夏の風1

  風は生ぬるく、あたりには錆びた鉄のような血の匂いが漂っていた。
  目を眇めた同田貫は口の中に滲んだ血を地面に吐き捨てると、ぐるりとあたりを見渡す。
  今や波留の本丸は混乱していた。
  審神者である春霞は、異形のものたちに連れ去られた。薬研は腹を斬られて重傷だ。他の刀剣男士たちも、大なり小なり怪我を負っている。
  同田貫は馬の背に跨ると表へ飛び出していく。
  暗がりでも夜目の利く同田貫には、どうということもない。春霞を連れた異形のものが森の中へと入っていくのを見つけると、躊躇うことなく後を追う。
  春霞がいなければ、波留の本丸は機能しない。刀剣男士たちを手入れし、戦や遠征へと送り出す審神者がいなければ、自分たちはただの道具以下に成り下がってしまう。
  逸る気持ちを押さえつけながら同田貫は、そっと馬を進めた。
  逃げた異形のものは、無傷だ。まるで検非違使のように鮮やかな色の黄金の槍だった。素早さも検非違使並みで、ひと太刀も浴びせることはできなかった。
  いや、違う。この言い方はよくない。斬り込んでいくことすらできなかったのだと同田貫は思い直した。
  自分はもう太刀ではない。
  名津の本丸で顕現した時には確かに自分は太刀だったが、審神者である夏海が行方をくらました後に政府からの通達を受けて打刀となったのだ。太刀だった頃とは違い夜目の利く自身に満足はしていたが、いまだに馴染むことができないでいる。
  太刀だった頃の自分も悪くはなかったが、打刀の自分もなかなかのものだと思ってはいても、まだ心のどこかで整理がついていないのだろう。
  先へ、先へと進んでいくと、後方から長谷部の声が聞こえてくる。御手杵と一緒に同田貫を追ってきたらしい。
「ちっ……うるせぇのが来ちまったぜ」
  口の中で呟くと同田貫は、馬を急がせる。
  この森はよく知っているから、いざという時には夜でも馬を走らせることができる。敵よりも、こちらのほうに分はあるはずだ。
  時折、森の中から春霞の声が聞こえてきた。
  ずっと薬研の名を呼んでいるのは、彼女の目の前であの短刀の少年が斬られたからだろう。
  不意に、敵の馬の蹄の音がすぐ近くに聞こえた。
「春霞ー!」
  地面に落ちた小枝や草を踏みしだく音にまぎれて、春霞の声がはっきりと聞こえてくる。
「待ってろ、今助けてやるからな!」
  同田貫は声を張り上げた。
  敵が何人いようが構わなかった。春霞がいなければ……審神者がいなければ、自分たち刀剣男士の存在意義はなくなってしまうのだから。
  だから、何が何でも同田貫たちは春霞を助け出さなければならないのだ。
  口元をひきしめ、きりりとした顔つきになると同田貫は、暗がりの向こうへと目を凝らす。
  うっすらと見える木々の向こうに、馬に跨った敵の姿が見えた。小脇に春霞を抱えている。
「いた!」
  同田貫は軽く手綱を引くと、馬の腹を蹴った。
  木々の間を抜け、暗がりの中を進んで確実に敵に近付いていく。
  敵に抱えられた春霞は、不自然な体勢で今にも地面へ投げ出されそうになっていた。それでも大袈裟に怖がるわけでもなく、ただ薬研のことを心配して名前を呼んでいる。
  先回りをすると同田貫は、敵の正面へと飛び出した。
「待てよ。春霞は置いてってもらうぜ」
  抜身の刀を手に、敵を睨み付ける。不思議と恐怖は感じなかった。
  それよりも春霞を助けなければと、そのことばかりが同田貫の頭の中にあったのだ。
  敵は春霞を抱えるのと同じように簡単に、槍を手にした。御手杵と同じ槍の使い手だ。
  遠くのほうから、追いついてきた長谷部と御手杵の声が聞こえてくる。
「待て、同田貫。早まるな!」
  長谷部の声がした。
  待ってられるかと同田貫は思った。
  あの二人が到着するのを待っていたら、敵は春霞を連れて逃げてしまうかもしれない。
  二度、大きく深呼吸をすると同田貫は手にした刀を握り直した。
