慰めではない。そうではなくて、なにか言葉をかけたいと思った。こんな時にかける言葉は、なんだろう。なにか、相応しいものはないだろうか……。
  どう声をかけたらいいだろうかと悩んでいるうちに、綱吉は図書室を出ていってしまった。
  結局のところ、自分の励ましなどなくても綱吉はなんとかやっていくだろう。
  そんなふうに何故だか獄寺には思えた。
  そのことが、無性に寂しく感じられる。
  自分の存在とは。自分は右腕として必要とされているのだろうか。好きでいても、いいのだろうか。そんな想いがごっちゃになって、獄寺の胸を掻き乱す。
  恋愛感情もこみで好きだと気づいた途端、綱吉のことが頭の中から離れなくなってしまったようだ。
「俺って馬鹿なのか……?」
  ポツリと呟いた瞬間、背後のランボがウシシシ、と笑った。
「アホ寺〜、鼻くそ〜」
  けたたましい声をあげながらはやしたてるランボを足蹴に、獄寺は意識を現実へと向け直す、
  机に向かう了平は、よほど獄寺の講義が面白くないのだろう、半分寝かかっている。十分ほどで講義に飽きてしまったランボは、さっきからずっと遊んでいる。
  苛々が募っていく。
  思うように自分のことができない不自由さ、綱吉の側にいられない焦燥感、白蘭との戦い・チョイスに向けての緊張感といったものが、獄寺の中で得体の知れない苛々となって集まってくる。
「よしっ!」
  不意に声をあげると獄寺は、机の表面をダン、と叩きつけた。
「俺たちもヴァーチャルルームで特訓しようぜ」
  そう言うや、了平がはっと目を覚ました。
「アホ牛、それから芝生頭、ヴァーチャルルームに行くぞ」
  特訓の仕切直しだと獄寺は思った。
  二人を連れて、別階のヴァーチャルルームーへと向かう。
  クロームが特訓をしている部屋とはまた違った部屋で、特訓をするのだ。おそらく、このほうがランボも了平もだれてやる気がなくなることはないだろう。
  この二人は、体を動かしているほうが合っている。
  了平は元々の気質で、そしてランボはと言うと子ども特有の好奇心でもって、図書室ではない場所のほうがおそらく集中できるだろう。
「行くぞ!」
  改めて声をかけると、いそいそと二人は後をついてくる。
「ランボさん、アホ寺をやっつけるんだもんね〜!」
  嬉しそうに鼻歌を歌いながら、牛柄のロンパースを着た子どもが通路を歩いていく。
  こめかみをひくつかせながら獄寺は、その後をついて歩いた。
「平常心、平常心……」
  呟きながら歩いていくと、先に図書室を出た綱吉が通路の向こうのほうを歩いているのが見える。
「十代目!」
「あれ、獄寺君。どうしたの?」
  声をかけものの、獄寺はなんと言葉を続ければいいのかわからなかった。ただただ、ぎこちない笑みを浮かべるばかりだ。
「おう。今からヴァーチャルルームで特訓をするのだ」
  横から了平が口を挟んでくる。
「理論指導はもう終わりなんだ?」
  そう言って綱吉は、獄寺の顔を覗き込んできた。
  近い。近すぎる。獄寺は一歩後退るとゴクリと唾を飲み込んだ。
「お…終わりっス。そろそろ実践に入ったほうがいいかなー……なんて……」
  ははは、と獄寺は渇いた笑い声をあげる。綱吉は深く追究するでもなく、そのままあっさり獄寺から離れた。
「そうか。オレはこれからバイクの練習なんだ」
  少し恥ずかしそうに、綱吉は告げた。
  小学校五年生になるまで補助輪つきの自転車に乗っていた綱吉には、バイクの操縦は難しかったらしい。それでも、一日でなんとか転ぶことなく乗れるようになり、少しずつ進歩してきている。吸収力がいいのは、追いつめられているからだ。白蘭との戦いが目前に迫っているから、こんなに短期間でバイクの操縦の腕が上がっているのだ。
「それじゃあ、三人とも頑張って!」
  綱吉は、にこりと笑みを浮かべた。
「おう、任せとけ!」
  胸をドン、と叩いて応える了平に頼もしさを感じたのか、綱吉はどこかしら安心したように口元を緩めた。
  バイクの練習をしている部屋は、獄寺たちが向かうバーチャルルームとは反対の方向にある。通路が交差するところまでやってくると踵を返した綱吉は、「じゃあ、後で」と声をかけると軽く手を振って走り去っていく。
「今から練習……ってことは、夕飯の時間までだろうな」
  了平がポツリと呟いた。
「ああ……たぶん、そうだろうな」
  自分も頑張ろうと獄寺は思った。
  精一杯、自分にできることをしよう。
  自分のために。仲間のために。そしてなによりも、綱吉のために。
「おい、行くぞ」
  ぶっきらぼうに声をかけると、獄寺は通路を歩きだす。
  足音を響かせ、肩を怒らせて歩いた。
  それは、決意の現れでもある。
  綱吉のために自分も力の限り頑張ろうという、自分自身に対する所信表明のようなものでもあった。



  気持ちがモヤモヤとして今ひとつ調子が出ない。
