明け方、まどろみの中で唇に生あたたかな感触を感じた。
それが何だか分からないまま、ウソップは手の甲でごしごしと唇を拭い、毛布をたぐり寄せた。
まだ、早い。眠ってろ──誰かの声が耳元で聞こえたが、それが誰の声なのかを考えるよりも早く、意識は途切れてしまった。
だから、ウソップは知らない。
唇に触れた感触が何なのか。その一瞬、ウソップ自身が夢の中でとても幸せな気分になったことさえも。何もかもが夢という名の幻の中に紛れ込んでしまい、そんな気分になったことすら断片的で、酷く曖昧になってしまっていた。
ただ。
目覚めた時、唇にほのかに残るぬくもりの感触が、今日はいい一日になるぞと告げているようで、それがとても嬉しかったのだ。
何か、とてつもなくいいことがある……かも、しれない。
うきうきとした気分でGM号の甲板にあがっていくと、目玉焼きの匂いが潮風に乗って流れてきた。
ぐぅぅ、と鳴る腹を押さえながら、キッチンのドアから中を覗くと、ちょうどこちらを振り返ったサンジと目があった。
「よっ、長っ鼻。早いな」
少し驚いたような目をしたものの、すぐにいつものポーカーフェイスに戻ったサンジが言った。
「ああ……おはよう、サンジ」
「メシならできてるぞ。他の連中を呼んできてくれ」
目を伏せて喋るサンジの口元が気になった。
あの唇は、なんていい形をしているのだろうか、と。
「──あ…ああ、わかった」
そう返すとウソップは、慌ててキッチンを飛び出した。
サンジの唇を見ていると、何故だか頬がカッとなったのだ。
──何故だろう。
思いながら、ウソップは他のクルーを起こしに行った。
朝食の後のひとときは船長の鬨の声でにわかに騒がしくなった。水平線の向こうに島が見えたのだ。
島は、地図にも載らないほど小さな島だったが、久方ぶりの陸地に誰もが皆、喜び勇んだ。
ウソップをはじめ全員が、優秀な女航海士の指示のもと、船を岸につける作業にあたった。
岸に着くなりルフィは甲板から飛び降り、海岸線に続く森の中へと駆けだしていった。
いつもならウソップもチョッパーも同じように飛び出して行っているところだったが、今日は少々勝手が違った。ウソップが同じように船を降りようとしたところ、女性陣二人に頼み込まれてサンジと二人で船番をすることになってしまったのだ。
「ごめんなさいね、長鼻くん」
「ホント、悪いわね、ウソップ」
口々にそう言われると、悪い気はしないウソップだった。
快く二人の女性たちを送り出し、ついでゾロとチョッパーがルフィと合流するために連れ立って森の中へ消えて行くのを見届けてから、ウソップは頼まれていた洗濯にとりかかった。
本当は、自分も船を降りたいと思っていた。なんといっても久しぶりの陸だったし、ルフィとチョッパーが一緒なら、森の中へも行ってみたいと思っていた。それなのに、今日のところはお預けだと言われると、余計に陸地が恋しくなる。
洗濯物をごしごしと洗濯板で擦りながら、ウソップはふと視線を感じて顔を上げた。
「よしよし、真面目に働いてるな」
目が合うと、サンジはそう言ってにっこり笑った。ザルいっぱいのジャガイモを抱えたサンジは、ウソップから少し離れたところにドスンと腰を下ろし、ジャガイモの皮を剥き始めた。
「後で、うまいもん食わしてやるからな」
サンジの低い声が、耳に心地よい。
またしてもウソップはサンジの唇の動きを追ってしまっていた。
あの唇に触れてみたいと、そんな風に思った瞬間、我に返る。自分はいったい、何を考えていたのだろう。サンジの……男の唇に触れたいだなんて、どういうことなんだ。男の自分が、男のサンジのことが気になるなんて。
さっと目を伏せて、それから恐る恐るもう一度、サンジへと視線を向けてみる。
硝子玉のような澄んだ青い瞳が、じっとウソップを見つめていた。
ドクン、ドクンと、心臓が音を立てる。
「あ……──」
