タイトル:しー様より 足んねー!
アイテム:鳥羽様より 雨宿り


「足んねー!」



  満たされない。
  心が渇いて、耐えられない。
  彼の声が聞こえない、彼のにおいがしない、彼の気配がしない。
  彼が、いない。
  彼が、足りない……。
  ベッドの上でゴロンと寝返りを打つと、サンジははあぁ、と大きな溜め息をついた。枕元の煙草に手を伸ばし、ついでに手探りでマッチを探す。
  満たされないのは、心だろうか。
  それとも体が、あの男を欲しているのだろうか。
  こんなにも気持ちが不安になるのは、海から離れて陸に上がっているからだろうか。久々の陸だというのに、目につくところに海がないとこんなにも不安になるものなのだろうか。
  もういちど溜め息をついて、手にした煙草を放り出す。確かに枕元に置いたはずなのに、マッチがみつからない。暗がりの中、あちこち探してみたがどこにもなかった。これでは煙草を吸うことができないではないかと、低くうめいて目を閉じる。
  窓を閉めてあるにもかかわらず、空気に雨のにおいが混じっている。
  遠くのほうで雨音がしていた。



  目を覚ましたのは、人の気配がしたからだ。
  寝苦しいほどの人の気配と体温を感じて、サンジは目を開けた。
  暗がりの中、微かなイビキを立てる男の寝姿がぼんやりと浮かび上がる。
  すぐに誰だか気付いた。暗がりに目が慣れてくると、自分にしがみつくようにして男がベッドに潜り込んでいるのが夜目にもわかる。安宿のシングルベッドだから、自分一人でも狭いというのに、真夜中の闖入者のおかげでさらに狭くなっている。
「おい……」
  何故、この男がここにいるのだろうと思った。
  この男は今、自分とは別のルートで海を渡っているはずだ。
  互いの旅があるからと、別々の道を選んだ相手が、目の前にいる。
  どうしてと思うと同時に、この男に縋りつきたいと思ってしまう弱い自分に微かな笑みが洩れた。
  そっと髪に触れると、微かな太陽のにおいがした。
「エース」
  掠れる声で囁いて、髪に唇で触れてみる。
  疲れているのだろうか、ピクリともせずにエースは眠りこんでいる。
「エース……」
  もういちど名を呼んで、それからゆっくりと髪を梳いた。黒い髪は水気もなく、長いこと海にいるせいで潮焼けてごわごわしている。指に絡まるのにまかせて、男の髪に唇を落とす。少しずつ位置をかえて男の頬、鼻梁、唇をさまよった。ペロンと唇をひと舐めしてから自分の唇を押しつけると、腹の底に熱が集まっていくのが感じられた。
  男からは、海のにおいがした。
  サンジは、日焼けした男の肌に唇を這わせた。
  表からは穏やかな雨音が聞こえてくる。規則正しい雨音は静かで、まるで子守歌のようだ。
  いったいこの男は、どういうつもりでここへやってきたのだろう。
  そんなことを考えながら、耳の後ろ、肩口、鎖骨と唇を移していく。
  乳首には音を立てて吸い付いた。
  舌でベロンベロンと舐めていると、男の手が不意に動いて、サンジの腰を抱き寄せた。
「起きてんのか?」
  眉間に皺を寄せてサンジが小さな声で尋ねる。
「んー…今、起きた」
  男の笑う気配が感じられた。
  エースの手がぐいぐいとサンジの腰を引き寄せる。サンジの体はあっという間にエースの腹の上に乗り上げていた。
  男の汗とにおいがサンジの鼻孔をくすぐる。
「なんでここにいるんだ?」
  サンジが尋ねると、エースは軽く鼻を鳴らした。暗がりで顔が見えないのが残念だ。声と、体温と体臭だけでしかお互いを確かめる術がないというのは、なんともどかしいことか。
「雨宿り……かな? それよりそっちこそ、なんでここにいる?」
  エースの声は穏やかだ。静かな海のような響きに、サンジはうっとりと目の前の体に頬をすり寄せた。
「今日、明日とここの町で一泊することになってるんだ。他の連中は船に残っている。俺は、食料の調達に、な」
  そうサンジは告げた。頬の下で、エースの胸が呼吸をするためにのんびりと上下している。
「ふぅん」
  エースが頷くと、また胸が上下する。
  ピタリと寄り添って肌と肌とを合わせていると、じっとりとした湿気の中で触れあった部分が汗ばんでくる。少し気持ち悪いが、不快というわけでもない。このまま二人で寄り添ったまま、溶け合ってみてもいいかもしれない。
「おい、寝るな。なんでこんなところにいるんだよ、あ?」
  どことなく納得のいかないようなサンジの言葉に、エースは喉の奥で笑った。