「春霞を返せ、怪物め!」
  馬の腹に蹴りを入れると、敵へと向かっていく。
  正面からではなく、少し斜めの方向から斬りかかっていく。
  腕を振り上げた瞬間、同田貫の胸のあたりを鋭いものが貫いた。
「アッ、ぐ……?」
  ヒュッ、と喉が鳴るのが聞こえた。
  敵がニタリと笑ったように見えた。
  耳をつんざくような春霞の悲鳴が森の中に響き渡る。
「は、るか……」
  二歩、三歩と馬が歩く。乗り手の力が抜けたことで、自由にしていいと思ったらしい。同田貫の体は槍に貫かれたままぶらんと宙に浮いた。
「同田貫くん!」
  春霞が叫んだ。
  刀を振り回そうとしても、槍に体を貫かれ、この距離では手が届かない。同田貫は敵の心臓部めがけて刀を投げつけようとしたが力が足りず、地面の上に投げ出しただけだった。
  カラン、と寂しい音がして、刀が土の上に放り出される。
「春霞……薬研は無事だぞ……」
  だから、早く戻ってやれ。そう言いたかったが、口の中に血がこみあげてきて、最後まで喋ることができなかった。
  同田貫がガボッ、と血を吐くと、敵は億劫そうに槍を振った。槍の先が同田貫の体から抜けて、まるで襤褸布のように払い落された。どう、と地面に転がった同田貫のすぐそばから、敵は悠々と離れていく。
  泣き叫ぶ春霞の声が、同田貫の耳に響いてくる。
  ああ……と、同田貫は思った。
  自分はこのまま折れてしまうのだろうか。命を失ってしまうのだろうか。
  もう二度と、春霞や御手杵たちと一緒に喋ったり笑ったりすることができなくなってしまうのだろうか。
  馬の足音が遠ざかるにつれて、春霞の声も遠くなっていく。
「はる、か……」
  名前を呼ぶと、口の中からまた血が溢れた。胸からの血も止まらない。指先が痺れたようになって、だんだんと体が冷たくなっていくのが感じられる。
  遅れてやってきた長谷部と御手杵が、同田貫の様子に気付いたのか、慌てて体を抱えようとしてくれた。
「御手杵……やられちまったわ、俺……」
  自嘲気味に呟く。
「喋るな、正国。本丸へ戻ろう」
  死ぬ時というのは、こんなあっさりとした感じなのだろうか。もっといろいろ思うことがあるのではないかと考えていたが、今の同田貫には何も考えられない。ただもう一度だけ夏海の顔を見ることができたらと思わずにはいられなかった。
  初めて名津の本丸で人の姿に顕現した自分にとっての主は、夏海しかいない。
「夏海に会いたいな……」
  ぽつりと呟いて、目を閉じる。
  目を開けていることすら苦しくて、たまらない。力が出ないのだ。
  ゆっくりと力が奪われていくような感じがする。
「正国、目を開けろ!」
  御手杵の腕が、ぎゅっと同田貫の体を抱きしめてくる。
  名津の本丸からの腐れ縁で、ずっと一緒の御手杵とは喧嘩もしたし、悪さもした。いい悪友だと思っている。この男がいなくなったら自分は生きてはいられないとまで思ったこともある。それなのに御手杵は生きて、自分は死んでいこうとするだなんて、人と言う生き物は不思議なものだ。
  御手杵の服の裾をぎゅっと握りしめていた同田貫の手から、ゆっくりと力が抜けていく。
「おて……ぎ、ね……」
  掠れた声は、これは本当に自分の声だろうか。
  まるで老人のように、しわがれて力のない声をしている。
  指先に力が入らない。指が離れて、ずるずると手が滑り落ちていく。
  同田貫がのろのろと目を開けると、すぐ近くに御手杵の顔があった。
「泣くな、御手杵。いい男が……台無、し……」
  ポトン、と同田貫の手が落ちた。
  力が出ないから、もう御手杵の着ているものを掴むだけのこともできない。
  目の前の顔がかすんでいく。
  やっぱり、まだ死にたくない。不意にそう思った。
  まだ自分には、すべきことがある。春霞を助けて、この本丸の行く末を見届けたい。そうしていつか、夏海を見つけ出したい……!
