影の中に、その男はいる。
暗く、深い、闇よりも濃い影の中、男は、身じろぎひとつせずにじっと佇んでいる。
甲板に出てきたルフィがその姿に気付いて、息をひそめる。その気配すら感じ取ることが出来て、それが嬉しくて、男はニヤリと口元に笑みを浮かべた。
「どうしたんだ、ルフィ」
たらふく飲み食いして満足した後はたいがい眠り込んでしまうようなルフィがこの時間に起きていることのほうが珍しいと、ゾロは小さく首を傾げる。
時刻は真夜中を少し過ぎたあたりだろうか。月は翳り、星々も厚く黒い雲の中で眠る頃。
わずかに振り返り、ゾロは自分の目でルフィの姿を改めて確認した。
「目が、覚めたんだ」
少し掠れた少年の声に、ゾロは目を細める。
まだ、眠いのだろう。ぼんやりとした表情でルフィは甲板を横切り、ゾロのところへとやってくる。裸足の足がペタペタという無邪気な音を立てて、何とも幼い感じがした。
「忘れてて、さ……」
口元をとがらせ、どこか気に入らないといった様子をしているところを見ると、もしかしたらこの少年は拗ねているのかもしれない。
「あァ?」
近付いてきた膨れっ面を覗き込むようにしてゾロが首を傾げると、少年は、意志の強そうな眼差しでじっと見つめ返してきた。
「言い、忘れてた」
そう言ってルフィはニヤリと、肉食獣の笑みを浮かべた。
──何を?
そう尋ねかけたゾロの唇に、ルフィの唇が重なった。
自分の肌よりもひんやりとしたルフィの肌の中で、唇だけがやけに熱く感じられた。
慌ててゾロは唇をきゅっと引き結んだ。ルフィから身を離そうとして後退ると、腕を掴まれ、ぐい、と引き寄せられる。
深く、唇が合わさった。
「んっ……ぅ……」
息継ぎの合間に、鼻にかかったような甘えた声が洩れた。自分の声なのに自分の声ではないような妙な声に、ゾロは恥ずかしさを感じた。
唇の隙間からルフィの舌が入り込んできて、口腔内を舐め回された。
気持ち悪いと思うよりも先に、痺れるような感覚が全身を駆け抜け、何も考えられなくなっていく。
唇が離れる瞬間、いつの間にかルフィの肩にしがみついていたゾロの手は、小刻みに震えていた。
目を開けると、ルフィは笑っていた。
幸せそうな、優しい笑みを正面に捕らえ、ゾロは気恥ずかしさを感じた。まさかルフィがこんな表情をしているとは思っていなかったのだ。
「なん…で……」
言いかけたところを再び、唇に塞がれた。今度は唇を軽く触れ合わせるだけのソフトなもので、すぐに唇は離れていった。
優しすぎるルフィの表情に、ゾロは困惑した。どう返せばいいのだろうか。何を言えばいいのだろうか。
頭の中では言うべき言葉を探して必死になっているのに、肝心のその言葉はどんなに頑張っても思い浮かばない。何も言えないでいると、ルフィがクスッと小さく笑った。
「唇が濡れてる」
そう言ってルフィは、ゾロの唇を親指の腹でぐい、となぞる。
「こんな表情、他のヤツには見せんなよ」
さっきの不機嫌な顔つきに戻って、ルフィは告げた。
いったい、自分はどんな表情をしていると言うのだろうか。眉間に皺を寄せると、ゾロは黙って頷いた。
ルフィのことが気になりだしたのは、正確にはいつごろからのことなのか、ゾロにはわからない。
そもそも、初対面の時にルフィの男気に惚れたのが始まりだ。後のことはどうとでも関連づけられる。そう思うと、いつから、どんな風に自分がルフィに惹かれていたのか、いくら考えてもわからなくなってくる。
目の前の男は、あどけなさの残る少年の眼差しと少年の狡賢さでもって、いつもゾロを求めている。
だけど、ゾロは……。
年上だという気負いと、いくつかのしがらみのことを考えると、ルフィの気持ちに応えることが正しいことなのかいけないことなのかもわからなくなってしまう。
考えても、考えても、答えは堂々巡りをしてまた元のところに戻ってしまう。
