不実な願い

  ダン、と耳元で鈍い音がした。
  火神がロッカーのドアを力任せに叩いた音だ。
  一瞬、ビクッと肩を竦めそうになったが、黒子は奥歯を噛み締め、そうすることをぐっと堪えた。
  火神は苛立っているわけではなかった。
  それでも、抑えきれないほどの強い覇気のようなものを男は全身に纏わり付かせている。
  部活の後、練習試合後の熱が体に残ってジリジリと燻っているのだろうということは、黒子にもすぐにわかった。
「……ロッカーを殴ったって何の解決にもなりませんよ、火神君」
  いちど体の中にこもった熱は、いつまでたってもこのままだ。燻り続け、ますます神経を苛立たせるだけだ。熱が引くまではずっと、このまま。この状態のままだ。
「いちいちうっせーんだよ、おめーは」
  チッ、と舌打ちをして火神は、汗まみれのユニフォームを脱ぎ捨てる。無造作に鞄の中につっこむ。その動作は酷く緩慢で、彼の疲労の強さを物語っている。当然だろう。試合と試合の合間の練習は、半端なく苦しい。何も部活が苦しいというわけではない。自分たちで組んだメニューが少しばかりオーバーワーク気味だったというだけだ。その上、それぞれが苦手としている部分を補うための自主トレを部活以外でもしている。部員の誰もが苦しいのだ、今は。
「体、冷やさないようにしたほうがいいですよ」
  さっさと制服に着替えた黒子はそう告げると、ロッカーから荷物を取り出す。学校指定の鞄を肩から下げると、怠い体を引きずるようにして部室を後にしようとする。
「あ……今日は火神君がラストですから、鍵の返却お願いします」
  他のメンバーは既に部室を後にしている。火神と黒子だけが部活の後、続けて自主トレに突入した。二人とも性格は正反対だというのに、気の強さはどちらも一歩も譲ろうとしないところがある。結局、二人して仲良くあたりが真っ暗になる時間まで自主トレをすることになってしまった。
  一番最後に部室を出る人間が鍵を返却するのはいつものことだから、黒子は、少しくらい不機嫌な顔をしていても火神が了承すると思っていた。ぶっきらぼうに、「返しときゃいーんだろ」と言ってくれるものだと思い込んでいたのだ。
「……じゃあ」
  そう言って部室のドアに手をかけようとしたところで、背後から火神に肩を掴まれた。
「待てよ」
  おそろしく不機嫌そうな、低い唸り声が耳元で響く。
  怪訝そうに振り返った黒子はそこに、飢えて獰猛な獣のような男を見たような気がした。



  ガッ、と音が響く。耳元で、頭の後ろで、体のすぐ後ろで。
「火…神、君……?」
  掠れた声で黒子は男の名前を呼ぶ。
  頭がクラクラとするのは、火神に肩を掴まれた後、ロッカーに背中を押し付けられ、その時に後頭部や肩をぶつけたからだ。その衝撃で、頭が痛い。なんて馬鹿力だ。
「待てよ、黒子。スカした顔してっけど、お前は平気なのかよ?」
  火神の言葉には、主語が足りないことがある。噛み付きそうな勢いで食ってかかってきているが、これは単なる八つ当たりでしかない。自主トレでの自分の動きに納得がいかなかったのを、何かに転嫁しようとしているだけだ。
「……頭、冷やしたほうがいいですよ、火神君」
  そう言って黒子は、火神のすねをしたたかに蹴り付ける。
「っ……!」
  ガッ、と鈍い音がして、咄嗟に火神は黒子の肩から手を放しかけた。
  手の下で小柄な体が筋肉を緊張させ、今にも逃げ出そうとしていることに気付いた途端にしかし、火神はいっそう強い力で黒子の肩を掴み直す。
「バーカ。逃がすかよ」
  ちらりと、思わせぶりに舌をひらめかせた火神は、自分の唇をペロリと舐めた。
「今から反省会でもするつもりですか?」
  一人で反省会でも何でもすればいいんだと黒子が思った瞬間、火神の顔が間近に迫ってきた。
  噛み付くようなキスで唇を塞がれ、咄嗟に黒子の頭の中が真っ白になる。
「ん、ぅ……」
  火神は、何度も唇を合わしてくる。熱い。ざらりとした舌で下唇を舐め上げられ、執拗に吸い上げられる。
  こんな時どうしたらいいのかがわからずに、黒子はぎゅっと目を閉じた。
「なんだ、満更でもねーんだろ、お前」
  はあ、と熱い吐息と共に、火神が耳元に囁きかける。
  どういう意味だと尋ねようと口を開きかけたところに、ますます火神の体が密着してくる。気付けば黒子の口の中に火神の舌が潜り込んできていた。
「ん……んっ……」
  腕を、肩を押さえ付けてくる火神の大きな手から逃れようと身を捩ると、さらに追い詰められていく。背後にロッカー、正面には火神。足の間には火神の膝が割り込んできて、時折、太股の内側をなぞり上げるようにして足を動かされる。そうすると黒子の太股の筋肉がピクリ、と蠢いて、それに呼応するようにしてなんだか腹の底が熱くなってくるような気がする。
「ぅ……」
  クチュ、と湿った音がして、黒子の口の中に唾液が送り込まれる。火神の、唾液。熱くて、少し甘いその蜜を、黒子は自ら進んで喉の奥へと嚥下した。



