『ここではないどこか』



  その時、彼は痛くはなかっただろうか? 苦くはなかっただろうか?
  炎よりも熱い原始のマグマに焼き尽くされながら、彼は何を思っただろう?
  白髭の名誉? 仲間のこと? それとも弟ルフィの生を、思ったのだろうか?
  少しだけでも……そう、ほんの少しだけでも、彼は自分のことを思い出してくれただろうか?
  仲間になることはできなかったが、ルフィの船のコックが、どんな風にあの男の体を愛し、受け入れたかを、わずかなりとも頭の隅にでも思い出してはくれなかっただろうか?
  サンジ──と一言、名を、胸の内で呟いてはくれなかっただろうか?
  できることなら痛みも辛さもすべてこの身に引き受けてやりたかったとサンジは思う。
  あの男のために、自分に何ができただろうか?
  あの場にいることができなかった自分を不甲斐ないとは思わないが、やはり最期を看取ることができなかったことが酷く残念でならない。
  自分には、彼の最期の姿を目に留めておくこともできなかったのだから。
  はあ、と溜息をつくと、口の端からゆっくりと紫煙が立ち上っていく。
  一緒に過ごした時間はあまりにも短く、ひとつひとつの記憶が少なすぎて、まだ実感として沸いてもこない。
  あのエースが、もうこの世にはいないだなんて。
  彼は、死んでしまったのだ。赤犬のマグマにその身を貫かれ、二年前に命を絶ったのだ。知らなかったとは言え、悔しくて仕方がない。どうしてあの時、自分は知らなかったのか、その場にいなかったのか、と。
  細くなっていく煙の尾を眺めてサンジは、もうひとつ溜息をついた。



  真夜中に目が覚めると、思い出すのはエースのことばかりだ。
  抱きしめられたサンジの体がじっとりと汗ばんでいく時に、したり顔でニヤリと笑うエースのふてぶてしい口元や、不埒な指先を思い出す。
  あの指先で触れられると、サンジの体はじっとりと汗ばみ、まるで釣り上げたばかりの魚のように腹がヒクヒクと震えた。耳元で囁く男の声は背骨を伝い、腹の奥底、深いところに染みこんでいくようだった。優しくて、激しくて……だけどどこかに傷を負ったような気配のする男だった。
  ああ、とサンジは思う。
  あの二年前の日に戻ることができるのなら、きっと自分は、ルフィの元へと駆けつけていたかもしれない。駆けつけて、ひと目エースの姿を見たいと思っただろう。
  二年過ぎた今でも、あの男の姿はまぶたの裏に焼き付いている。
  偶然、ふらりと立ち寄ったどこかの港で別れたきりの、あの男。またな、と手を振って、彼は行ってしまった。
  何も思わなかったわけではない。
  ただ、自分には自分の道があったし、彼には彼の道があった。
  互いの進む先は別々の道だということは分かり切ったことだったし、どちらかが自分の夢を諦めるなんてことは、あってはならないことだ。だからあの時の自分は間違っていなかったと思う。
「またな……か」
  呟いて、寂しさを埋めるようにサンジは深く息を吸い込んだ。



  朝食の支度をしていると、ロビンがやってきた。
  いつもより少し早い時間だ。まだ皆、ベッドの中でぐっすりと眠っているはずだ。
「おはよう、ロビンちゃん。今朝は早いんだな」
  声をかけると、ロビンはフフ、と微かに笑った。その目元が、悪戯っぽく輝いている。
「目が覚めちゃったのよ。こんな日は何かいいことがあるかもしれないわ」
「では、そんなロビンちゃんのためにとっておきの朝食を用意してやるから待っててくれよ」
  愛想よく返したサンジは、ウィンクをしてみせた。
「ありがとう。前よりも男前が上がってよ、コックさん」
  ふざけてロビンが言う。W7以降、ロビンは仲間のことを名前で呼ぶようになっている。それがごくたまにこんな風に以前の呼び方を使う時は、何かある時だ。
  何か──あるのだろうか?
  ちらりと視線を上げてロビンを見遣ると、彼女は髪を掻き上げ、艶めかしくサンジに笑いかけてくる。指の間からはらりと零れ落ちる黒髪が、まるで誘っているように見えないでもない。
「食後のエスプレッソもお願いね、サンジ」
「任せてくれ、ロビンちゃん」
  言葉遊びだけではわからない部分がある。ロビンはいったい、自分に何を伝えようとしているのだろうか? 何か、本当にあるのだろうか? 彼女が言うと、本当に何かありそうな気がしてくる。何か、サンジには考えもつかないようなことが起こりそうなチリチリとした産毛が総毛立つような気配がしてくる。
「まだ早いわ」
  ポツリと、ロビンが呟く。
  予言者めいたその口調に、サンジはふと手を止める。
  カウンター席について楽しそうにサンジを見つめる眼差しは、深い黒。じっとサンジを見つめている。
「どうかした?」
  尋ねられ、サンジは慌てて手元に視線を戻した。
「ああ、いや。あんまり君が綺麗になっていたもんで、びっくりしただけだ」
「相変わらず口が上手いのね」
  そう言ってロビンは、嬉しそうに声をあげて笑った。



