『雪の花びら』
目を開けると体が重怠かった。
額に手をやると、何となく熱っぽい感じがする。
ああ、と溜息をつこうとしてふと気付いた。喉がいがらっぽいのだ。
「あー……」
ガラガラとした自分の声に、サンジはギョッとした。
自室の天井をじっと見上げたまま、呆然となる。
体調管理はできていたはずだ。夕べ、ベッドに入る直前までは。
料理人としてこれでは失格だと、溜息をつこうとして喉の痛みにそろそろと息を吐き出した。
エースはいなかった。いつも隣で眠っているはずの男は、昨日の昼間、ふらりと海の向こうへと出ていってしまった。どこへ、と尋ねることはしなかった。そういうやりとりが、男を自分に縛りつけているような感じがして、何故だか尋ねることができなかったのだ。
しかしこうなってみると、どことなく心細い。どこへ行くのか、行き先ぐらいは訊いておけばよかったとサンジは思う。どこへとも、何をしにとも、サンジは一切尋ねなかったのだ。
ノロノロと身を起こしてベッドから降りると、バスルームへと向かう。スウェットの下だけで寝てしまったのも原因のひとつだろう。目が覚めた時にケットは腹の上を覆っている程度だったから、体が冷えたのだろう。
あたたかいシャワーをじっくりと浴びて、体があたたまったところで部屋に戻った。頭からタオルをかぶり、無造作にゴシゴシと擦る。エースがいたなら、ドライヤーで髪を乾かしてくれただろうか。あの男は一見粗雑なように見えて、なかなか甲斐甲斐しいところがある。サンジは唇を尖らせて、タオルをベッドの上に投げ出した。
そろそろ仕事の時間だ。慌てて髪を乾かして厨房に向かった。
厨房に入った途端、風邪っぴきはお断りだと蹴り出された。
さすがのサンジも今日ばかりは文句を言うことができなかった。体調を崩したのは自分の責任だ。厨房に入ることができなくても仕方のないことだろう。
肩を落として自室に戻ると、部屋の中は閑散としていた。寒くて、寂しい空気が漂っているばかりだ。
エースがいないからだと、すぐに気付いた。
あの男がいないと、サンジの周囲はひんやりと肌寒いような感じになる。
スン、と鼻を啜ってベッドに上がると、投げ出したままのバスタオルを床へと放り投げた。ベッドの上はじっとりと湿って冷たくなっていた。
こんなところで眠れるわけがないと思いながらも、サンジはベッドに潜り込んだ。
喉の痛みを和らげるには、眠って治すのが一番だ。
もちろん、食べるものを食べて、栄養をつけなければならないだろう。
しかし……と、サンジは思う。今は、喉が痛くて体も怠い。少しだけ眠らせてくれと、口の中で呟いてサンジは目を閉じた。
すぐに眠気が襲ってきたが、頭の中は妙に冴えていた。
しんと静まりかえった部屋に響いてくる物音は、バラティエの甲板から流れてくる喧噪だ。ちらちらと舞い降りてくる雪景色を眺めながらの料理は、さぞかし美味いだろう。
エースの残り香がする枕にぐい、と鼻先を押しつけて、サンジは閉じた目をきつく瞑り直す。
今、無性にエースに会いたかった。
昼過ぎに目が覚めた時には、さらに喉の痛みが増していた。
これは本格的に風邪をひいてしまったようだとサンジはヨロヨロと起きあがる。喉が渇いていた。動きたくはなかったが、水を飲もうと思うと自力でシンクのところまで行かなければならない。ノロノロとベッドから降りると、床の上にへたり込んでしまった。熱があるのだろうか、額に手をやるといつもより熱いような気がする。
四つん這いになって床の上を移動していくが、腹が減っているからだろうか、何度もその場にうずくまって目眩をこらえなければならなかった。
時間をかけてなんとかシンクの脇に辿りついた。シンクの縁に手をかけて何とか体を引きずり上げると、前のめりに蛇口に顔を寄せていく。力の加減ができず、蛇口を捻ると勢いよく水が出てきて、サンジの顔や喉元をぐっしょりと濡らした。それでも喉の渇きには逆らうことができなかった。頭を半分ほど濡らしたままで、サンジは水を飲む。ゴクゴクと喉が鳴った。
シンクから頭を引き出すと、寒さに体が震えた。
エースが欲しいと思った。あの男のあたたかさ、肌の熱さが恋しかった。
早く、戻ってこい…──そう思うと、会いたくてたまらなくなった。いてもたってもいられない。
濡れた頭や服はそのままに、ヨロヨロとサンジは寝室へと戻る。
四つん這いになって床を張って進んでいるうちに疲れきってしまい、その場で丸くなった。
相変わらず寒かったが、これ以上は疲れてしまって動くことができない。濡れた頭も、衣服も、気持ちが悪かった。
「エース……」
