午前3時の…

  暗がりの中、目を凝らすと濃紺の闇と薄ぼんやりと浮かぶ影しか見えない。
  壁に映り込む影をじっと見つめながら獄寺は、背後にぴたりと寄り添う綱吉の熱を感じている。
  最初から綱吉のことを好きだったわけではないと獄寺は思う。
  獄寺が綱吉と出会ったのは、十四歳の時だ。
  綱吉は、自分は二十四歳だと言った。ボンゴレ一族のボスだと言われ、獄寺は、綱吉がどこかの金持ちかなにかだと思い込んでしまった。あながち間違いではないだろうとは思う。有り余るほどの資産を有するボンゴレ一族の、綱吉は頂点に立つ男だ。ただ、その一族というのが少しばかり普通ではないというだけのことだった。
  普通でなくても構わないと、獄寺は思う。
  元々、生きることに対して執着を持っていたわけではない。物心ついた頃からその日暮らしの路上生活を送るうちに、強すぎる執着は抱かなくなってしまっていた。生きることに対して淡泊というわけではないだろうが、無頓着だということには気づいている。どうでもいいのだ。生きていようが、死んでいようが、なにか目新しいことがあったとしても獄寺の意識の中に残ることは滅多にない。ぼんやりとした景色がただ流れ、目の前を過ぎ去っていくような感覚をずっと感じていた。
  そういった無気力で、曖昧で、ふらふらとした根無し草のような生活を送ってきた。なにに対しても興味を持つことができなかったのだ。
  そんな時、綱吉と出会った。
  路上生活者でしかなかった獄寺に手を伸ばして、自分と一緒に来るように声をかけてくれた。
  これまでにも獄寺に声をかけてくる者は何人かいた。色白で銀髪、生い立ちの割に整った顔立ちの少年を手元に置きたい、色事の対象にしたいと思う不届きな輩は後を絶たなかったが、綱吉はそうではなかった。
  まるで路地裏で犬か猫でも拾うかのように、ごく自然にさらりと獄寺を屋敷へと連れ帰ったのだ。
  獄寺は、ただ綱吉について行っただけだ。綱吉はなにも尋ねなかったし、獄寺もまた、なにも尋ね返さなかった。それから今に至る。
  十四で出会って、十年が過ぎた。二十四になった獄寺の側には、その頃から少しも歳を取っていない綱吉がいる。若い頃の十年なんて、たいした変化があるわけではないと思う。しかし、あまりにも変わらなさすぎる。変化のない外見に、獄寺が疑問を抱いたとしてもおかしくはないだろう。
  いったいどういう人なのだろうと思うことはあった。
  詮索は好きではなかったが、綱吉に関することを獄寺はあまりにも知らなさすぎた。
  資産家だということはなんとはなしに感じていた。屋敷は、広くて大きな割に人の気配はなく、しかしそこここに人の手が入れられ、管理されていた。人が訪ねてくることもあった。値の張りそうな上等のスーツを身につけた男たちが綱吉の元を訪れ、書斎で長時間に渡って難しい話をしていった。獄寺にはよくわからない内容のことが多かったから、そういう時にはあまり書斎には近づかないようにしていた。
  獄寺が屋敷で暮らすようになって半年ほどが過ぎた頃、学校へ行くか家庭教師をつけるかどちらかを選ぶよう、綱吉に言われたことがある。学校へ行く気はなかったから、家庭教師をと獄寺は答えた。それからの獄寺はその年頃の子どもが必要としている知識を学ぶことに明け暮れた。路上生活をしていた時には考えもしなかった生活だが、充実していたと獄寺は思う。今の生活に比べれば、はるかに充実していた。
  今の自分は死んでいるようなものだ。
  壁に映り込んだ影のように、ただそこにいるだけの存在。それが今の自分だ。
  綱吉に必要とされているのか、いないのか、そんなこともわからずに日がな一日、屋敷でぼんやりと時間を過ごす。
  朝、目が覚めてから夜、眠るまで、なにもすることなどない。
  自発的になにかしようと思ったとしても、それは獄寺自身がしようと思ってのことではない。なんでもかんでも綱吉に関連づけて、綱吉のためにしようとする自分が嫌になることがある。
  自分はいったい、なんのためにここにいるのか。生かされている……そう、まさにそんな表現がピッタリくると思うと、自嘲めいた笑みしか浮かんでこなくなる。
  学が必要だと言われ、言われるがままに知識を詰め込んだものの、それを活用する場がないままに時間だけが流れていく。月日を重ね、ある朝気がつくのだ。自分はいったい、なにをしているのだろうか、と。
  自分を抱きしめてくる綱吉の腕に手をかけ、口元へと運ぶ。
  指先に唇を押し当てると、綱吉の体がピクリと身じろぐのが背中越しに感じられた。起きているのだろうか? それとも、自分の気のせいだろうか?
  どちらでも構わないと、獄寺は綱吉の手をぎゅっと胸に抱える。
  綱吉のことをもっと知りたいと思った。
  彼が、どういった経緯で自分と生活を共にしようと思うに至ったのかを、教えて欲しい。
  自分の存在意義を、教えて欲しい。
  綱吉にとって自分は、必要な人間なのだろうか?
  それとも単に、そこらへんにいる野良犬や野良猫のように、どうでもいい存在なのだろうか?
