『夏の唇』



  我ながら甘いなと、ゴロンとベッドに寝そべったままの姿でゾロは考える。
  久しぶりの陸での生活は、二日だけ。悪魔のような女航海士の大判振る舞いのおかげで、下町ではあるけれどそこそこの宿をとることができた。
  それなのに。
  のんびりしようとした矢先、部屋は相部屋となってしまった。
  女航海士の陰謀なのか、それとも野生の獣よろしくどこからか嗅ぎつけてきたのか、ゾロが部屋に案内されて五分と経たないうちに宿の主人はもう一人の客を連れてきた。
  目があった瞬間、奴はニヤリと不敵な笑みを口元に浮かべた。
「エロコック……」
  小さく呟くと、宿屋の主人が怪訝そうにゾロを見る。なんでもないとばかりに軽く主人を睨み付けてやると、主人はバツの悪そうな苦笑いを浮かべて部屋をそそくさと出ていった。
  二人だけになると、急に部屋の温度が上がったような気が、ゾロはした。
  我が物顔で荷物を部屋の隅に置いた男は、ちらりとゾロのほうを見てまた笑みを浮かべる。
「……なんでてめぇがこんなところにいるんだよ、あ?」
  威嚇するようにゾロが尋ねると、男はニヤニヤと笑ってベッドに腰をおろした。
「偶然……」
  様子を窺うように、青い瞳がちらりとゾロを見る。
「そう、偶然、主人に部屋は空いてないかと尋ねると、相部屋なら用意できると言った。だから案内してもらっただけだ」
  この部屋を借りる時、宿の主人は相部屋だと言っただろうか? そんな言葉を聞いた覚えはなかったが、もしかしたら言っていたのかもしれない。仕方がないと、ゾロは溜息を吐く。
  今から部屋をかわるにしても、金がかかる。腕にものを言わせて宿の主人に何とかさせることもできたが、目立つようなことはするなと女航海士からきつく言い含められている。たかだか二日間のことだ、自分が我慢すればいいのだとゾロは溜息をもうひとつ、ひっそりと吐き出したのだった。



  宿の一階部分は簡易な食事が提供される食堂となっていた。
  夕方になると二人は食堂で食事をとった。
  あまり喋ることはなかった。
  船の上では常に誰かがそばにいた。二人きりで言葉を交わすことなど、ほとんどなかったに等しい。たとえ二人きりになることがあったとしても、誰かの目がそこにはあったし、誰かの気配が常に感じられた。
  純然たる二人だけの時間は、陸に上がった時にしか得られることはない。これまでもそうだったし、おそらくそれはこれからもかわらないだろう。
  そして海の上とは違う二人の関係は、日常からは少し離れた位置にある関係でもあった。
  いわゆる、一時的な擬似恋人の関係だ。
  それはそれで構わないと、そんなふうにゾロは思っていた。相手は男だったし、自分もまた男だ。割り切ってしまえばどうということはない。
  船の上ではよくあることだと聞くし、海軍だろうと海賊だろうと、そういう一時的な関係を結ぶことは別に珍しいことでもない。
  しかし。
  陸の上での一時的な関係以上のものを海の上での生活に求めることは、自分の中の男としてのプライドが許さない。そんなふうにも感じていた。
  だからゾロは、陸の上での関係を船の上に持ち込んだことはなかった。
  陸は陸、海は海というわけだ。



  食事が終わってしまうとさらに手持ち無沙汰になり、ゾロは酒を飲むしか他なくなってくる。浴びるように……というわけでもなかったが、いつもより早いペースで酒を飲み進めていく。
  安酒なら水のように飲んでも惜しくはない。もっとも、懐具合には気をつけておかなければならないだろうが。
  日も沈み、食堂に次々と客がやってきだすと、ゾロは二階の部屋へと引き上げることにした。コックはだいぶん前に食堂を後にしている。もしかしたらコックも部屋に戻っているかもしれないと思うと溜息が洩れた。瞬間、どうしようかと迷ったものの、他に適当な行き場所が思い浮かばなかったため、ゾロは部屋に戻ることにした。
  階段を上がるとキシキシと音がして──もしかしたらこの宿は、見た目以上に古いのもしれない──、その音が、まるでゾロを嘲笑っているかのようだった。
  床をきしませながら階段をあがる。
  つきあたりの部屋のドアを開けると、部屋には誰もいなかった。
  肩すかしを食らったような感じがして、ゾロはあんぐりと口を開けたまま、ドアノブにかけた手をゆっくりとおろしていく。
  小さく息を吐き、部屋に入る。
  いったい自分は何を安堵しているのかと、刀をソファの上に静かに並べる。ベッドにごろんと横になると、階下の喧噪が床板越しに微かに聞こえてくる。
  こういう雰囲気は嫌いではなかった。
  目を閉じると、いっそう物音が大きく耳の中に響いてくる。
  今日はもう、このまま眠ってしまおう。そう思った途端、耳慣れた足音が廊下を歩いてくるのに気がついた──…コックだ!
  年甲斐もなくゾロの心臓がドキドキと脈打ちだす。
  まるでガキのようだとわざと顔をしかめる。そうすれば、早鐘をうつ心臓の鼓動を抑えることができるのだと言わんばかりだ。
  寝返りをうつと、きつく目をとじる。
  ──その瞬間、ドアが、静かにあいた。



