戦況は思わしくなく、刻一刻と暗雲が立ちこめてくるような感じだった。
あちらでボンゴレ勢が勝利を上げると、こちらでミルフィオーレ勢が勝利を上げ、それが何度も繰り返される内にボンゴレの勢力がわずかながらも衰えを見せていく。戦力を削られ、志気を削がれ、部下たちが減っていく。
これまで、こんな苦しい戦いを強いられたことはあっただろうか。
誰もが不安に思う中、綱吉の周辺の人たちが一人、また一人と姿を消していく。綱吉だけでない。部下たちの家族にまで手が及ぶようになってようやく、この戦いにボンゴレが勝つことはないのではないかという畏れが誰の心にも芽生え始める。
このままでは、犠牲者の数はますます増えるばかりだ。
不安に比例するように、綱吉に体を求められる回数は目に見えて増えていく。獄寺のほうも同じだった。索漠とした不安や恐怖から逃れるために、時間があれば毎晩のように綱吉を求めた。
やるべきことはやっている。
綱吉にしろ、獄寺にしろ、しなければならないことはこなしている。山本だって了平だって同じだ。ボンゴレのアジトとは別にアジトを作り、並盛の町に根づいた独自の防衛網を死守する雲雀だって、同じようにやるべきことはやっている。
それなのに何故、こうもあっさりとミルフィオーレ勢にしてやられるのだろう。
気迫で負けてしまっているからかもしれないと言ったのは、了平だったか山本だったか。その了平も、つい先日、並盛を後にした。敵地の状況視察のためだと聞いたが、昔から雲雀と密かにやり取りを交わしている了平のことだ、本当のところはどうだかわからない。
イタリアのボンゴレ本部から入る定期連絡を聞くと、向こうもあまりよい状況とは言えないようだった。
アルコバレーノたちが一人、二人と倒れていき、リボーンまでもが綱吉たちの前からいなくなってしまった今、どうしてもこの戦いを終わらせなければならないという執念にも似た決意が、綱吉の中には存在した。
獄寺だって似たようなものだ。
何がなんでもかつての日常を取り戻し、この恐怖に満ちた世界を終わらせるのだ、と、何度も自分自身に言い聞かせてきた。
それなのに、戦況は好くなるどころか、一方的に圧されるばかりが続いている。
「もしかしたら……」
無理なのかもしれないと、綱吉は続けたかったのかもしれない。
青白い顔をして、もう何日もゆっくり休めていない綱吉の目の下にはうっすらと隈ができかかっている。
「休んでください、十代目。当直の者もいますし、今夜は俺がここに張りついてますから」
ボンゴレのアジト、司令室の静けさは、不気味なほどだ。物音ひとつ立てでもしたら、戦況がいっそう悪い方へと転がってしまうのではないかと、皆ビクビクしている。
「そう。じゃあ……ここは頼んだ」
そう言うと綱吉は、踵を返して司令室を後にする。
綱吉がそのまま大人しく部屋へ戻って休むかどうかはわからなかったが、獄寺にしてみればとにかく少しでも司令室の空気をかえたかった。
「ハヤト兄も、休んできなよ」
さっきから二人のやり取りを黙って見ていたフゥ太が、静かに声をかけてくる。
「ああ?」
顔をしかめて振り返ると、フゥ太は怖がるでもなく、小さく苦笑して獄寺の眉間に指をトン、と当ててくる。
「そんな恐い顔して居座られたら、皆、居心地が悪くてたまらないって」
確かに戦況は好くなかったが、今夜のミルフィオーレは大人しい。
動きに変化はなく、並盛周辺に関しては特に大きな抗争が起きる気配もなさそうだ。
「報告は明日の正午にミーティングルームでするから、ツナ兄と一緒に休んできたら?」
部下たちがちらちらとこちらを気にしている。不機嫌そうな獄寺が司令室にいたら、確かにあたりの空気が悪くなるかもしれない。部下たちだって、居たたまれないだろう。
「じゃあ、何かあったらすぐに知らせろよ」
そう言うと獄寺も、司令室を後にした。
獄寺が部屋に戻ると、綱吉がいた。
シャワーを使ったのか、腰にタオルを巻いたままでベッドに腰を下ろしている。
疲れた顔はまだ青白かったが、先ほどよりは幾分かはマシになったような気がする。
「あれ、獄寺君も今日はもう上がり?」
髪の先から滴る水気をバスタオルでがしがしと拭いながら綱吉が尋ねてくる。
「フゥ太のやつに、追い出されました」
憮然として獄寺が返すと、さっき司令室で別れたばかりなのにと、綱吉は小さく苦笑した。
「フゥ太もあれで結構気を遣ってるんだよ」
芳しくない戦況を淡々と伝えながらフゥ太は、いったいこの状況をどう思っているのだろう。次々と仲間が倒れていく中で、年下のフゥ太はできるだけ感情を押し殺して日々の任務をこなしているように見える。すぐに頭に血の上る獄寺などよりずっと彼は理性的だ。
「じゃあ、後で礼を言っといたほうがいいっスね」
「そうだね」
溜息をつくように、綱吉が掠れた声で繰り返す。
疲れているのは誰しも同じだったが、綱吉の疲労はおそらく、極限を超えているはずだ。 ボンゴレリングを失い、アルコバレーノたちを失って以来、心の安まる時はなかったはずだ。今ですら綱吉には、あれやこれやと気にかけることが山積しているのだから。
「そう言えばこの間、夢を見ましたよ」
話題をかえようと獄寺は、明るい調子で口を開いた。
