春の満月は朧にかすみながら空をゆっくりと進んでいく。
ぼんやりとした様子が美しく、それ故に物悲しいような気もするが、一期一振にとっては時間がひどくのろのろと進んでいるように感じられる。今はただ想い人に会う時が待ち遠しいばかりだ。
本丸にいる各人に宛がわれた部屋の障子を開けると、その向こうにはささやかな中庭があった。真っ白な敷石に、石灯篭。そのわきには小さな池がある。季節の草木が色とりどりの花を咲かせる自分だけの庭に、一期一振は小さく溜息をつく。
手持無沙汰に月を眺めては、自虐的な気持ちに落ち着きを失くしそうになっているのが自分でもはっきりとわかった。
待つだけの甲斐はないかもしれない。
約束をしたわけではなかったし、単に自分が会いたいと、そう呟きを洩らしただけのこと。それをたまたま相手が聞きつけて、こちらへちらりと視線を送ってきただけのことだ。
もしかしたら彼のあの視線に意味はなかったかもしれない。どころか、こちらを見たかもしれないという自分の勝手な思い込みにはまりこんでいるだけかもしれない。
夜空を見上げると、丸い小さな月がぼんやりと滲んでいる。それにしても、春の月はどうしてこうも寂しげなのだろう。
もういちど溜め息をつくと、一期一振は手持ち無沙汰に庭を眺めた。
待つことには慣れているが、こんなに落ち着きのないことはついぞなかったことだ。
庭木の枝の一本いっぽんに目を凝らした。別れゆく枝葉の数をかぞえているうちに、少しでも時間が経てばいいのにと思わずにいられない。
長い時間が過ぎたように思われた。何度目になるかもわからなくなった溜め息をつくと、縁側から立ち上がる。
もう待つのはやめよう。惨めたらしく誰かを想い、待っていても何もいいことはない。それよりも、と思い振り返ったところで、襖の向こうに人の気配を感じた。
弟たちのうちの誰かかと思ったが、いつもと様子が違う。なかなか襖を開ける気配はなく、かといって部屋の前から立ち去ることもできず、じっと佇んでいるようだ。
おおかた秋田か五虎退あたりがぐずっているのではないだろうかと思いながら一期一振は襖の向こうへと声をかけた。
「どうしたんだい? 入りなさい」
火口箱を手に、灯りを点ける。すぐに薄ぼんやりとした火が部屋の片隅を照らし出す。と、同時に静かに襖が引かれ、背の高い影が部屋に入ってきた。
一期一振はぎょっとした。
てっきり弟たちのうちの誰かだろうと思っていたのに、今、一期一振の目の前にいるのは想い人その人だ。
「お、大倶利伽羅殿……」
掠れ、上擦った声で一期一振はその人の名を呼んだ。途端に落ち着きが失われ、一期一振は視線を宙にさまよわせた。
大倶利伽羅はそれに気付いていないようだった。いつもと変わらぬ様子で彼は、一期一振に声をかけてくる。
「呼ばれたような気がして来た。俺の気のせいだったか?」
彼は、暗がりの中で一期一振の顔を覗き込もうとしてきた。褐色の肌が蝋燭の灯りに照らされた。金色の瞳が艶やかな色を放ち、一期一振を見つめてくる。
「よ……呼んでは、いません」
照れ隠しのように一期一振はぷい、と明後日のほうへと視線を逸らした。大倶利伽羅はそんな一期一振の様子を気にとめるふうもなかった。微かな笑みを口元に浮かべた大倶利伽羅は、部屋の入り口近くに突っ立ったままの一期一振の手を取ると縁側へと連れ出した。それから、一期一振の背後から冷えた身体を包み込むように抱き締めてくる。
男の額が、一期一振の肩口に押し付けられた。
「春とは言え、夜はまだ寒い」
そんなはずはないと、一期一振は返したかった。
大倶利伽羅の体温を感じた途端、一期一振の体内で血流が一気に沸騰したように感じられた。煮えたぎる血は激しい流れとなり、血管を通して一期一振の身体の中を駆け巡っている。鼓動が激しく音を立てて脈打ち、わずかにでも男に触れられたことを喜んでいる。
「庭を……」
覚束ない様子で一期一振は途切れ途切れに告げた。
「庭を、見ていました。空にかかる月と、その月の光に照らされる木々の葉を、眺めていました」