呟くと、声はガラガラにひからびていて、まるで年寄りのようだった。ジジィみたいだなと思い、サンジはちょっとだけ笑った。
目を閉じると、いっそう寒々しさが感じられて悲しかった。
「エース」
早く、帰ってこい。
呟いたのか、呟かなかったのか。
サンジは床の上にじっとうずくまったまま、目を閉じた。
次に床の上で目を開けると、体の節々が痛かった。
寒くて、悲しいような気分がサンジの胸の内いっぱいに広がっていく。
エースはどこにもいない。出かけたまま、まだ帰ってこない。あの男はいったいいつになったら戻ってくるのだろうか。苛々とサンジは唇を尖らせる。
凝り固まった体をゆっくりと動かして、床の上を這った。
何とかベッドに辿りつくと、中へと潜り込む。頭の先までケットをかぶってみても寒いことにかわりはない。自分一人では、ベッドがあたたまることもないようだ。
たった一日しか離れていないというのに、今はただ男の体温が懐かしかった。
懐かしむかわりにサンジは、自分にぐっすり眠れと言い聞かせた。ぐっすり眠って体力が元に戻れば、或いは朝になれば喉の痛みも引いているだろう。そうしたらまた、いつものように厨房に立ってバラティエを切り回すこともできる。それにそうなれば、エースの不在に思い悩むこともなくなるだろう。
眠らなければとサンジは思った。
眠って、体力を取り戻すのだ。
なんだか、どこかの毬藻頭の筋肉バカのようだなと思いながらも、サンジは眠ろうと努めた。
それでも。
やはり、一人は寂しい。
仲間といる時とは違う、愛する人といる時間を知ってしまったから、一人は寂しい。どうしようもない喪失感が、サンジにいっそう寒気を与える。
「エース……」
名前を呼ぶと、もっと寂しく感じる。
いつになったらあの男は戻ってくるのだろうか。
鼻の奥がツンとなって、目の裏側がじんわりと熱くなってきた。喉の奥がヒッと鳴り、サンジは慌てて唇を噛み締めた。
枕の端をぎゅっと握りしめると、強く強く目を閉じる。
甲板から響いてくる人々のざわめきが、今は酷く恨めしい。
ちらりと顔を上げると、誰かの笑い声が聞こえてくる。パティか、それともカルネかと、サンジは眉間に皺を寄せる。回復したら、二人とも締め上げてやる。そう思いながらサンジはまたしてもウトウトと眠りの狭間へと落ちていく──
バタン、とドアの音がした。
瞬時にサンジの目が開いた。
途端に、部屋に溢れ込んできたあたたかな空気が心地好い。エースだ。エースが帰ってきたのだ。ベッドの上に起きあがると、サンジはじっと寝室の入り口へと目を向ける。
部屋の中はすっかり暗くなっていた。ということは、日が暮れたのだろう。息を殺してサイドボードを探り、灯りを点けた。
「エース?」
戻ったのかと尋ねる声は、相変わらずひび割れた老人の声のようだ。
しばらくしてドアが開いた。間違いなくエースだった。
「ただいま、サンジ」
大らかな男の声に、この暗がりでは見えるはずもないのにサンジは笑みを返した。
「外、すごい雪だぞ」
そう言いながらエースは、寝室へと入ってくる。
夜も遅い時間になっていたからだろうか、いつのまにか甲板の喧噪は消えていた。バラティエは閉店して、とっくに皆、寝静まっているようだ。船底を擦る波の音だけが優しく聞こえてくる。
「今までどこ行ってたんだよ」
あまり恨みがましくならないように気を付けながら、サンジは尋ねた。
ベッドに潜り込んできたエースの体はあたたかい。やっと生き返った心地だ。サンジは男の体に腕を巻き付けた。
「あったけぇ……」
ずっと、寒かった。一人で心細くて、寂しかったのだ。熱は引いたような気がするが、喉の痛みはまだ残っている。甘えるように男の肩口に額を押しつけた。
「なんだ、風邪か?」
そう言いながらエースは、サンジの額に手を押しつけた。いつもは体温の高いエースの手が、心地好い。
「ちゃんとメシ食ったか?」
尋ねられ、サンジは少しだけ考えた。
「あー……食いそびれた」
熱もあったし、喉も痛かったし、何より、誰も部屋に入れる気がしなかったのだ。一度、水を飲んだきりだと答えると、コツンと頭を小突かれた。
「ミカン、食う? それとも、チェリーにするか?」
耳元でエースが訊いてくるのに、サンジは小さく頷いた。
食べたいとは思わなかったが、エースが食べさせてくれると言うのなら、食べてもいいと思ったのだ。
「待ってろ。今、持ってきてやる」
エースの声が、耳に心地よかった。
To be continued
(H22.12.29)
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