  体の熱を鎮めることは、できない。
  自然と熱が引いていくのを待つだけ。そうするしか方法はないと、黒子は思っていた。
  自分はそうだった。帝光中の仲間たちもそうだった……と、思う。
  だが、この男は違う。黒子の目の前にいるこの男、火神は、そうではない。
  練習の後の納得のいかない怒りに燃え立つ時も、試合後の闘争心を剥き出しにした激しい熱も、何もかもすべて彼は、その時、その時にきっちりと昇華させている。
「火…神く……っ!」
  黒子の体もまた、練習の後の高揚した熱に支配されていた。
  高ぶって、熱っぽくて、苦しくてたまらない。この熱を昇華させたいと思いながらも、どうすればいいのかがわからず、実際のところ黒子は、体の熱を持て余していた。
  そうと知ったら火神は、どう思うだろう。
  ちらりと薄目を開けて黒子は、丹念に唇を吸い上げてくる男の顔を盗み見る。
「……じっとしてろ」
  そう言うと火神は膝頭で黒子の太股をなぞり上げ、そのまま股間をぐい、と押し付けてきた。
「っ、……あ!」
  追い詰められてこれ以上逃げ場のない状態だというのに、黒子は身じろいだ。
  はあっ、と息を吐き出すと、唇を離した火神が意地の悪い笑みを口元に浮かべてじっと黒子を見おろしている。
「なんですか?」
  顔に何かついているのだろうかと物問いたげな様子で黒子は、目の前の男の顔を覗き込む。
  悪びれた様子もなく、意地悪く笑う男の顔がやけに色っぽく見えた。
「あ……」
  ドクン、と黒子の心臓が大きく跳ねる。
「お前……」
  何を言おうとしているのだろうか、火神は。言いかけて、それから困ったように口を閉じて。また口を開けたかと思うと今度は、身を屈めてまた黒子にくちづける。
  今度は唇を合わせるだけのキスだった。
  チュ、と音を立てて唇が離れていく。
  物足りなさに黒子は、男の腕を掴み、爪を立てる。
「こら、引っ掻くな」
「引っ掻いてません」
  ムッとしたのか、唇を尖らせて黒子が反論する。
  火神はフン、と鼻で笑った。自分の腕を掴んでいた黒子の手を取り、指先をぱくりと甘噛みした。
「ひゃっ……な、何するんですか、火神君!」
  慌てて手を引っ込めようとするのをぐい、と握りしめて、さらに指先に舌を這わせてやる。ねっとりと舌を絡めて指の股を舐め上げると、しゃくり上げるようにして黒子が息を飲むのが感じられる。
「……体、熱くね?」
  指の股を舐めながら、火神は尋ねた。視線だけでじっと黒子を見つめて、思わせぶりに舌では黒子の指を愛撫している。
「そ…んな……そんなこと、ない……」
  震えているのは、火神が恐いからだろうか? それとも黒子もまた、火神と同じように興奮しているのだろうか?
  クチュ、クチュ、と音を立てて黒子の指が、火神の口の中を出たり入ったりしている。人差し指と中指とを二本まとめて口の中に入れ、舌を絡める。それだけで黒子の心臓はドキドキとやかましく騒ぎ立てる。
「や……っ、火神、く……」
  嫌ではない自分がいることが、黒子には驚きだった。
  火神にキスをされ、当たり前のように受け入れる自分がいた。口の中に流れ込む唾液をおいしいと思い、それだけでは飽きたらず、もっと欲しいと思ったのは黒子だ。太股をなぞる火神の膝頭に体の中の熱を駆り立てられるのは、心地よかった。
  キスも、股間に触れられることも恥ずかしいことには違いないが、それでも黒子には心地よくて、嬉しかった。
  持て余していた熱の感覚を共有できる人が、ようやく現れたのだ。
  火神ならきっと、黒子の熱には共感してくれるだろう。この熱っぽい体を、どうにかしてくれるだろう。
「もっとキスしてやろうか?」
  黒子の欲しいものを知っていて、焦らすように火神が尋ねる。
「っ、あ……」
  体が熱い。口の中も、太股も、それに掴まれた肩も、手も、指先も。何もかも、火神の触れたところは熱く感じられた。
「火神君……」
  恐る恐るといった様子で黒子は、声をかける。
  熱はさっきよりもいっそう広い範囲で、黒子の体の中で燻っている。
「キスして、制服の上から触ってやってもいいんだぜ?」
  獲物に飛びかかる寸前の獣だ。肉食獣の目で火神は、黒子を見つめている。
  この男に自分の体を差し出せば、どうなるのだろう。一瞬、黒子は躊躇した。火神の体の熱を逃がしてやるにはどうしたらいいか、わからない。わからないなら、相手にしないのが一番だ。
  渾身の力を込めて黒子は、火神の胸を押した。
「……帰ります」
  ぐい、と長身の男を押しやると、呆気なく火神は横へと一歩足を踏み出す。
  火神は何も言わなかった。
  それがさらに、黒子の体を熱くする。
  彼の熱を感じてみたい。味わってみたい。一緒に、この熱を感じたい。
「それじゃあ……お先です」
  淡々と告げる。
  火神は何も返さなかった。
  ホッとすると同時に黒子は、どうしてこのまま強引に引き留めてくれないんだと胸の内で苛立っていた。



(2012.8.24)
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