『予兆』
冷たい牢獄の中に繋がれていると、時折、意識が混濁することがあった。
夢なのか、現実なのか、その判別すら怪しい時がある。
海楼石の戒めに繋がれたエースは頭をだらりと垂らし、じっと堪えている。
頭をあげるのは、辛かった。
戒めのせいで体は常に重く、怠い。
何もする気がおきないのは、体を動かすことが制限されているせいだろうか。
冷たく湿気の多い独房で、エースはぼんやりとした頭で考える。
ここに入ってから、いったい何日が経ったのだろうか。今は、いつなのだろうか、と。
もうずいぶんと長いこと、空を見ていない。太陽の光、柔らかな風の感触、木々のざわめきや海の青さにも、ここしばらくは触れていない。
息をするのも苦しいぐらいに、エースは疲れていた。
ここから出ることはできるのだろうか。
いったいいつになったら、海に戻ることができるのだろうか。
時折、どこからか風が入ってきた。空気穴がどこかにあるのだろう。生ぬるく腐臭の入り交じった空気だったが、それでも、その風が頬を撫でていくとエースは決まって目を開けた。
何度目かにそうやって目をあけると、よく見知った顔の男が手を伸ばせばすぐのところに立ち尽くしていた。
咄嗟のことに声が出なかった。
何故、彼がここにいるのだろうか。自分はもしかして、頭がおかしくなってしまったのだろうか。
黙って目の前の男をじっと見つめていると、彼はニヤリと口の端をつり上げて笑った。
「よ、エース。こんなところで捕まって、どうしたんだよ」
男がエースに近づくのに、数歩あれば事足りた。
エースの鼻先に顔を近づけた男は、手を、そばかすの浮いた頬に添える。
「お前……なんで、こんなところに……?」
夢ではないのだろうかと思いながら、エースはボソボソと尋ねた。喉が枯れて、思うように声が出ない。
「いつまで経ってもアンタが俺のところへ来てくれないから、助けに来てやったんだよ」
そう、サンジは告げた。
頬にかかる息は、煙草くさい。
間違いない。これはやはり現実なのだと、エースは思う。
それにしてもいったいどうやって、サンジはここまでやってきたのだろう。
インペルダウンのこんなところで自由に動き回っているということは、捕まったというわけではなさそうだ。いったい、この男はどうやってここに忍び込んできたのだろうか。
怪訝そうに眉をひそめると、サンジは小さく喉を鳴らして笑った。
「会いたかった……」
エースの鼻先を掠めるようなキスをする。柔らかな唇の感触に、エースの体がぞくりと震える。
「なんだよ、硬くなってるぞ」
何気ない様子でサンジはそう言うと、そっとエースの下肢に手を伸ばした。
指先で、布の上からエースの股間をゆるゆるとなぞると、あっという間に竿が勃ち上がってくる。
「おい、こんなところで……」
言いかけたエースの唇を、サンジの唇が塞いだ。
強引に舌を差し込み、口の中を激しく蹂躙する。
いったいこの男は、何を考えているのだろうか。エースは苛々とサンジを押しのけようとした。
「大丈夫。まだ、ここには誰も来ない」
エースの心の内がわかるのか、サンジはさらりと言ってのけた。
鎖で繋がれたエースの腰に片足を回したサンジは、ぐいぐいと股間を押しつけてくる。
「逃げる前に、抜いてやるよ」
そう告げたサンジの口元は、柔らかな笑みを浮かべていた。
サンジの手は、慣れた手つきでエースのボトムの前を解放した。
下着の中から取り出した性器は、既に先走りが滲んでいる。こんな状況でも反応をする自分の体が滑稽で、エースは喉の奥で掠れた笑いをあげた。
「なあ、ずっと我慢してたのか?」
エースの前に跪いたサンジは、いつも以上に呑気に構えている。
逃げようともせずに、いったい何を考えているのだろうか。
「そんなことよりお前、ここからすぐに逃げるんだ。お前は、こんなところにいちゃいけないんだ」
声を潜めてエースが言う。
「心配するな」
さらりと返すとサンジは、目の前の性器をぱくりとくわえた。
途端に、あたたかな粘膜に包まれ、エースはぶるりと身震いをした。生々しい感触に、やはりこれは夢ではないのだと、改めてエースは実感した。
「やめろ、サンジ」
これが現実であるのなら、すぐにでも看守がやってくるだろう。その時、エースは、サンジを守ることができないかもしれない。おそらく今のこの状態であれば、自分をどうにかすることで精一杯のはずだ。
ガチャガチャと鎖を鳴らして、エースはサンジから身を振り解こうとした。
「やめろ……やめてくれ、サンジ」
今なら、まだ間に合う。
サンジ一人が逃げるぐらいなら、何とかなるだろう。自分がここでこうして捕まってさえいれば、それで何とかなるはずだ。そんな思いがふと頭の中に浮かんでくる。
「逃げろ、サンジ。逃げるんだ」
二人して、こんなところで囚われの身になることはない。サンジだけでも逃げ延びて、そして……そこまで考えて、エースはふと気付いた。
いったいサンジはどうやって、ここまで来たのだろう。
一人で来たのだろうか?
こんなところまで?