気持ちは、おそらくルフィを求めている。間違いなく自分は、ルフィに惹かれている。それがわかっているというのに、気持ちのままに行動に移してはいけないような気がして、いつも躊躇いを感じてしまうのだ。
どう、応えてやればいいのだろう。
きっと、正直に話したなら、ルフィのことだから、何もかも理解してくれることだろう。それを踏まえた上で尚、彼がゾロのことを好きだというのなら、その時は腹を括ってもいいかもしれないと、そんな風にゾロは思っている。
いや、本当はそうではない。
迷っていること、悩んでいること、これら全てのゾロの気持ちを受け止めてくれることを、望んでいる。
そうであってくれればいいと、自分に都合のいいように願っているのだ。
我ながら自分勝手だなと、ゾロは思う。
今のままの居心地のよさはそのままに、ルフィの「心」を求めている。それは仲間を想う気持ちではなく、自分一人に対する──愛情。
二人とも、望んでいるものは同じものだということも、知っている。
だから尚のこと、自分がこの気持ちを抑えなければならないと、ゾロは、ルフィには見えないようにこっそりと唇を噛み締めた。
甲板の手摺りにもたれて、二人で空を見上げた。
真っ暗な、黒い雲ばかりの空は月明かりもなく、星さえも見えず。
溜息は吐かないよう、ゾロはそっと息を吐き出した。
「もう遅い。寝てこい」
少年の頭にポン、と片手を乗せる。潮焼けしてパサパサとした黒髪に指を絡めたものの、ゾロはすぐに手を離した。いつまでも触れていたいのは、ルフィだけではない。
「……イヤだ」
ぷう、と頬を膨らませて、ルフィはゾロをまっすぐに見据えた。
暗がりの中で、じっとこちらを見つめる黒々とした瞳が、まるで獣のようだ。
「言っただろ、さっき」
そう言ってルフィは、ゾロの腕をしっかと掴んだ。
「言い忘れたことがあるんだ、って」
おちゃらけた風でもなく、しごく真面目なルフィの様子にゾロも黙って耳を傾けることにした。ルフィが何を躍起になっているのか、何を言おうとしているのか、ゾロにはわからなかったが、とにかく聞くべきだと思ったのだ。
ゾロが聞く体勢を取ると、ルフィは穏やかな笑みを浮かべた。
すう、と息を深く吸い込んで……それから、ルフィは告げた。
「──…誕生日、オメデトウ」
風のような微かな囁きだったが、ゾロの耳にははっきりと届いた。
「あ?」
どう返したものかと思っていると、ルフィはニヤリといつもの人の悪い笑みを浮かべてゾロを見つめ返した。
「誕生日だろう? 明日……いや、もう今日だよな。いちばんにお前に言ってやりたくてさ、ずっと寝ないで起きてたんだ」
シシシ、とルフィは悪戯っぽく笑った。
「嬉しいだろ?」
尋ねられて、ゾロは、戸惑いながらも頷く。
そんなこと、これっぽっちも考えてはいなかった。このためだけにルフィは起きていたというのだろうか。
「なんだ、あんまり嬉しそうじゃないな」
ルフィの言葉に、ゾロははっと我に返った。
今まで、誕生日だなんて意識したこともなかったのだ。それが、だ。こんな風にいきなり誰かからお祝いを言われると、むず痒いような、恥ずかしいような感じがして、何とも言えなくなってしまう。
当の本人である自分ですら忘れていたことを、目の前の男がさらりと思い出させてくれた。だから、どうというわけでもないのだが。それにしても、自分の生まれた日を祝ってもらえるということが嬉しいことに変わりはなく。
「驚いた」
正直に、自分の気持ちを打ち明けてしまおうと思ったゾロは、とりあえず、今、自分がいちばんに言わなければならない言葉を口にしたのだった。
END
(H19.10.15)
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