別にあなたを待っていたわけではないと、一期一振は言外にそんな意味をこめる。
大倶利伽羅はふん、と鼻を鳴らすといっそう強い力で一期一振の体を抱きしめた。触れられた部分から一期一振の体はカッと熱くなって、ともすれば歓喜に打ち震えそうになる。
男の自分が、同じ男である大倶利伽羅に抱かれたがるのもどうかと思うが、身体が、そして本能が求めているのだからどうしようもない。そう、正ーまさしく自分は目の前のこの男に抱かれたがっている。肌と肌とを触れ合わせ、体の奥深いところを熱いもので掻き混ぜられ、激しく突き上げられたいと望んでいる。 大倶利伽羅のひんやりとした唇が、ゆっくりと一期一振の肩から首筋へと移っていく。項に触れる羽毛のような感触のくちづけに、一期一振は微かな喘ぎを洩らした。
抱きしめてくる褐色の腕に両手でしがみつきながら一期一振は、その腕の中でもぞもぞと体を動かした。なんとか体を捩って首を巡らし、大倶利伽羅のほうへと顔を向ける。
すぐ目の前に男の薄い唇があった。一期一振はごくりと唾を飲んだ。
「まさか来てくださるとは思ってもいませんでした」
大倶利伽羅は遠征続きで常に時間に追われている。一方の一期一振は検非違使狩りの戦続きで、やはり時間に追われている。二人とも互いに多忙な身だ。時間があれば少しでも体を休めたいだろうに、その貴重な時間を割いて大倶利伽羅は一期一振の元へと来てくれたのだ。
「呼んだだろう?」
そう言って大倶利伽羅は、自身の唇で一期一振のくちびるに触れてくる。掠めるようなくちづけは、それだけで酔ってしまいそうだ。
くちづけの合間に大倶利伽羅は囁いた。
「さっき、広間に続く廊下の向こうで、俺を呼んだだろう?」
違うか? と、金色の瞳が一期一振の目を覗き込む。
「呼んでません」
心の底では、大倶利伽羅の名を呼んでいた。だが、あの時は弟たちや仲間の刀剣男士たちが一期一振のすぐそばにいた。だから、声に出して呼んではいない。一期一振は不本意だとでも言うかのように唇を尖らせた。
「拗ねるな」
「っ……拗ねてなどっ!」
むきになる自分が悪いのだ。違う、そうではないと言い訳めいた言葉を口にすればするほど、居心地悪く感じられてくる。
悔しまぎれに一期一振は、掴んだままだった大倶利伽羅の腕にやんわりと爪を立てた。
ちらりと男の顔を覗くと、彼はうっすらと笑っていた。穏やかな金色の瞳を細めて、愛しそうにこちらを見つめている。
「だが、来てほしかったのだろう?」
今夜、こんなふうに会って互いに触れ合いたいと、そう思っていたのだろう。そう言われてしまえば一期一振もさすがに返す言葉が出てこない。口をぽかんと開けたまま、掴んだ腕に爪を立てることも忘れて大倶利伽羅の金色の目をじっと見つめ返すばかりだ。
「お前が……そう望んだから、俺はここにいる」
大倶利伽羅はそう言った。
金の瞳に覗き返され、その瞬間、一期一振はまたもやドキリとした。図星だった。心の底から一期一振はそう願っていた。今、まさにこの瞬間もそうだ。今夜、こんなふうにこの男と触れ合っていたい、共に同じ時間を過ごしたいと強く願っている。
もういちど男の瞳を覗き込むと、金色の瞳がキラリと悪戯っぽく輝きを放った。
一期一振は小さく息を吐き出すと、今度こそ本当に体の向きを変え、大倶利伽羅のほうへと向き直った。
それから両腕を伸ばして男の身体に抱きつくと、自ら進んで唇を合わせていった。
くちづけの合間に一期一振が中庭の池へちらりと視線を馳せると、白く滲む中空の月が水面に反射して、ぼんやりとした光を放っていた。まるで心の内を隠そうとする自分のようだ。
「私は……」
誤魔化すように一期一振の言葉は、次第に小さく不明瞭になっていく。
本当は、貴方とこんなふうにしたかったのです。一期一振はそう口の中で微かに呟いた。
(2016.4.27)
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