あの日の唇 2

「すっごく面白かったね、今のビデオ」
  名前を呼ぼうとして、綱吉は慌てて自分の口を手でおさえた。
  一緒にビデオを見ていた獄寺は、いつの間にか眠っていたようだ。起こさないようにそっとケットをたぐりよせ、肩が隠れる辺りまでかけてやる。
  そういえば、と、綱吉は思う。このところ獄寺は忙しかったはずだ。綱吉の無理な要求に応えるため、あちこちに出かけていた。
  半月ぶりの帰国の労をねぎらうため、綱吉自ら空港まで迎えに行き、そのまま獄寺を連れて近場のホテルに転がりこんだ。
  ルームサービスを頼んで遅い食事を二人で食べ、とりとめのない話をした。
  疲れているはずの獄寺はしかし明け方近くまでハイテンションだった。時差ボケかもしれないと、綱吉は小さく笑う。ここ半月ほどの離れていた間の話をようやく聞き終えたと思ったら、これからビデオを見ようと誘われた。
  絶対に面白いからと言われて見たビデオは、なるほど、獄寺が勧めるだけあって面白かった。
  隣に獄寺がいたからかもしれない。
  右肩にかかる重みと、あたたかな体温に、綱吉も眠気を誘われる。
  そっと獄寺から身を離すと、テレビのスイッチを切り、安心しきった様子で熟睡する青年の顔を覗きこんでみる。
  学生時代からかわることのない頬の輪郭は、すっきりとした精悍な青年のものになっている。うっすらとひらいた唇の隙間から前歯がちらりと見え、急に心臓がドキドキと高鳴りだす。
  この感じは、いったい何だろう。



  柔らかそうな唇に、触れてみたいと、綱吉は思った。
  何故、こんなにも気になるのだろう。
  そっと獄寺に近寄って、手を伸ばす。一見すると薄く見える唇だが、下唇がふっくりとして、触り心地がよさそうな唇をしている。
「大丈夫……起きないよな……」
  呟いて綱吉は、獄寺の唇に触れてみた。
  人差し指と中指の二本の指で、唇をなぞってみる。
  あの時の感触は、この感触だっただろうか?
  規則的で穏やかな寝息に、自然と笑みがこぼれた。
  自分の言葉に従順な彼のことが、愛しく思えてくる。
  ディーノの屋敷に滞在することが決まった時、自分の我を通して獄寺にイタリアまで同行してもらった。その足で彼だけ、アルプスの山を越え、極秘の諜報活動に入ってもらったのだ。
  あたたかなベッドとおいしい食事に自分が舌鼓を打っている間、獄寺が何をしていたのか、綱吉は知らない。獄寺は、自身の苦労を決して多くは語らない。だから綱吉は、敢えて尋ねようともしなかった。他人の苦労している姿を盗み見してしまったような気まずさを感じたくなかったから、余計なことは口にしないようにしている。
  それは、二人の間にある昔からの暗黙の了解で、どちらもそれについて異を唱えることはなかった。
  昔からずっとそうだったから、別におかしいとも思わなかった。
  これが自分たちのあるべき姿、素の姿なのだと、思っていた。
「獄寺君……」
  声をひそめて、名前を呼んでみる。
  どこか上擦ったような掠れた声になってしまったのは、自分がしていることに後ろめたさを感じているからだろうか。
  柔らかな唇の感触に、綱吉はうっとりと指を滑らせた。
  キスしたら、どんな感じがするだろう?
  ゆっくりと顔を近づけ、柔らかな獄寺の唇に、自分の唇を寄せていく。
  唇にかかる吐息が、こそばゆかった。



