旦那サマは十代目

  会合での気疲れからか、綱吉が体調を崩したのはその夜のことだった。
  後になってみると、あの会合の後、綱吉はどこかしら不機嫌な様子をしていたようにも思う。滅多に怒ることがなく、たとえ怒ったとしてもすぐに気持ちを切り替えることのできる綱吉が、珍しいことだと思っていたのだ。
  本社ビルからマンションの部屋までタクシーで戻ってきた綱吉は、ぐったりとしていた。
  早めに帰りたいと綱吉がフゥ太に声をかけた時には、すでに熱が出ていたようだ。病院に行くようにフゥ太が言うと、知恵熱だと思うけど、と言い訳をしていたぐらいだから大丈夫だろうと思っていたが、一緒について帰ってきて正解だったと獄寺は思う。
  そんな状態で綱吉がぐったりとしていることがわかっていても、獄寺には手を貸すことができなかった。そもそも、どうしたらいいかなんて獄寺にわかるわけがないのだ。
  姉のビアンキとは半分しか血の繋がりがないものの、幼い頃から父の屋敷で姉と同じように大切に育てられた獄寺が、誰かを看病するようなことはなかった。父も姉も健康な人たちだったし、屋敷には住み込みの使用人や通いの使用人がわんさといた。たとえ獄寺が愛人の息子であろうとも、その手を煩わすようなことは誰もさせなかったのだ。
  だからと言って、綱吉の世話をすることができないことの言い訳にはならないのだが。
「……水、飲まれますか?」
  病人をどう扱えばいいのかわからず、獄寺は探るように綱吉を見た。
「ああ、いいよ。自分のことは自分でするから」
  言いながら綱吉は、キッチンに入った。
  熱が上がってきているのか、顔が赤く見えるのが気になるが、獄寺が止めても綱吉は聞かないだろう。
「獄寺君、悪いけど夕飯は自分で適当にしてくれるかな」
  言いながらも綱吉は、鍋を取り出し、炊飯器のご飯を鍋に移している。
「手伝いましょうか」
  手伝えることなんて皆無に等しいということは自分でもわかっているが、聞かずにはいられない。
「いや、いい」
  そう返すと綱吉は、鍋に水を入れ、コンロにかけた。その合間に別の鍋に水と粉末だし、醤油、みりんを加えてこれも火にかける。
「何やってんですか? 手伝いますよ」
  声をかけるが、「いらない」とつっけんどんに返されてしまった。
  レトルトのパックをレンジにかけている間、獄寺はじっと綱吉の手元を眺めていた。
  なんでマフィアのボスが、自炊しているのだろう。体調を崩してしんどいはずなのに、病院にも行かず、自分で自分の食べるものを作っている。こういう時こそレトルトではないのかと思うのだが、綱吉はレトルトの夕飯を食べる気はないようだ。
  コンロからはぐつぐつという音と、ほんのり甘みのある醤油の香りが漂ってきている。美味しそうだ。自分のレトルトの食事なんかよりも、ずっと美味しそうなにおいがしている。
「オレ、これ食べたらすぐに寝るから、洗い物だけ頼めるかな? 無理だったら、流しに汚れた食器を集めておいてくれればいいから」
  わかりましたとだけ、獄寺は返した。不用意に口を開くと、どうでもいいようなことで綱吉を煩わせてしまいそうだった。随分としんどそうな様子の綱吉は、茶碗と湯呑みを乗せただけのトレーを手に、キッチンを出ていく。自室で食事をとるつもりなのだろう。
  よろよろと足を勧める姿が、危なっかしく見える。
「あの……俺、そのトレー運びますから」
  そう言ってトレーを取り上げる。茶碗の中にはドロドロのご飯、薄い茶色の……これは、スープ……だろうか? それとも……
「オートミール……じゃ、ないっスよね」
  確かめるように獄寺が呟くと、綱吉はしんどいだろうに、微かに笑った。
「違うよ。それは、お粥だよ。片栗粉を水で溶いて醤油とみりんで味をつけて、あんかけにしたんだ」
「へえ……」
  見た目はドロドロとしているが、確かにほんのりと甘辛い醤油ベースの香りに、うっかり腹の虫が騒ぎ出しそうになる。
「先にこれ、部屋に置いてきますね」
  慌てて獄寺はそう告げると、綱吉の部屋へと向かう。ドアを開け、小さく「失礼します」と口の中で詫びてから部屋に入った。
  床の上に脱ぎっぱなしのシャツが投げ出されたままになっている。ベッドの上には伏せたままの雑誌と、時計。パジャマは部屋の隅のソファからずり落ちかけている。
「案外だらしがないな」
  呟きつつも獄寺は、サイドテーブルの上にトレーを乗せた。それから床の上に放り出されたままだったシャツを拾い上げ、パジャマと一緒にソファの背もたれにかけておいた。ついでにベッドの上の雑誌と時計をサイドテーブルの隅に置き直す。
  間もなくしてのろのろとした足取りで綱吉が部屋に入ってきた。歩くのが辛そうで、見ていられない。
「大丈夫っスか?」
  声をかけ、手を差し伸べると、綱吉の手が伸びてきて、これ幸いとばかりに獄寺の腕にしがみついてきた。
「わ……あ?」
  ぐい、と体ごと引きずられるような感じがして、慌てて後ずさったところでベッドに膝の裏が当たった。まずい、と思った時には獄寺の視界に映る景色がぐるりと回っていた。
  パタン、と背中からベッドに倒れ込むと同時に、獄寺の上に綱吉の体がのしかかってくる。熱でぐったりとしているから、やけに重く感じられる。
「じゅ……あの、十代目……」
  どいてくださいと言おうとして、獄寺は首筋にかかる綱吉の吐息の熱さにふと気づいた。ぴたりと体をくっつけられ、色っぽい場面でもないのに、胸がドキドキと騒ぎ出す。
「あ……あのっ、あの……」
  言いかけた獄寺の首筋に、綱吉の息がかかる。もぞ、と動いたかと思うと、またしてもすがりつくような格好で動かなくなってしまう。
「……十代目?」
  不安になって声をかけると、蚊の鳴くような小さな声が返ってきた。
「ごめん、獄寺君。しんどくて動けない」
  ああ、と獄寺は思った。こんなに体温が熱いのだ。辛くないはずがないだろう。
  なんとかして綱吉の下から這い出ると、獄寺はほうっ、と息をついた。
「お粥、食べられそうっスか?」
  こんなに赤い顔で、おまけにしんどそうにして、大丈夫だろうか。病院に行けばいいのに、それは嫌だなんて、子どもじみている。
「そのまま置いといて」
  それだけ告げると綱吉は目を閉じ、ぐったりとしてしまう。
  獄寺は物音を立てないようにそっと部屋を後にした。