さながら蛇に睨まれた蛙のように、ウソップはじっとサンジの目を見つめることしかできなかった。
ドクン、ドクン。
また、鼓動が高鳴る。
「……後で、だ」
そう言って、サンジはふっと視線を逸らした。シャツの胸ポケットから煙草を取り出すと、慣れた手つきで火をつけた。
「洗濯、さっさと終わらせてしまえよ」
唇の動きが艶めかしい。煙草をくわえたままの状態で、唇だけが滑らかに言葉を紡ぎ出している。伏せていたはずの青い目が、ウソップを軽く睨み付けた。
ウソップは慌てて洗濯を再開した。洗濯が終わらないことには、ゆっくりとすることはできない。ごしごしと洗濯板に布を押し付けると、小さな泡がふわりと浮き上がっては風に乗って船尾のほうへと流れていく。
ムキになってごしごし擦っていると、カタン、と音がした。顔を上げると、ジャガイモの皮を剥き終えたサンジがにやりと笑ってキッチンへと戻っていくところだった。
なんとか洗濯を終わらせると、洗い上がった洗濯物を甲板に干していく。おおかたは男性陣の衣類やシーツだった。女性陣の洗濯物は、ひとつとして混ざっていない。反対に、混ざっていたらお互い気まずい思いをすることになるかもしれない。
シーツを干していると、石鹸の匂いに混じって煙草の香りがした。サンジのシーツだ。何故だか気恥ずかしくなったウソップは、ドギマギしながらシーツの皺をのばす。
時折、頬を撫でていく潮風が心地好い。
もう一枚、シーツを手に取ろうと屈んだところに影が落ちた。サンジの影だ。
「手伝ってやるから、ありがたく思え」
にやりと笑ってサンジが言う。
「お……おうっ」
返しながらもウソップは、耳の付け根から頬にかけてがカッと熱くなったのを感じていた。サンジは、ウソップの顔が赤いことに気付いているだろうに、からかうでもなくせっせと手を動かしている。
「ほら、お前もさっさと手伝え。だいたいお前の仕事だろう、これは……」
ブツブツと小言を口にしながらもサンジは、どこか楽しそうに洗濯ものを次々と物干し用に準備したロープにかけていく。
潮風にはためくシャツの隙間から覗いたサンジのうなじは驚くほど白くて、ウソップはぎょっとした。
「サンキュ」
ウソップが呟いた言葉は、少し掠れていた。
干したばかりのシーツが悪戯好きの風に煽られ、バタバタと音を立てている。
穏やかな朝の日の光はやさしくて、あたたかい。
「どういたしまして」
悪戯っぽく返すサンジは、真っ直ぐにウソップを見つめている。
どうしたものかとウソップが考えていると、サンジが素早く身を寄せてきた。蒸かしたジャガイモのおいしそうな匂いがふわん、とサンジのシャツから立ち上る。
「いい子にしてたら、夜には宴会だ」
耳元でサンジが囁いた。
「えっ……」
その言葉の意味するところがよく分からずに尋ね返そうとした途端、サンジの唇がウソップの唇をさっと掠め取っていく。
「誕生日だろ、今日はお前の」
そう言ってもう一度、サンジはウソップの唇を甘く噛んだ。
生あたたかな感触に、明け方の夢がウソップの中で蘇ってくる。
「あ……?」
片手で唇を拭おうとしてウソップは、ふと手の甲に目をやった。
「ハッピーバスディ、ウソップ。皆には内緒だぞ」
もう一度、サンジからのキス。
あたたかな唇に、ウソップはようやく気が付いた。明け方、唇に感じたあのぬくもりは、サンジの唇が触れた感触だったのだ──と。
「いい子にしてろよ?」
お楽しみはこれからだと、サンジはそっとウソップの耳朶にかじりつく。
これって、もしかして…──ウソップが金魚のように口をパクパクさせていると、サンジの人差し指が軽く唇に押し当てられた。
「まだ、言うな。楽しみは宴会までとっておけよ?」
低く歌うような声に、ウソップは夢見心地で頷いたのだった。
(H19.4.4)
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