『ニアリーイコール』
サンジの世界はニアリーイコールで作られている。
限りなく百パーセント本物に近い偽物で埋め尽くされていく、サンジの世界。思い出。何もかも全て、百パーセントではない世界。
どんなに百パーセントに近くても、本物ではない空虚さをサンジは知っている。
喉から手が出るほど欲し、追い求めても決して手に入れることのできない本物は、たったひとつだけ、サンジの胸の奥にしまってある。
二度と、手に入れることはできない。
駄々をこねて子どものように泣き叫ぼうが、地団駄を踏もうが、もう二度とサンジの手には戻ってこないだろう。
彼は……エースは、行ってしまったのだから。
広い海へとふらりと出て行ったのではなくて、二十歳というその短い生涯を終えて、海の向こうへと行ってしまったのだ。
この先、決して、サンジがエースと会うことはないだろう。
だからサンジの世界は、エースの死を知った瞬間からニアリーイコールの世界なのだ。
本物の世界にサンジが戻ってくるためには、エースがいなければならない。
しかし、エースは死んでしまった。
どこまでいっても答えが出ることはないだろう。
百パーセント本物ではない世界。
ふう、と煙草の煙と一緒に溜息を吐き出すと、サンジは透けるように青い海へと視線を向ける。
頭痛がするほどにカラリと晴れた空には、雲一つない。
ニアリーイコールの世界には似つかわしくない、脳天気な空だ。
ひとつ、ふたつ、と偽物で飾り立てたサンジの世界には、エースはいない。この世界のどこにも。
鼻をすん、と啜るとサンジは、のんびりとした足取りで甲板を歩きだす。
キッチンへ行こう。自分のやるべき仕事がある場所へ。
ニアリーイコールのない、百パーセント本物の、自分だけの場所へ。
エースの死から二年が過ぎ、仲間たちと再会してからサンジはニアリーイコールの世界に生きている。
自分の中で折り合いをつけようとしたら、そうするしか他はなかったのだ。
自分はただ、エースの死を事実として受け止めることができていないだけだと思っていた。我ながら諦めの悪い男だと、自分でも思っている。もしかしたら……という縋るような気持ちが、今もサンジの胸のどこかに残っているのかもしれない。
悪くはないと思う。自分が生きていくためには必要なことだ、とも。それで自分の足下が確立されているのであれば、充分だ。
エースが死んだことは事実だ。しかしサンジは、エースの墓をまだその目にしていない。エースの死を受け入れるのは、それからでも遅くはないはずだ。
だからサンジの世界は、あの日、エースの死を知った日からニアリーイコールの世界になったのだ。
キッチンのドアを開け、流しで煙草の火を消してから、生ゴミ用のダストボックスに煙草を落とす。
エースのために自分は生きなければならなかった。
エースの死を、確かめるまでは生きなければならない。
まだ、自分は生きるのだ。
それにこの船の……SS号の仲間がいる。船長のルフィを始めとする仲間のことを思うと、自分一人がいつまでもエースの死に拘っていることはできないだろう。
顔を上げたサンジは、ふう、と息を吐き出す。
仕込みをして、腹を空かせた連中に食べさせて、洗い物をしてキッチンを片付けて。下ごしらえをして、また仕込み。
エースのことなど考えている時間は、今のサンジにはなかった。
深夜、キッチンの片付けも終わり、人気のない甲板に出ると人肌が恋しくなる。
エースの、体温の高い肌が好きだった。潮の香りの混じった太陽と汗のにおいが恋しくてならない。
会いたいと……そう、思ってしまうことがある。
あの男に抱かれたい。熱くてドロドロのもので貫かれたいと、体が渇望している。
体の奥の疼きを抑えるために、煙草へと手を伸ばす。マッチを擦る手が微かに震えているのは、どうしてだろう。
火を点けようとして、失敗した。二本ほどマッチを無駄にして、ようやく煙草に火がついた。口にくわえ、性急に息を吸い込むとニコチンの香りに包まれるような感じがして、それまでの焦燥感がわずかに抑えられたような気がする。
甲板の手摺りにもたれ、サンジは夜空を見上げる。
あの男も、こんなふうにして夜空を見上げたことがあっただろうか。誰かを想って、体にこもった熱を持て余したことがあっただろうか。願わくば、エースが想った相手が自分であったならどんなにか嬉しいだろうか。
ああ、とサンジは空を見上げて思う。
あの真っ暗な夜空を流れ落ちていく星のように、エースの元へと駆けていくことができたなら、どんなに幸せだろうか。
あの男の熱を、体に感じたい。
夢の中ではなくて、現実に。
何本かの煙草を吸い終えると、サンジは諦めて部屋へとおりていく。
明日も早い。腹を空かせた連中に食わせるため、そろそろ休まなければ。
階段を下りていく自身の足音だけが、虚しくサンジの耳に響いた。
夢の中で男と再会した。
仲間と再会した興奮の名残だろうか? だからエースとも、夢の中で再会を果たすことができたのだろうか?