  同田貫の体を抱きしめたまま、御手杵は泣いていた。
  あんた、男のくせに泣き虫だなと言ってやりたかった。
  だが、声すらももう出てこない。
  呼吸をすると、カハッ、と咳が出た。心臓のあたりだけでなく、全身が痛い。
  ゆっくりと目を閉じて──その瞬間、同田貫は心臓の鼓動が大きく脈打つのを感じた。
  いきなり肺に大量の空気が流れ込んできた。熱くて、眩しくて、激しい痛みが全身を包み込んでいく。
  俺は死ぬのか? これが死か? そう思ったものの、何かが違うような気がする。
「──お待たせ、たぬ君」
  その時、夏海の声がはっきりと聞こえたような気がした。
  目を開けようとすると、今度は瞼はやすやすと開いてくれた。暗がりの中に夏海がいるのがわかった。
「な……つみ?」
  目の前の顔は、笑っていた。
  夏海が、おおらかな笑みを浮かべて同田貫に手を差し伸べてきていた。
「なんで、あんたが……」
  言いかけた同田貫の手をぐい、と夏海は引っ張った。
  勢いよく同田貫は起き上がると、自分より少し背が低いだけの夏海をまじまじと見つめる。
  敵の槍に心臓を一突きにされて貫通していたはずだが、あの怪我はどうなったのだろう。怪訝そうに同田貫は自分の体を見、それから夏海の顔を見た。
「おーおー、さっすが極のお守り。よく効くわ」
  関心したように呟きながら夏海はポン、と同田貫の肩を叩いた。
「ごめんね、たぬ君。長らく留守にしてて」
  そう言いながら夏海はぐるりと周囲を見回す。つられて同田貫も見回した。
  御手杵と長谷部がいる。二人とも、泥だらけで軽傷を負っている。
  同田貫のことを心配してるらしきことはわかったが、夏海がそばにいるため、二人とも声をかけるのを躊躇っているらしい。
「ぎね君、そっちの刀剣男士、誰?」
  うちのじゃないよねと夏海が尋ねる。
  名津の本丸の審神者が戻ってきたのだと思うと、同田貫は嬉しくて仕方がなかった。
  何がどうなったのかはわからないが、おそらく同田貫が死ぬ寸前に夏海がこの世界に戻ってきたのだろう。と、同時に、どうも同田貫が持たされていたらしいお守りが発動したようなのだ。
「あんた……今までどこで、何やってたんだ?」
  こっちは二度も死にそうな思いをしたんだぞと同田貫は言った。
  御手杵と加州、二人が自分の目の前で死にそうになった時、夏海はいったいどこにいたのだろう。
「ああ、ごめん、ごめん。ちょっと大学の単位がたりなくてさ、部屋で缶詰してたのよ」
  そう言うと夏海はうーん、と豊満な胸を強調するように伸びをする。
  大学だとか単位だとか缶詰だとか、夏海の言葉は相変わらずわからない単語が多い。同田貫は眉間に皺を寄せると、長谷部のほうを振り返った。
「それより、ここどこ? 名津の国じゃないよね?」
  尋ねられて同田貫はああ、と頷いた。まずはそこから説明しなければならないようだ。
  そして長谷部も御手杵もどうやら状況の把握ができていないらしい。
「とりあえず本丸に戻るべきなのだろうな」
  ぽそりと長谷部が言った。

          ※※※

  波留の本丸に戻った一行は、まずは状況確認から始めることにした。
  敵は春霞だけを狙っていたらしい。城門から侵入した異形のものたちは短刀たちだけでも充分に対応できる錬度の弱いものたちだった。留守を守っていた刀剣男士たちは薬研以外は特に大きな傷を負うこともなく、本丸で同田貫たちの帰りを待っていた。
  薬研に関しては夏海が手入れを試みたが、どうにもうまくいかなった。一命を取り留めはしたが、しばらくは安静にする必要があるだろうと思われる。
  仕切り直しだと、春霞の部屋に夏海を案内すると、中断していた秘密会議の続きが始まった。
  連れ去られた春霞と、重傷の薬研は抜けたままだ。
  かわりに夏海、それに春霞から密命を受けて動いていた小夜が秘密会議に加わることとなった。
「夏海はそこに座って話聞いてりゃいいから」
  同田貫が言うと、夏海は困惑したように御手杵のほうへと視線を向けた。
「ねえ、ぎね君。ここ、パソコンないの? タブレットは?」
  また夏海は訳の分からないことを言っている。