  真面目にやればやるほど、力が足りていないのではないかと思えて仕方がない。
  仲間たちが少しずつ調子を整えていっている中、自分一人が足踏みをしているような感じがする。白蘭とのチョイスへと向けて、しなければならないことはいくらでもあるというのに。
  それなのに自分は、色恋で悩んで皆の足を引っ張っているのではないだろうか。綱吉に迷惑がかかるようなことだけはしたくない。だが、自分の気持ちをうまくコントロールすることができず、夜ごと獄寺は腹の奥底に小さな燻りのようなものを感じている。
  このままではいけない。
  十代目の右腕として、もっとしっかりしなければ。
  そう思えば思うほど、綱吉への気持ちが大きくなっていく。
  自分の気持ちを抑えることができず、注意力もしだいに散漫になってきている。
「──このままじゃ、ダメだな」
  一瞬、心の内を見透かされたのかと思った。
  不意に背後に現れたリボーンが、そう告げると同時に獄寺の背中をドン、と蹴飛ばした。
「しっかりしろ、獄寺。お前、ツナの右腕なんだろ? 右腕がそんなんでどうするんだ」
  よろよろと床にへたり込んだ獄寺に、リボーンの冷たい眼差しが注がれる。
「う……」
  そんなことは、嫌というほど理解している。自分はボンゴレ十代目の右腕なのだ。チョイスに向けて仲間が調整をしている中で、一人だけぼんやりと色恋に溺れているわけにはいかないということはちゃんと理解している。だが、この気持ちがどうにもならないのもまた事実なのだ。
  自然と、綱吉を追ってしまう。目が、耳が、全身が綱吉の様子をうかがっている。まるで物陰に潜む腹を空かせた肉食獣のように。
  どうしたらいいのか、相談する相手もいない。
  項垂れながらもリボーンのほうへと視線を向けても、この赤ん坊はニヤニヤと意地の悪い笑みを口元に浮かべるばかりだ。
  どうにかするのは自分自身。他人に頼るなということだろう。
「そんなことじゃ、京子やハルに先を越されてしまっても文句は言えねーだろうな」
  そう冷たく言い放たれ、ガックリと獄寺は肩を落とした。
  そんなこと、言われなくてもわかっている。さらに獄寺は項垂れた。
  笹川京子は以前から綱吉の憧れの存在だった。可愛らしく、人当たりのいい彼女なら綱吉と並んでもお似合いだろう。
  それとも。三浦ハルならどうだろう。彼女のあの明るさ、前向きさは、どんな時でも綱吉を支えてくれるかもしれない。
  クロームもいる。本来は骸側の人間だが、彼女はボンゴレの霧の守護者でもある。ある意味、クロームが綱吉にいちばん近しい異性かもしれない。京子やハルと違い、有事には綱吉と行動を共にすることも出てくるだろう。そう考えると、クロームだって立派に恋のライバルになり得るだろう。思い起こせば対ヴァリアー戦で初めて霧の守護者として姿を現した彼女は、綱吉に挨拶がわりのキスをしていた。これは、ポヤポヤしているともしかしてクロームに綱吉を持っていかれてしまうかもしれない。いやまさか、と獄寺は首を横に振る。クロームは、骸一筋だ。おそらく大丈夫だろう。挨拶がわりのキスなんて、自分が産まれ育ったイタリアも含めて外国では日常茶飯事だ。
  それでは、だ。男の自分には、いったいなにができるのだろう?
  親友のポジションなら、既に山本がおさまっている。単なる友人の一人でしかない自分にはやはり、右腕のポジションしかないように思えてならない。
  それ以上のものを望んではいけない。
  京子やハルにとってかわろうなどと、そんな大それたことを考えてはいけないのだ、自分は。
  右腕は右腕らしく、三歩下がって影踏まずではないが、有事の際にいちばんに飛び出すことができるよう、大人しく控えているべきなのだろう。
  はああ、と溜息をつくと、今度は頭をゴン、と張り飛ばされた。
「辛気くさいヤツだな」
  溜息とともにチクリと嫌味を呟かれ、ついで尻を蹴飛ばされる。
「もしかしたらツナのやつ、京子とくっついちまうかもしれねーぞ」
  そう言うとリボーンは、通路の奥へと行ってしまった。悠々と歩き去っていくその後ろ姿になんとも言えない感情が込み上げてくる。そうだ、自分はショックを受けているのだ。
  ひとり取り残された獄寺は、しばらくは動くこともできなかった。
  くっついてしまう。綱吉が、京子と。いったいいつの間に、そんなことになっていたのだろうか。
  これっぽっちも獄寺は気づいていなかった。
  自分の気持ちを鎮めることに必至で、周囲のことどころか、綱吉の様子にすら気づいていなかったとは。
  壁に手をつくと、ヨロヨロと立ち上がる。
  こんな場所にいたって仕方がない。とりあえず部屋へ戻ろう。戻って、気持ちを落ち着けるのが先だ。
  それから。
  それから、この先どうしたらいいのかを、考えればいい。
  ゴクリと唾を飲み込むと、獄寺はノロノロとした足取りで通路を歩きだしたのだった。