『胸が、痛む』



  キスをして、互いの唾液を飲み合った。
  ぴちゃ、ぴちゃと湿った音がする。
  扇情的なその音に、サンジはぞくりと肩を震わせた。
  ゾロの口元には、唾液と、朱色の血が零れている。さっき、サンジが噛みついた跡から、一筋、血が流れている。滲む程度に軽く噛んだはずだったが、どうやら力が入りすぎたようだ。
「あ……悪りぃ」
  低い声でサンジは呟いた。
  指でゾロの口元の血をぬぐうと、舌で傷の部分を舐めてやる。
「何を謝ってるんだ?」
  と、ゾロ。
  噛まれた瞬間は痛いだの何だのとさんざん騒いでいたゾロだったが、もう忘れてしまっているのか、今は気にする様子もなくサンジのしたいようにさせている。
  ちらりとサンジが上目遣いにゾロを見ると、思いの外優しい眼差しが返ってきた。
「……今日は、キスだけな」
  そう言って、ゾロはさらに深くサンジの唇を吸った。
  舌と舌とを絡め合い、歯の裏を舐める。息があがってくると、サンジの喉の奥から甘えるような声が洩れた。
  サンジの身体は微かに震えている。
  キスだけでなく、もっと触れてほしかった。
  指で、唇で、舌で。
  身体中あますところなく触れてほしい。
  そんなふうに思いながらも、サンジはただ黙ってゾロのキスを受けた。



  ゴーイングメリー号が港に入港するとサンジは、いそいそと船を下りた。
  待ちに待った食材と煙草の買い出しだ。
  いつもより念入りに身嗜みを整えると、そそくさと桟橋を渡り、路地の向こうへと消えていった。
  ゾロは何をするでもなく、いつものようにトレーニングを始める。昨日の熱が、まだ身体の中心で燻っている。結局、昨日は皆の目を避けるようにして船倉に下りたものの、キスだけで終わらせてしまった。本当はキスだけですむはずもなかったが、つい言ってしまったのだから仕方がない。
  重苦しい溜息を吐くと、ゾロはトレーニングに意識を集中させた。



  船を下りたサンジは、まず雑貨店で煙草を仕入れた。
  愛用している銘柄は残念ながら売り切れていたが、そこそこ質のいいものを手に入れることができた。
  それから食材の下見も兼ねて、市場へと足を向ける。
  港の周辺には木賃宿がずらりと並んでおり、場所によっては一見したところ商売女とは思えないような商売女が道行く男に誘いをかけることが多々あった。別段、サンジは商売女を買うつもりはなかった。それでも好みのタイプと見るとつい、声をかけてしまうこともあった。
  今日は特に、昨日からの欲求不満も手伝って朝から身体が火照っていた。
  サンジがこんなにも自分の身体を持て余しているというのに、一方のゾロはいつもと変わらずあまり感情を表に出さなかったのも腹立たしいことだ。
  次に顔を合わせたらその時には必ずオロしてやると密かに自分に言い聞かせると、サンジは通りを歩いていく。
  街の風は潮混じりの湿度の高い風で、なかなかいい気分の風だ。
  冷たいフルーツジュースを売る若い娘に、そこそこ見栄えのする鉱石をちりばめたアクセサリーを敷物の上に並べた老女。干肉や腸詰め肉を売る頭の禿げかかった男もいる。
  ちらちらとあたりを物色しながらサンジは、身体の火照りがゆっくりと鎮まっていくのを感じていた。



  身体の熱が完全にひいたところでサンジは船へと戻った。
  停泊予定は明日の夕刻までとなっている。
  買い出しは船を出す直前にすればいい。急いで買い出しをする必要もなく、今夜ぐらいはのんびりとできそうな気配がしている。
  ゾロと顔を合わせたら何と言おうかとあれこれ思案しながら、サンジはを桟橋を歩いていく。
  歩きながらサンジは、軽く溜息を吐いた。
  自分ばかりがゾロを求めているのかと思うと、自己嫌悪に陥ってしまう。向こうは平気な顔をしているというのに、まるで十五か十六の生娘のようにゾロのことが気になってしまう。あの緑色の髪が見えないと気にかかるし、いたらいたでゾロの一挙一動に目がいってしまう。
  そんなにあの男が好きなのかと自分自身に問いかけてみるが、答えはいまだ見つからない。
  女の子たちなら、ごまんと見てきた。
  胸の内に秘めた淡い想いや、ドロドロとした嫉妬や、幼い憧れを抱く純粋な娘たちだった。柔らかな胸の膨らみときゅっとくびれたウエスト。抱きしめると甘く優しい香りのする彼女たちのことは、今も大切にしたいと思っている。
  それなのに何故、あの男でなければならないのだろうか。
  ジャケットの内ポケットから煙草を取り出し、サンジは口にくわえた。
  ほのかな薄荷のにおいが、ささくれだった気持ちを抑えてくれる。
  メリー号に乗り込む手前で立ち止まり、薄荷のかおりを肺の奥まで吸い込んだ。



  甲板に上がると、ゾロが一人きりでトレーニングをしていた。
「あれ、他の連中は?」
  他の仲間たちが港で陸地の空気を満喫しているだろうことはわかっていたが、サンジは敢えて尋ねてみる。
  ゾロはちらりとサンジのほうへ視線を向けただけで、また一心不乱にトレーニングに意識を戻す。こういう時のゾロは、自分のことしか見えていないようで、何を言っても会話が噛み合わない。こんなに近くにいるのに、心はとても遠くにあるように感じられてならない。
「お前がいちばん先だ」
「……そうか」
  ゾロの言葉に低く頷きながらもサンジは、胸がきりきりと締め付けられるのを感じた。
  キッチンに荷物を置いた後、再び甲板に出るとゾロはまだトレーニングを続けていた。男部屋へと下りていく階段の手前で立ち止まると、目を瞑った。トレーニングをしているゾロの規則正しい息遣いが聞こえてくる。
  ゾロへの想いを抑え込むかのように軽く頭を横に振ると、サンジは薄暗い階段を下りる。
  胸の内の想いは、次にゾロが触れてくれる時まで取っておこうと、そう、サンジは思ったのだった。



── END ──
(H15.8.25)





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