「十代目……」
  掠れた声で獄寺は呟いた。
  首筋にかかる吐息が、愛しくて、憎たらしく思えた。



  目が覚めると綱吉はいなかった。
  よくあることだ。
  綱吉はいつも忙しそうにしている。屋敷にいる時はできるだけ獄寺に合わせてくれているようだったが、ひっきりなしに携帯で連絡を取り合っていることがあった。書斎のパソコンでメールをやりとりすることも、しょっちゅうだ。
  自分一人だけが、ぽつりと取り残されているような気がしてならない。
  綱吉の世界に自分は、要らない人間なのだろうか?
  ノロノロとベッドの上に起きあがると、獄寺は鬱陶しくなってきた前髪を無造作に掻き上げた。
  体の中の熱が、まだ燻っているような感じがする。
  抱いて欲しいと綱吉に迫ったのは十八の時だ。それから綱吉は、気が向けば獄寺の相手をしてくれる。彼なりの優しさだろうか、獄寺が満足するように抱いてくれるが、滅多に最後まではしてくれない。それとも、不確かな出自の自分では、おいそれと相手にすることもできないということなのだろうか。
  自分の価値がわからない。このままここにいてもいいのかどうかが、わからなくなってくる。
  駄々っ子のように「抱いてください」とみっともなく泣いて縋ったあの頃の自分は、もっと自信に満ちていた。自分には世界を動かすほどの力があると、そんなふうに思い込んでいたこともあった。 今の自分から比べると、はるかに健全で正直な自分があの頃は、いた。
  こんなふうに捻くれて、綱吉の顔色をうかがいながら日々を過ごす今の自分は不健全で、反吐が出る。
  溜め息をつきつき獄寺はベッドから降りると、なにも身につけない裸のままでバスルームへと足を運ぶ。
  自分以外には誰もいない屋敷のどこかから、瓜の鳴き声が聞こえてくる。あの気紛れ猫は、好き勝手に屋敷の中をうろちょろとしているのだろう。羨ましいことだ。自分と違って、人の顔色をうかがうこともせず、思うがままに生きている。
  もしかしたら自分は、ただ待つだけの生活に疲れてしまったのかもしれない。綱吉の顔色をうかがい、ご機嫌取りをしようとする姑息な自分に嫌気が差したのかもしれない。贅沢なことだ。路上で生活をしていた頃に比べると、なんと怠惰な生活をしているのだろう、自分は。
  なんにせよ、自分は非力だ。綱吉がいなければ生きてはいけない。この屋敷の外の世界のことと言えば、ここに来る前の路地裏での生活しか知らないのだから。
  はあ、と溜め息をまた、ついた。
  バスルームへと続くドアを開けると、頭からシャワーを浴びる。
  水のように冷たい湯に体が震えたが、それでも腹の底でくすぶっている熱は一向に収まらない。自棄になって温度を調節し直し、水に切り替える。
  まるで雨のような冷たいシャワーに打たれながら、頭から濡れていく。
  寒かった。
  ブルブルと震えながら、それでも獄寺は降り注ぐ水に打たれていた。
  綱吉と同じ場所で立っていたいと思いながら、一歩を踏み出すことのできない自分に嫌悪を感じる。
  たった一歩、足を踏み出すだけだと言うのに。
  歯の根が合わなくなり、ガチガチと歯を鳴らしながら獄寺はバスルームを後にする。
  濡れたまま部屋に戻ると、バスタオルをベッドの上に放り出す。なにもかもがどうでもよくて、面倒くさい。無気力な日常の中ではいつものことだ。
  クロゼットを開くと山のように並ぶ中から適当な服を選んで身につける。
  なにもする気にならなくて、それでも空腹を感じることが腹立たしくてならない。
  のろのろとした足取りで階下へと降りていくと、どこからかナッツが顔を出してきた。ゴロゴロと喉を鳴らしながら獄寺の後をついてくる。たてがみを逆立て、尻尾を振りながら獄寺の足下に飛びつこうと隙を狙っているが、瓜と違って臆病で、こちらが気づくとすぐに物陰へ逃げ込んでしまうのを獄寺は知っている。
  なにもない、いつもの日常だと獄寺は思った。
  静かで、穏やかで、変化のない一日。晴れていても雨が降っていても、なにも代わり映えのない、ぼんやりとした無気力な一日だ。
  キッチンへ寄るとボウル皿にシリアルとヨーグルトを入れ、トレーに乗せる。それからトマトジュースだ。ついでに瓜とナッツの餌も用意してから、獄寺はサンルームへと向かう。
  怠惰な生活の自分が逃げ込むのは、いつもこの場所だ。
  ここにいれば、なんの気兼ねをすることもなく、のんびりとできる。
  屋敷の中の堅苦しさとは無縁の、場所。
  床の上に腰をおろすと、トレーに乗せた猫用の皿を少し離れた場所に置く。すぐにナッツと瓜がやってきて、体を寄せ合い、皿の中に顔を突っ込むようにして餌を食べ始めた。
  そんな光景を眺めながら獄寺は、のんびりとシリアルを指につまんだ。スプーンを用意してあったものの、使う気にはなれなかったのだ。
  カリ、と音を立ててシリアルを囓ると、ほんのりと甘い味が口の中に広がった。
  これもいつもと同じ味だ。
  なにもかも、いつもと同じ。
  静かで、穏やかで、自分などいてもいなくてもどちらでも構わないような、ありふれた普段の光景。
  綱吉の世界から取り残され、疎外された、たった一人きりの世界──