向こう岸の港に新しいホテルができたのはつい最近のことだ。
あちらのオープンにあわせてひと月間の期間限定で、カップル向けのコース料理を提供することになった。ホテルの支配人がバラティエの料理のファンだったことも大きな要因だ。
一日限定五組の宿泊客が、ロマンチックに飾り付けられたボートに乗ってバラティエを訪れる。提供する料理はこの企画のための特別メニューで、その総指揮を担当するサンジはいつになく忙しい日々を送っていた。
普段こなしている仕込みに調理はもちろん、特別メニューの準備もある。オーダーを受けて料理を用意し、さらには厨房の片付けもとなると、なかなか休みをとることができない。
エースとの同居がようやく落ち着いてきた矢先のことだった。
最近ではゼフからの風当たりも少なくなってきた。いや、むしろエースとゼフの間にはここしばらく、なかなか友好的な空気が流れており、サンジ一人が取り残されてしまったような感がする。
「やっぱ、忙しいとダメなのかねえ」
ぽつりと呟き、サンジは口に煙草をくわえる。火をつけようとマッチを擦りかけたところで、厨房裏側のドアが開いた。
「そろそろ上がれよ」
このままでは掃除ができないと、モップを手にしたエースが大股に厨房へと入ってくる。
料理を作るよりも食べるほうが専門のエースは、相変わらず清掃担当だ。
朝はサンジよりも先に起きだして厨房の清掃をし、夜はサンジが厨房を出た後に同じように厨房を掃除する。とにかく掃除、掃除で掃除三昧の日々を送っている。
出会ったばかりの頃は、エースがこんなふうにマメな男だとは思ってもいなかった。
料理をするサンジに惚れたこの男は、自身が属する白鬚海賊団を一時的に抜けるような形でバラティエに転がり込んだ。互いをパートナーとして養父紹介してからは、エースはいわゆる入り婿状態でこのバラティエで同居を続けている。
好きな料理が作れて、惚れた相手と一緒に暮らして。文句などないような日々だが、気に食わないことがサンジにはある。同居の二文字が常にサンジの頭にはあった。
もともと自分が使っていた部屋を増築して二人の新居にしたものの、仲間や養父の目と耳がそこここに感じられ、どうしても二人きりという甘い雰囲気に浸りきることができないでいる。
もちろん、エッチはしている。
それでもやはり、心のどこかで養父たちに遠慮しているような、エースへの想いを抑えているような気がしないでもない。エースを好きなことにかわりはないし、男同士でパートナーになったからといって、引け目を感じているというわけでもないのだが。
「ああ……もうそんな時間だったのか」
動きを止めていた手を軽く動かしてマッチを擦ると、煙草に火をつける。すう、と紫煙を深く吸い込むとサンジは、マッチを携帯式のアッシュトレーに押し込んだ。
「じゃあ、後はよろしく」
そう言うとサンジは、厨房を後にする。
ここからはエースの出番だ。
床にモップをかけて厨房をきれいに掃除し、片付けるのがエースの仕事だ。彼が掃除をした厨房で料理を作ると、いつもより美味い料理ができるような気がする。包丁の切れもよく、調理器具はどれも格段に扱いやすく思える。
エースがここで暮らすようになり、厨房の清掃や皿洗いをしてくれるようになってますますサンジの腕は冴え渡っている。
悪くはない。
ただ、やはりどうしても養父や仲間たちの影が瞼の裏にちらつくのだ。
甲板を抜けて自分の部屋へと戻る途中でサンジは、ふぅ、と深いため息をついた。
部屋に戻るとシャワーを浴び、ベッドにもぐりこんだ。
食事は、今日は厨房のまかないですました。エースも同じだ。
軽めの夜食を作るだけの気力もないのは、疲れているからだろうか。
それとも、気持ちが沈んでいるからだろうか。
ホテルの斡旋でやってくる一日五組のカップルたちは、皆一様に幸せそうだった。少なくとも表面上は幸せそうにしている者たちばかりだ。綺麗な服を着て、美味い飯を食い、酒を飲む。彼らは幸せなままにホテルが用意したボートでまた向こう岸へと帰っていく。
長い長い人生のほんの一部分だけを見て幸せかどうかなどわかるはずがなかったが、それでも、目に見える彼らの幸せそうな姿が羨ましいのも確かだ。
自分もあんなふうにエースと食事をして、仲睦まじくホテルでイチャイチャしてみたい。
ゴロン、とベッドの中で寝返りを打つとサンジはまた、ため息をつく。
そうだ。自分は羨ましいのだ、彼らが。幸せそうな顔をしてパートナーといちゃつく二人に、正直なところサンジはムカついている。自分だってエースとイチャイチャしたいのに、この忙しさだ。働いても働いても客は減らず──バラティエとしては喜ばしいことだが──、エースとゆっくりと過ごすことも最近ではままならない。