  ゆっくりと日が昇っていく。
  朝の時間を慌ただしく過ごし、昼食を終えた今、昼のジリジリと照りつける太陽に目が眩みそうだ。
  少し休憩をするかと甲板へ出ると、爽やかな潮風が吹いていた。
  ここには海がある。
  四方を海に囲まれて、やっと仲間たちが集ったと感じられる。体がそれを、感じている。
  胸の内ポケットから煙草を取り出すと、サンジは口にくわえた。
  腹が満ちたこの時間、誰もがそれぞれに好きなことをしている。
  ぐるりとあたりを見回して、サンジはふう、と息を吐き出す。
  自分の胸の内は満たされることはない。どんなに並々と水を注がれたとしても、決してこの水が溢れ出すことはない。満足することは、この先一生、ないだろう。
  エースを失ってしまったのだと知ったあの瞬間から、サンジの時間は凍り付いている。
  共にそれぞれの道を進んでいくはずだったというのに、エースの道だけ、二年前のあの時間で止まってしまっている。
  またな──と。あの男は、別れ際にそう言った。
  なのに戻ってこなかったのだ。
  自分の時間だけが進んでしまい、今、二十一のサンジは、二十歳で死んだエースよりも一年余分に生きていることになる。
  海を眺めるふりをして、サンジは目をしばたたかせた。
「またな、って言ってたくせに……」
  呟きと共に、やるせない気持ちが沸々と沸き上がってくる。
  一人だけであの男は、行ってしまった。
  恋人だった自分を置いて。
  もう二度と、彼に会うことはできない。愛嬌のあるそばかす面も、甘えるような舌っ足らずな優しい声も、子どものように高い体温の体にも、触れることはできないのだ。
  もう二度と、会えないのだ。
  ふと空を見上げると、嫌になるほどの快晴だった。
  雲一つない空に、太陽がギラギラと輝いている。
  押し殺した溜息を零すと、サンジはキッチンへと戻った。



  エースに愛された記憶が、夜の間にサンジを包み込んでいく。
  体に触れる指の繊細さ、熱い体温に、甘い吐息。
  背後から包み込んでくる男の体温は高く、汗のにおいに鼻先をくすぐられるのがサンジは好きだった。
  やんわりと触れてくる、手。はっきりとした意志を持ち、しかし焦らすように、少しでも二人だけの時間を引き延ばしたがっているかのような愛撫の仕方が好きだった。
  サンジ──と。甘い声で耳元に囁きかけられると、腹の底がムズムズとして、たまらなく熱くなった。
  できることならあの男に今一度、会いたいと思う。
  ここではないどこか、二人だけが存在できるどこかで、また会いたい、と。
  もっと言葉をやればよかったと今になって思う。
  好きだ、愛している、と。実際にサンジが告げたよりももっとたくさんの言葉をエースに囁いてやればよかった。もっと愛してやればよかった。
  もっと、もっと──。
  ここではないどこかで、エースを見付けることができるのなら、自分は何を犠牲にするだろう?
  夢? それとも、命?
  いや、なにも犠牲にすることはしないと、サンジは思う。
  エースはエースの道を生きた。そこにいくつかの後悔や不満はあっただろうが、彼なりによく生きたはずだ。
  自分も同じだ。
  冷たいかもしれないが、彼は彼の生を終わらせた。納得して。
  だから自分は、何も言わない。彼のために何も犠牲にすることはしない。
  自分は自分の道を生きるだけだと、サンジは思う。
  ただ、胸の中で時々、エースのことを思い出すぐらいは許してほしい、と。
「──…またな」
  夢うつつに呟いた寝言は、優しく穏やかなものだった。




END
(H23.1.23)



AS ROOM