  ベッドの上で手足を絡ませ、じゃれ合った。
  手探りで相手の体をまさぐって、そこかしこに唇を押しつける。エースの肌の熱さに、サンジは侵蝕されていく。
  さんざんじゃれ合った挙げ句、最後にエースが、サンジの体をシーツに押しつけた。
「朝になったら雨、やんでると思うか?」
  エースが呟いた。
  何度サンジが尋ねても、のらりくらりとはぐらかしてしまうくせに。どうしてここにエースがいるのか、それが知りたいだけなのに。
「さあな」
  素っ気なく返すとサンジは、エースの腕の柔らかい部分に噛みついた。嘘でもいいから、答えがほしい。ギリ、と歯を立てると、笑いながらエースがやんわりとサンジの後頭部に手をあてた。
「甘えてんのか?」
  ん? と、低い声がする。暗がりの中で目を凝らして、じっとサンジの様子を窺っていることが気配で感じられる。
「ちげえよ」
  ぶっきらぼうにサンジは言った。
  本当は、甘えたいと思っている。本音の部分ではもっと甘い言葉を交わして、二人だけの時間を楽しみたいと思っている。それなのに、プライドが邪魔をして素直になることができない。せっかく、二人しかいないというのに。
「そうか」
  ポン、ポン、と、エースの手が、サンジの金髪を宥めるように優しく叩いた。
  ひとつ違いなだけだというのに、時折、エースはサンジのことを子どものように扱うことがあった。弟がいるから、年下の我が儘には慣れているのだろうか。そう考えると、無性に悔しくて、悲しくて、腹が立ってくる。ただ単に拗ねているだけの自分の幼さに、軽い自己嫌悪に陥りそうになる。可愛らしいレディが拗ねるのなら、まだわかるのだ。男の自分が拗ねたところでみっとみないことぐらいよくわかっている。わかった上で、サンジは拗ねている。恋人として、エースに同等に扱ってほしい。その言葉を口にすることができたなら、きっと、こんな気持ちになることはないのだろう。
  エースの手を乱暴に振り解くと、サンジは背を向けた。
  さっきまでの甘い気分の雰囲気はなりを潜め、今は、刺々しい気持ちが胸のすみっこでとぐろを巻いている。
「サンジ?」
  怪訝そうにエースが名前を呼んだが、サンジは何も返そうとはしない。
  エースは黙ってサンジの様子を窺っていたが、そのうちに諦めたのか、枕元に手を伸ばした。手探りで探り当てたのは、少し前にサンジが放り出した煙草だ。さっと指をかざして、火をつけた。