いい加減に休みが欲しかったが、それはおそらくバラティエの誰もが思うことだろう。ホテルの企画はひと月間限定だから、残すところあと十日もない。
「……仕方ねぇ。我慢するか」
チッ、と微かな舌打ちをするとサンジはベッドの中で目を閉じる。
隣にエースがいないのは寂しかったが、それ以上に今は眠たかった。
せめてエースが部屋に戻ってくるまではと思って頑張っていたのだが、そのうちにうつらうつらとしだす。眠気に負けて枕にしがみついて眠り込み、気が付くと朝になっていた。
ベッドの自分の隣には、エースの眠っていた形跡がある。ぬくもりも。
しかし、昨夜は顔を見ることもできなかったのだと思うと、胃の隅っこがチリ、と痛むような気がする。 まだあと何日、こんな日を繰り返さなければならないのだろう。
このままでは自分がどうにかなってしまいそうだと思いながらもサンジは、日々をやり過ごしていく。
あと五日、四日、三日……最終日のラストのカップルにはとっておきの料理を提供し、バラティエのスタッフ全員で幸せな二人を送り出した。
大盛況のうちに約束のひと月は無事に終わった。たぶん。
ここ二週間ばかり、エースとちゃんと顔を合わすことができていないのが気がかりで仕方がない。それでも清掃にやって来るはずのエースを待つこともせずにサンジは、後のことは養父に任せたとばかりにさっさと自室へと引き上げていく。
自室へ戻るとサンジは、溜まりに溜まった疲れからか、シャワーも浴びずにベッドにもぐりこんだ。
面倒だったので、着ていたものを床に脱ぎ捨て、素っ裸でシーツにくるまる。
目を閉じるとすぐに眠気が襲ってくるのは、やはり疲れているからだろうか。ここひと月の間の慌しさと、程よい緊張感を考えると、すべてが終わった今、こんなふうに惚れた相手のことも考えずに眠ってしまったとしても、責められることはないだろう。
すぅ、と呼吸をひとつする間にサンジはさっさと意識を手放していた。
すぐ隣にあるはずの温もりが今夜はないことも、今は気にならないほど疲れていた。
しばらくして目が覚めたのは、エースが部屋に戻ってきたからだ。
ごそごそとベッドにもぐりこんでくる男の体温が、ほのかにサンジの肌にも感じられた。
「……エース?」
声をかけると、ふわりと抱きしめられ、首筋に唇を押し付けられる。
「疲れただろ? 大変だったな、このひと月」
労わるようなキスがサンジの首筋や頬や唇に落とされた。
「んー? 大変だった……か?」
まだ眠い目を擦りながらエースの顔を見ようとするが、枕元の明かりだけではよく見えない。
「疲れたコックさんに、お疲れ様のキスだ」
そう言うとエースは、サンジの唇にチュ、と唇を押し当てる。やんわりと下唇を啄まれ、舌でぺろりと舐められた。
「ん……っ」
腕を差し伸べ、男の体を抱きしめる。あたたかな体温にホッとしてサンジは、エースの胸に鼻先を押し付けていく。
「キスよりも、ご褒美にしてくれよ」
今日、一番最後にやってきた幸せそうなカップルたちは食事の後、バラの花束をもらってホテルへと戻っていった。今夜は一晩中でも甘い時間を過ごすのだと、少しはにかんだように男のほうが告げていた。
あの時サンジは、二人を羨ましく思った。
人目も気にせず一晩中甘い時間を過ごすことのできる二人が羨ましくてたまらなかった。
「じゃあ、ご褒美だ」
エースの腕が、サンジの体をぎゅう、と抱きしめる。
唇と唇を合わせると、舌がぬるりと口の中へ入り込んできた。エースの唾液の味のする舌に自身の舌を絡めて吸い上げると、ジュッ、と湿った音がした。
「疲れたコックさんのために、今夜は俺が……全部、してやるよ」
そばかすだらけの顔が、おおらかな笑みを浮かべる。
サンジの体をシーツに縫い止めてしまうとエースは、まずは体中余すところなくキスをした。唇を這わせてサンジの体を愛撫していく。ゆっくりと、時間をかけて。
「……っ」
ピクン、とサンジが体を震わせるたびに同じ場所に何度もくちづけられた。
「エロおやじ!」
憎まれ口を叩くと、優しいキスが降りてくる。
宥めるような、それでいてサンジの気持ちを汲み取るようなキスに、苛々していた気持ちが少しずつ鎮まってくる。
「エロおやじでいいんだよ。サンジが幸せになれるなら、それでいいんだ」
不意にエースは、サンジの顔を覗き込んでそう告げた。
いつになく真剣な口調にドキリとして顔をあげると、エースの目と視線が重なる。
「……そうだな。エロおやじでいいから、俺のそばにずっといろよな」
少しだけ高飛車に言い放つとサンジは、男の唇を貪った。
時折、ギシ、とベッドのスプリングが軋んで音を立てるのが恥ずかしく思えたが、すぐにそんなことはどうでもよくなってしまった。
END
(H26.10.18)
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