  唇と唇が、微かに触れあう。
  あたたかな感触に、遠い日の記憶が蘇ってくる。
「ん……」
  むずかる幼子のように手を伸ばして獄寺は、綱吉の唇から逃れようとした。
  その手首を優しく掴み取ると、綱吉はもう一度、今度は深く唇を合わせる。唇の角度をかえ、何度も柔らかな感触を味わった。あの日のあたたかな記憶が頭の中に溢れかえり、必死になって綱吉は、唇を求めていた。
「ん、ん……」
  獄寺がまた、身じろぎをした。
  はっとして綱吉は体を離した。ほんのりと目元を朱色に染めた獄寺が、綱吉をじっと見つめている。
「あ……獄寺君……」
  どう言い訳をしようかと、綱吉は頭の中であれこれと考える。必死になって考えるが、ちょうどいい言い訳がでてこない。
「ご、ごめんっ!」
  慌てて口走ると、酷く傷ついたような表情で獄寺が、口元を歪めていた。
「ごめん、獄寺君。俺……」
  言いかけて、口をつぐんだ。
  今は何を言っても無理かもしれない。そう考えると、必死になって言葉を探すのも馬鹿馬鹿しく思えて、不意に綱吉は黙り込む。
「十代目……」
  獄寺の掠れた声が色めいて、綱吉の心臓の鼓動がドキン、と高鳴る。
「十代目、キス、してました?」
  尋ねられ、綱吉は素直に頷いた。



「ごめん、獄寺君」
  そう言って綱吉は、頭を下げた。
  眠っている無防備な人間の唇を勝手に奪ったのだ。
  言い訳はできないだろう。
「なんで……」
  綱吉の触れた唇を、獄寺は片手で隠しながら呟いた。
「なんで、キスしてたんかス……?」
  眼差しは、幼い子のようだ。綱吉はゴクリと唾を飲み込んで、獄寺を見つめ返した。
「昔……中学生の頃だったと思うんだけど、獄寺君、俺にキスしたよね?」
  確かめるようにゆっくりと、綱吉は尋ねかける。あの時の記憶を辿りながら、ポツリポツリと言葉にすると、何となく背中があたたかくなってくるような感じがする。
「──…はい」
  困ったように眉をひそめて、獄寺は頷く。
  まるで、飼い主に叱られる犬のようだ。綱吉はそんな獄寺の様子を目にして、こっそりと笑った。
「知りたかったんだ、ずっと。あの時の唇が、俺の気のせいなのかどうか、確かめたいと思ってたんだ」
  キスをされたのだと、知っていた。そのくせ知らんふりをしたのは、自分のほうからだ。これまでの関係を保ちたいと思っていたから、気付かないふりをした。
  だけど、今は違う。
  この男にそばにいてほしいと思うと同時に、仲間としての感情以上のものを、自分は求めている。
  これまでそのことを認めようとしなかったのは、ひとえに、獄寺に嫌われたくない一心からだった。
  だが、それではいけないと思った。
  このままではいけない。どうにかしなければならないと、綱吉は思ったのだ。



  キスした時の唇の感触は、十年前も今も、同じだった。
  柔らかくて、あたたかくて、ほんのりと柑橘系のコロンの香りがしていた。
  優しい香りだと思った。
「十代目。さっき、なんで謝ったんですか」
  押し殺した声で、獄寺が尋ねる。
  嫌だったのだろうか。男が男にキスされるなど、獄寺は嫌だったのかもしれない。そう思って謝ると、なぜ謝ったのだと言い寄られる。
  困ったように小さく笑みを浮かべて、綱吉は獄寺を見つめた。
「キス……したかったから、したんじゃないんスか?」
  獄寺の傷ついたような表情を見ていると、それだけで綱吉の心臓がキリキリと締め付けられるような感じがする。
  答えても、いいのだろうか。
  それとも、本当のことは言わないほうがいいのだろうか。
  だらりと両脇に垂らした拳に軽く力をこめて、綱吉は、告げた。
「ごめん、獄寺君。君に、キスしたいとずっと思ってたんだ……」



END
(2009.5.9)
(2024.5.1加筆修正)


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