『胸が、痛む』
キスをして、互いの唾液を飲み合った。
ぴちゃ、ぴちゃと湿った音がする。
扇情的なその音に、ゾロはぞくりと肩を震わせた。
サンジの口元には、唾液と、朱色の血が零れている。さっき、ゾロが噛みついた跡から、一筋、血が流れている。滲む程度に軽く噛んだはずだったが、どうやら力が入りすぎたようだ。
「あ……悪りぃ」
低い声でゾロは呟いた。
指でサンジの口元の血をぬぐうと、舌で傷の部分を舐めてやる。
「何を謝っているんだ?」
と、サンジ。
噛まれた瞬間は痛いだの何だのとさんざん騒いでいたサンジだったが、もう忘れてしまっているのか、今は気にする様子もなくゾロのしたいようにさせている。
ちらりとゾロが上目遣いにサンジを見ると、思いの外優しい眼差しが返ってきた。
「……今日は、キスだけ」
そう言って、サンジはさらに深くゾロの唇を吸った。
舌と舌とを絡め合い、歯の裏を舐める。息があがってくると、ゾロの喉の奥から甘えるような声が洩れた。
ゾロの身体は微かに震えている。
キスだけでなく、もっと触れてほしかった。
指で、唇で、舌で。
身体中あますところなく触れてほしい。
そんなふうに思いながらも、ゾロはただ黙ってサンジのキスを受けた。
ゴーイングメリー号が港に入港するとサンジはいつもより念入りに身嗜みを整え、そそくさと桟橋を渡り、路地の向こうへと消えていった。
ゾロは何をするでもなく、いつものようにトレーニングを始める。昨日の熱が、まだ身体の中心で燻っている。結局、昨日は皆の目を避けるようにして船倉に下りたものの、キスだけで終わってしまった。いつもならキスだけですむはずもなかったのだが、サンジの気紛れで何もないままに終わってしまった。
やりきりないような重苦しい溜息を吐くと、ゾロはトレーニングに意識を集中させる。
身体の熱は、トレーニングで解放すればすむことだ。
バーベルを掲げ、一心不乱に身体を動かす。
こういう時は、何も考えなければいいのだ。
ただ強くなることだけを考えて、身体を、精神を、鍛えてさえいればいいのだ。
もやもやとした想いを胸の奥に押し込んでしまうと、ゾロはただがむしゃらに身体を動かし続けた。
「下りないの?」
尋ねてきたのはナミだ。
ゾロは軽く肩を竦めると、淡々とした調子で返した。
「ああ、後でな」
「……じゃあ、あたしの用事がすんだら留守番かわってあげてもいいわよ」
にやりと笑って、ナミ。
「いや、適当にするから……」
ゾロが言った瞬間、ナミが目をつり上げて睨み付けてきた。
「なによ、アンタ。人がせっかく親切に申し出てやってんのに、ことごとく逆らおうって言うの?」
恐ろしいまでに怒気を含んだ声色のナミを適当に聞き流しながらゾロは、これから出航までの時間をどうやって過ごそうかと考える。トレーニングはそこそこのところで打ち切って、ダラダラと過ごしてみるのもいいかもしれない。
何しろサンジがいると神経が張り詰めてしまい、心の安まる時がなかなか得られないのだから。
もちろん、一緒にいて落ち着くこともある。二人で抱き合った後の時間を過ごすのはゾロも好きだったし、それ以外にも何かの拍子にふと穏やかな眼差しで見つめられると、こう、胸の奥がきりり、と痛むこともある。
要は、その時のゾロの気分次第で良くも悪くもなるといったところだろうか。
「とりあえず、お前ぇは下りろ。俺が留守番してっからよ」
ゾロがそう言うとナミは、驚くほどあっさり引き下がった。
「そう……じゃ、いいわ。あたしはこれから街に繰り出してきますから、どうぞ留守番お願いしますね」
馬鹿丁寧な言葉遣いと微かな含み笑いを残したまま、ナミは桟橋を渡って人混みの中へと行ってしまった。
一人きりの甲板で、ゾロは深い溜息を吐いた。
人の気配がなくなると、途端に夕べのキスが脳裏に蘇ってくる。
サンジの唇は優しかった。あたたかくて、ほんのり薄荷煙草のかおりがして。ざらりと舌で口腔内に触れられると、鳥肌が立った。
同じ男なのに何故、こんなにも惹かれてしまうのだろうか。
──何故だ?
とりとめもなくそんなことを考えているうちに、桟橋から足音が響いてきた。
サンジの足音だ。
どうしようかと甲板の隙間からちらりと下を覗くと、鼻歌を歌いながらサンジが歩いてくるところだった。
「よっ、未来の大剣豪」
酔っているのか、随分と陽気な素振りでサンジは声をかけてきた。
「他の連中はどうよ、もう戻ってるのか?」
いつになくにこやかな様子に、ゾロは口をへの字に曲げてみせる。不覚にもにこりと笑ったサンジの顔が眩しくて、戸惑ってしまった。自分と同じ男相手に何を惚けているのだと、心の中でゾロは自分自身を叱咤する。
「お前がいちばん先だ」
不機嫌を装って返すゾロに、サンジは近づいてきた。
「後で昨日の続きしてやるから、そうむくれなさんな」
軽くこめかみのあたりにキスを落とされ、雰囲気に流されてしまいそうになる。
咄嗟に身を振り解き、睨み上げた瞬間、サンジの眼差しに捕まってしまった。
「こっちの用事がすむまで、ここで待ってな」
戸惑いながらも確かにサンジに惹かれている自分が、そこにはいた。
キッチンへと入っていくサンジの背中を眺めながらゾロは唇を噛み締めた。
こんなはずではなかったのに。自分と同じ男にこんなにも気持ちを持っていかれてしまうなど、いったい誰が考えただろう。
そして同時に、サンジの言葉に期待を抱いている自分がここに……
噛み締めた唇の端に血が滲むまで、ゾロは力を込めた。
心の中で渦巻く甘酸っぱい痛みに比べればどうということもない傷口からは、錆びた鉄のような味がしている。
きりきりと胸の奥が痛むのを誤魔化すため、ゾロは鳩尾のあたりに拳を当てた。
キッチンからは、サンジの鼻歌が微かに聞こえてきていた。
── END ──
(H15.8.26)
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