「中学生の頃の十代目と野球馬鹿がいて、どんどん先へと走っていくんスよ。俺は一生懸命追いかけるんですけど……夢の中で十代目の指にボンゴレリングが嵌ってました。やっぱあのリングをした十代目は格好いいっスよね。うっかり惚れ直してしまいそうになりました……」
と、ここまで言いかけて獄寺は、不意に口を噤んでしまった。
ボンゴレリングはもう、ここにはない。
失われて久しいことを獄寺だってよく知っているはずなのに、うかつにも口に出してしまった。
「そういや、中学生時代だったな」
ポツリと綱吉が呟いた。
髪を拭う手を止めたことで、ポタリ、ポタリと雫がシーツの上に落ちて染みを作り出していく。
「懐かしいっスね」
あの頃は皆、子どもだった。幼くて、弱くて、今よりもずっと明るかった。何もかもが輝いて見えた。
「リングがあれば……」
言いかけて、綱吉ははあ、と溜息をつく。
それから仕方がないとでも言うふうに首を横に振ると、バスタオルを床に投げ捨てた。
「今あるもので我慢しなきゃ、勝てない。今、あるもので……」
口の中で繰り返し呟きながら綱吉は、拳を握りしめた。苦渋に満ちた表情を浮かべると、いっそう顔色が悪く見える。
「……すんません、十代目。余計な話をしてしまいました」
床に投げ出されたバスタオルを拾い上げると獄寺は、バスルームへと足を向けた。
苛立つ綱吉の気を鎮めるには、時間が必要だ。今の彼に自分は必要なかった。セックスをして忘れてしまえるのなら、まだマシだ。だが、そんな余裕もないほどに今の綱吉は苛立っている。言葉に出して感情を表現してくれたなら宥めようもあったが、感情を押し殺した綱吉を宥める方法は獄寺にもわからなかった。
何と言って声をかければよいのかも、わからない。
それは獄寺が本当の恋人ではなく、単なる体だけの関係を中心とした愛人でしかないからだった。
互いに好きあっているのはわかっているが、言葉にして愛を囁かれたことはない。
きっと綱吉には、男の自分などよりももっと相応しい相手がいるはずだ。たとえば、笹川京子や三浦ハルが。
だから綱吉は、獄寺に自らの気持ちを伝えようとしないのだ。男同士の不毛な関係など、時期がくれば簡単に終わらせてしまえるものだと思っているのだろう、きっと。
そして悲しいかな、男の自分には綱吉の決断をただ黙って受け入れることしかできない。関係を終わらせてくれと言われたなら、その瞬間に獄寺は綱吉から身を引かなければならない。できることなら見苦しくない別れ方をしたいと思っている。
それが綱吉のためでもあり、自分のためでもある。
割り切ってつき合ってきたのだから、別れの瞬間だってあっさりとしたものにしたいものだ。
本音を言うと綱吉のことを忘れられるはずもなかったが、追い縋るような馬鹿な真似だけはしたくないと思う。自身のプライドにも関わるし、綱吉の名誉のためでもある。
バスルームのドアを開けると獄寺は、バスタオルを脱衣籠に投げ込んだ。溜息をついてくるりと踵を返す。ふと洗面スペースの鏡に目がいき、その中に映る自分自身に顔をしかめた。
自分だって、綱吉のことを言えないほど顔色が悪い。青白くやつれた男は、鋭い眼差しで鏡のこちら側にいる自分を睨みつけている。日頃から目つきが悪いと言われていたが、その通りだと獄寺は思った。
こんな愛想のない男に、綱吉はよく欲情することができるものだ。
それとも、任務、任務で緊迫した状況の続く今、側にいて性欲処理の相手をしてくれそうなのが獄寺ぐらいしかいなかったから、手っ取り早く抱いているだけなのだろうか。
「……まあ、男同士だしな」
別に、愛情がなくてもセックスはできる。
それが男同士なら特に、愛や恋などといった甘ったるい感情は必要ないだろう。
もしかしたら自分は、愛人どころか、性欲処理の相手としてしか見てもらえていないかもしれない。
だが、それでも獄寺は構わなかった。
綱吉と出会って、彼の懐の深さを知って以来、身も心も彼に捧げてきた。何もかも全て、彼のものだと自分でも思っている。
だから、何をされても構わない。自分がどうなろうとも──獄寺がこんなことを思っているなどと知ったなら、綱吉は怒り狂うかもしれなかったが──、綱吉のためになら何だってできるだろう。状況によっては死を厭うことなく、受け入れることもできるだろう。
狂おしいまでのこの気持ちはしかし、綱吉に告げてはならない。
いつか世界が、かつてそうだったように穏やかな日々を取り戻したなら、その時には綱吉も本当に愛する人と結ばれることになるだろうから。
自分はそれまでの間の単なる身代わりでしかない。
だから、あくまでも愛人でしかないのだと自嘲気味に笑うと、いっそう鏡の中の自分は凄みを増す。
女のように丸くて柔らかな肢体を持つわけでもなく、可愛げがあるわけでもなく。ましてやフゥ太のような落ち着きや、山本のような信頼を得ているわけでもない自分にできることなど、そうそうあるはずがない。
着ているものを脱ぎ捨て、のろのろとした動きでシャワースペースへ入り込むと、冷たい水を頭から浴びた。
滝のように降り注ぐ水に打たれて獄寺は、泣きたくても泣くことのできない自分に心の中で悪態をついた。
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