二年前、彼と最後に逢瀬を交わしたどこかの港で、しかも夢の中で再会したのだ。今頃になってと思わずにいられない。この二年の間、一度だってエースが夢に出てきたことなどなかったのに。
それなのにエースは笑っていた。
別れた時と同じように、大らかで人好きのする笑みを浮かべて笑っていた。
「お前に渡そうと思ってたんだ」
そう言ってエースは、サンジの手に一握りの砂を零した。
どうして砂なのだとサンジは思った。さらさらとした白い砂の粒は細かく滑らかで、握りしめた指の間からハラハラと零れ落ちていく。すべての砂が指の間から零れ落ちてしまうと、エースの大きな手が、サンジの頭にポン、と乗せられた。くしゃくしゃとサンジの金髪を掻き混ぜながら、エースは大きな口を開けて笑う。歯茎まで見えるような明け透けな笑みに、サンジの胸の中がホッコリとあたたかくなる。
そうだ、自分はこの笑みが見たかったのだ。
髪を撫でる指先の感触や、熱っぽさをサンジは求めていたのだ。
「エース……」
喋りたいことはたくさんあった。日々の些細なことから、大きなことまでそれこそ幾らでも、喋りたいことがある。聞きたいことも同じぐらいたくさんあった。
何から喋ればいいだろうか。
躊躇いがちに口を開くと、鼻先に軽くキスをされた。
「新世界へ出るのなら、忘れ物のないようにしろよ」
そう言って、エースはもう一度、今度はサンジの唇にキスをする。
あたたかな、懐かしい感触にしがみつこうとして、サンジは手を伸ばした。
「…──!」
咄嗟に掴んでいたのは、シーツだったらしい。
気付くとサンジは自分のベッドの中で、シーツを力いっぱい握りしめていた。
夢だったのだ、何もかも。エースと再会したことも、てのひらに砂を零されたことも、キスをされたことも。
だけど、嫌ではなかった。
たとえ夢の中だとしても、エースと会って、キスをした。それだけで充分だとサンジは思う。
まるで初な生娘のように、キスだけで胸がいっぱいになっていた。
早朝の靄の中、サンジは甲板に出ると煙草を口にくわえる。
まだ唇に、エースのキスの感触が残っている。あたたかな唇が悪戯にサンジの唇に振れ、ゆっくりと離れていく。完全に離れてしまう寸前で、唇をペロリと舐められた。あの感触は、本当に夢だったのだろうか?
そう言えば、エースに渡された砂の感触もやけにリアルだった。
ぼんやりと甲板の手摺りに背をもたせかけ、サンジはてのひらを見る。砂っぽいざらついた感触がしているのは、あんな夢を見たせいだろうか?
本物のエースの夢に、サンジの記憶の中のエースは叶いそうにない。サンジのニアリーイコールの世界が、崩れていきそうだ。
いや、それともあの夢もニアリーイコールの世界なのだろうか?
溜息をつき、煙草をふかした。ニコチンの香りにそっと目を瞑る。
風に吹かれる髪を片手で掻き上げた瞬間、寝間着代わりにしていたトレーナーの袖口の折り目からハラリと砂の粒が零れたことに、サンジが気付くことはなかった──
END
(H23.2.10)
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