  目を閉じていても、気配でわかる。
  コックが近づいてくる。ゆったりとした足取りで。機嫌がいいのは酒でも飲んだか、はたまた名前もわからないどこかの女といい思いをしたからか。
  じっと気配を窺っていると、ベッドが小さくきしんだ。
「おい、起きてるんだろ?」
  低く穏やかなコックの声は、耳に心地よかった。いつまでも聞いていたい声だ。
  じっとしていると、首筋のあたりを指で撫でられた。優しい指遣いに、つい、小さな吐息が洩れてしまう。
「やっぱり狸寝入りだったな」
  喉の奥でコックは笑う。心持ちビブラートのかかった声がゾロの耳元をくすぐり、ついでうなじのあたりを愛撫して消えていった。
  ならば仕方ないと腹を括って、ゾロは目を開ける。
  肩口をゆるゆると撫でていたコックの手に、自分の手を乗せた。
「……なんでここがわかったんだ」
  唸るように尋ねかけると、肩越しににやりと笑う気配が感じられる。嫌な笑いだ。
「そりゃあ、愛のチカラ……いてっ!」
  言いかけたコックの手のひらを力任せにつねりあげると、おもむろにゾロはベッドの上に起きあがった。
「なんで、ここがわかったんだ?」
  じっと蒼い瞳を見据えて尋ねる。サンジは口の端をひくひくとひきつらせ、それから宥めるような眼差しで見つめ返した。
「道を歩いていたら、偶然、オマエの姿が目に入ったんだよ。それで、その……どこへ行くのかと思って後をつけて、だな…──」
  言い訳がましいコックの言葉に、ゾロは憮然とした表情をする。
「つけてんじゃねぇよ」
  ごそごそとサンジのほうへ向き直ると、ゾロは目をすがめた。
「つけてねぇで、声くらいかけろよ」
  それがゾロ特有の甘えだと、サンジは気付かない。誰に対してもゾロはきっと、こんな風に返すのだ。それがわかるだけに、自分に対していつどの場面で甘えられているのかが、サンジには判断がつかずにいた。
「ああ……そうだな」
  そう言って、サンジは視線を逸らす。
  居心地悪そうにゾロはベッドの上でごそごそと体を揺らした。
「それで、本当はどうしたいんだよ、ああ?」
  ぶっきらぼうにそれだけ言うと、ゾロはぷい、と横を向いた。
  それ以上の言葉を口にするには、まだ理性のほうが勝っているようだった。



  唇が降りてくる。
  優しく、そっと、触れるだけのキスを何度も与えられた。
  軽く掠めていくだけの唇の感覚に、ゾロは微かに喘ぐ。
  しがみつく手から力が抜けていきそうになり、慌てて首の後ろにすがりつく。サンジの首筋に鼻先を埋めると、小さく笑われたような気がした。
  悪い気はしなかった。やさしい指と唇とに翻弄されていると、それだけで何も考えられなくなってくる。サンジの唇が触れたところはどこもかしこもが熱を持ち、ピリピリとした痺れたような感触を残していく。
「──…もっと、ゆっくり……」
  小さく、悲鳴のような声で懇願すると、サンジは指先でゾロの乳首をキュッとつまみあげた。
「んっ……ぁっっ……!」
  痛みと快感が入り交じり、頭の中で渦巻いている。ゾロの体の中心には熱いものが集まり、解放される瞬間を今か今かと待ち望んでいた。
「そう悠長なことも言ってられないんじゃねえの?」
  喉の奥で微かに、サンジが笑った。
  そう言われてゾロは、拗ねたように視線を逸らした。
「……わかってら、それぐらい」
  むくれた顔に、サンジはまたしても口づけをした。ゾロの唇にサンジの熱っぽい唇が触れると、今度こそ離さないようにとゾロは両手でしっかりサンジの後頭部を押さえつけた。
  唇の隙間から舌をのぞかせ、サンジの舌を誘い込んだ。
  サンジの唇の熱が、ゾロの体温を上昇させていく。
「ゆっくり、な……」
  唇の隙間から、掠れた声でゾロが囁く。
  サンジは黙ってゾロの舌を吸い上げた。





END
(2007.7.29)



SZ ROOM