「やめるんだ、サンジ。お前一人でも、ここから逃げてくれ」
今にも喚き出したくなるのをぐっとこらえて、エースは告げた。
サンジは陶酔したような表情で、エースの性器を舐め回している。
口角をきゅっと締めて、竿をくわえこんだサンジの唇が、ズズズ、と竿を扱く。卑猥な水音を立てながら金髪の頭が動いている。唾液と精液で濡れた唇は赤く、艶めかしい。
「逃げるんだ、サンジ。ルフィのところに戻ってくれ……頼むから……」
追い上げられた熱が、エースの腹の底で燻っている。
「やめて、くれ……」
声を荒げて腹の底から叫んだ瞬間、サンジの口の中にエースは射精した。
ドクン、と胸の鼓動が大きく打ち、鈴口から熱い迸りが溢れ出す。
サンジはそれを、喉を鳴らしておいしそうに飲み干していく。
牢の外が騒がしかった。向こうのほうから、何人もの看守の足音が聞こえている。
「サンジ、逃げろ」
喉が枯れるほどの声で、エースは叫んだ。
しかしサンジはただ笑っているだけで、その場から動こうとはしなかった。
腹部に圧迫感を感じて、エースは目を開けた。
息苦しいような重みに顔をしかめながらも、自分が清潔なシーツに寝ていることに気付いた。 体を動かそうとすると、腹の上に何かが乗っているのがわかった。サンジの足だ。
「……んぁ?」
目ぼけ眼のまま、エースはあたりをキョロキョロと見回した。
外はまだ薄暗かった。
明け方の空はパンドラカラーのピンクとイエローグレーが入り交じってどんよりとしている。水平線の向こうのほうで、朝焼けが始まっているのだろう。雲の隙間から、ちらりちらりと陽の光が見え隠れしている。
「なんだ、寝ぼけているのか?」
呑気そうなサンジの声がかかった。
腹の上に足を乗せたサンジは、読んでいた本から顔を上げ、エースを見た。くわえ煙草の先から灰がこぼれ、ポロポロとシーツの上に散っている。
「さっきからうなされていたぞ。疲れてるんじゃないのか?」
そう言われてエースは、今し方の夢を思い出した。
インペルダウンに囚われていたあの夢は、いったい何だったのだろう。
「疲れたよ。ちょっと、インペルダウンで囚われていたんでね」
そう言ってエースは、深い溜息を吐く。
「はあ? インペルダウン?」
怪訝そうにサンジは声をあげた。本を手元に伏せて置くと、ぐったりとシーツに顔を埋めるエースの頬に、掠めるようなキスをする。
「そりゃ、まあ、ご苦労さんなこって。それで、うまく逃げ出せたのか?」
そばかすに唇を寄せてサンジが尋ねる。
「わかんねえ」
エースはぐい、とその細い腰を抱きしめた。
「わかんねえけど、お前が助けに来てくれて……」
言いかけたエースの唇に指で触れると、サンジは硬い声で呟いた。
「俺が助けに行くのかよ」
白い指先をするりと滑らせたサンジは、端正な輪郭を両手で包み込んだ。
男の瞳をまっすぐに見据えると、怒ったような眼差しでサンジは、エースを睨み付けた。
「もし、お前がどこかで囚われたとしても」
低い声は、どことなく張り詰めた様子をしている。
「……俺は、助けには行けねえ。船長次第だからな」
広い海に出てしまえば、いつ、どこで、何があるかわからない。
エースは白髭海賊団。サンジは、麦藁の。お互いの立場を考えると、それぞれに何があってもおかしくはない状況だ。もしかしたら、今、ここで海賊に捕らえられることもあり得るかもしれない、そんな状況に日々、身を置いているのだ。
あまりにも真摯なサンジのその瞳に、エースも言葉が出てこない。
「アンタは、アンタの海を行けよ」
そう言ってサンジは、エースの唇にキスをした。
「俺は、俺の海を行く」
ゆっくりと、白い指先がエースの頬の輪郭を辿っていく。
「捕まったとしても、逃げればいいことだ。この次、どこかの海で会えたなら、それでいい。お互いに無事なところを確かめ合って、それでまた、海に戻っていけばいいさ」
頬に触れた白い指が唇に触れると、エースは爪の先に唇で素早く触れてみた。
軽い調子でサンジは口にしたはずなのに、何故、自分はこの言葉をこんなにも重苦く感じるのだろう。
まだ、自分は夢を見ているのだろうか?
瞬きを繰り返してエースは、サンジをじっと見つめた。
「心配しなくても、アンタなら大丈夫さ」
そう言いはしたものの、ふっと笑ったサンジの笑顔がどことなく不安そうなのは、気のせいだろうか。
「心配するなら、もう一回ヤらせてよ?」
おどけた調子でエースはそう言うと、サンジの体をぐい、と引き寄せた。
不安が完全に払拭できたわけではない。それでも、こうして恋人と抱き合っている間は、そういった不安からは逃れることができる。いや、逃げるわけではない。真正面から向き合わなければならない問題でもあるからこそ、こうしてひと時、忘れることも必要なのだ。
抱きしめた白い体に所有の印を残しながらも、エースの頭の中は海に戻ることでいっぱいになっている。
吸い上げた白い肌にひときわ鮮やかな鬱血の跡を残して、エースは目を閉じた。
一瞬、生臭いにおいと、湿気で冷たくなった空気が鼻先を掠めていったような気がして、エースは顔を上げる。
「どうした?」
尋ねられ、何でもないと首を横に振った。
夢なのか、現実なのか。
この、息苦しさは何なのか。
目を閉じると、滴り落ちる汚水の音が耳に響いてきそうな気がする。
まるで溺れるように、エースは激しく白い肌を求めた。
夢なのか、現実なのか、わからなくなってしまいそうだ──
END
(H21.1.1)
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