  訊かれた御手杵のほうも何を言われたのかわからずに、怪訝そうな顔をしている。
「ここはあんたの本丸じゃねえから、んなもんどこにもないぞ」
  これ以上は余計なことを喋るなという眼差しを同田貫が向けると、不満そうながらも夏海は諦めたらしい。そのかわりに、今度はきょろきょろとしだした。落ち着きなく集まった刀剣男士たちを眺め、それから同田貫と御手杵へと視線を向ける。
  同田貫は眉間に皺を寄せた。
  見かねた一期一振が、夏海に声をかける。
「夏海殿、でしたな。ここは波留の国です。波留の本丸の主はあいにくと不在ですので、私から説明を致します」
  そう言うと一期一振は、ちらりと長谷部のほうを見た。長谷部は何も言わない。このまま一期一振にこの場を任せることにしたのだろう。
「まず、この本丸には波留の本丸の刀剣男士たちがおります。全員ではありませんが、ここにいるへし切長谷部と燭台切光忠、それに小夜左文字が波留の国の者たちです。それから、夏海殿のおられた名津の本丸から来た同田貫と御手杵がいます」
  と、ここで一期一振は言葉を切った。
  夏海が理解できているかどうかを確かめるように一呼吸置いてから、ニコリと笑う。
「私は、合希の国の出です。弟たちと共にこの本丸に置いていただいています。もっとも、先ほどあなたに手入れをしていただいた薬研は布由の国の出です。不在の審神者と共に、布由の国からやってきたのです」
「なに、それ……」
  顔をしかめて夏海が呟いた。
「何で皆、出身が違うわけ。ここが波留の国なら、波留の本丸で鍛刀された者ばかりのはずじゃないの?」
  疑うような眼差しで、夏海は一期一振を凝視している。
「でも事実、皆それぞれに出身が異なるのですよ」
  優しく諭すように、一期一振は言った。
「そこの同田貫と御手杵があなたの本丸で鍛刀されたように、私と弟たちは合希の本丸で鍛刀されました。もちろん、ここに集まった刀剣男士たちが仕える審神者もそれぞれ異なるのですよ。本来なら、こんなことはあり得ないのですが」
  本来なら、と一期一振は強い口調で告げる。
  そうだ。本当なら同田貫も御手杵も、夏海と一緒に名津の本丸にいるはずだ。それなのにこの波留の本丸にいる時点で、すでに妙なのだ。
「合希の国……合希の本丸って言ったら……」
  夏海がぼそぼそと口の中で呟く。
  怪訝そうに眼を眇めて、一期一振をまじまじと見据える。しつこいぐらいに顔を見て、全身を見て、それからようやく夏海は「ああ!」と合点がいったというように声を上げた。
「合希の本丸って言ったら、秋穂姉ちゃんとこの!」
  そう言ったかと思うと夏海は勢いよく立ち上がり、一期一振に近づいていく。
「ね、そうだよね? 秋穂姉ちゃんとこの一期一振だよね、あんた?」
「そ……れは、確かに……合希の国の秋穂殿は我が主にござますが……」
「なんだ、やっぱそうなんじゃない。知ってるよ。姉ちゃん、あんたと骨喰のことお気に入りだったもんねぇ」
  嬉しそうに夏海は言った。
「まさかこんなところで会うなんて、思ってもいなかったわ」
  あっはっはっ、と夏海は豪快に笑う。
「あの……夏海殿は、秋穂殿のことをご存じで?」
  恐る恐るといった様子で一期一振は尋ねかけた。まさか審神者同士が通じているとは思いもしなかったようだ。もっとも同田貫も、そんなことは考えたことがなかったのだが。
「知ってる、知ってる。嫁に出たけど、あたしの姉貴だからね。この間三人目ができたから、今は里帰り中。後で会わしたげるよ」
  そんな安請け合いをして大丈夫なのかと同田貫が渋い顔をしていると、それに気付いたのか夏海はちらりと視線を向けてきた。
「あのさ。会議するなら、あたし抜きでやってよ。やっぱパソコンなりタブレットなりないと落ち着かないから、一旦取りに戻るわ」
  そう言うと夏海は、そそくさと部屋を出て行こうとする。
「おい、ちょっと待て。どうやって、どこに戻る、ってんだ?」
  慌てて同田貫は声をかけたが、障子がパン、と音を立てて閉まった次の瞬間には、夏海の姿はもうどこにもなかった。



(2015.8.18)


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