  気持ちを素直に伝えることができないことがもどかしくて、しかたがない。
  シーツをぎゅっと握りしめたまま、サンジは唇を噛んだ。
  しんとした部屋の中に、微かな雨音が響いている。
  すぐ近く、手を伸ばせば届くところに愛しい人がいるというのに、胸の内に棲む天の邪鬼な自分が邪魔をする。その男に触れてはならないと、サンジの心を抑えつけ、支配しようとする。
「……まあ、なんだ。お前に会えてよかった」
  ポソリとエースが呟いた。
「海の上じゃ、ずっとお前に会いたいと思ってたからな」
  ハハ、と力無く笑うエースは、今、どんな表情をしているのだろう。
  握りしめたシーツが皺になりそうなくらい力を込める。もう一方の手を握りしめると、拳を口元にあてた。拳に前歯を押し当て、息を潜めた。今、喋ったら、泣いてしまいそうだった。
「海に出たら、こんなふうに顔をあわせることもないだろうから、さ」
  そう言ったエースの言葉が、サンジの胸に突き刺さる。
  ここを出てしまったなら、次に会えるのはずっと先になるだろう。こんなところで意地を張っている場合ではない。
  どう告げよう、自分の気持ちをどのように伝えようかと考えているうちに、エースの溜息が耳に聞こえた。
「……眠ったのか?」
  いつの間にか、雨音はやんでいた。空気がわずかに冷たくなっている。
  眠ってはいなかったが、サンジは口を閉ざしたまま身じろぎひとつしない。
「まあ、いいか」
  エースはそう言うと、サンジのうなじに唇を押し当てた。
「せめて朝まではここにいさせてくれよな、サンジ」
  あたたかな指先が、するりとサンジの肩を撫でて、腰に回される。
  ほっそりとしたサンジの体に寄り添うようにして、エースは横抱きに恋人を抱いた。大きな手が、サンジの腹を包み込むようにして当てられる。密着した背中が熱い。
「──…会えて嬉しいと思ってるんだぜ、俺は」
  どこか舌っ足らずな掠れた声に、サンジは体を震わせた。
  そのまま朝まで、サンジは寝付くことができなかった。



  明け方近くになってサンジはようやくうとうととした。
  その一瞬の間に、エースは行ってしまった。
  目が覚めた時には、ベッドはおろか、部屋の中にすら人の気配はなかった。
  行ってしまったのだと思うと、心にぽっかりと穴が開いてしまったような感じがして、寂しかった。
  せっかくの予定外の逢瀬だったというのに、無駄に時間を過ごしてしまった。
  本当はもっと、話をしたかった。
  エースの顔を見て、声を聞いて、彼のにおいや体温を感じたいと思っていた。
  窓の外をちらりと見ると、厚い雲の隙間から太陽がちらりと顔を覗かせていた。昨日の名残だろうか、お天気雨が降っているが、それもそのうちにやんでしまうだろう。
  はあぁ、と溜息をついて、サンジは枕元の煙草を手にする。
  エースはいったい、なんのためにここまで来たのだろうか。もしかして本当に、雨宿りのつもりでここにやってきたのだろうか? それにしても、同じ海の上を旅している者同士ではあったが、お互いに旅の行方は船長次第、風次第のはずだ。こんな偶然がそうなんどもあるとは思えない。なんともったいないことをしてしまったのだと、サンジは自分のしたことを恨めしく思う。
  灰皿に煙草を置くと、サンジは枕に顔を埋めてしばらくじっとした。
  枕には、微かにエースのにおいが残っている。そのにおいを鼻の奥深く吸い込んで、また溜息をついた。
「足んねぇ……」
  ポツリとサンジは呟いた。くぐもった声が、枕に吸い込まれる。
  エースがいない朝は、こんなにも物足りないものだったのかと、今さらながらに思い知らされた感がする。
  しばらくそうやってじっとしていたサンジだったが、そのうちにのろのろと起きあがった。
  出かけなければ。雨が降っていようがいまいが、買い出しに行き、食料を調達してこなければならない。昼過ぎには船に戻らなければならないから、そろそろ出かけたほうがいいだろう。
  身支度を整え終わるころには、鼻の奥に残っていたわずかなエースのにおいまでもが薄くなっていた。
「あー、クソっ、足んねー!」
  苛々と叫んで、サンジはドアを蹴飛ばした。
  太陽が薄日を投げかける中、雨はまだ、降り続いていた。



END
(H21.7.11)



『溶ける方程式〜2009ASコラボ企画〜』参加作品

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