『さよならの裏側で』



  交わしたキスの後で、後悔が押し寄せてくる。
  何故、この想いを打ち明けてしまったのだろうか。何故、触れてしまったのだろうか。そして何故、気付いてしまったのだろうか。
  頭の中を巡るのは後悔の言葉ばかり。
  どうしよう…──ベッドの上で膝を抱えると、ナミはすん、と鼻をすすった。



  アーロンパークでの出来事を境に、ナミはゾロと急速的にいい仲になっていた。
  もちろん、他の仲間たちがそれと気付くような素振りを見せることは二人とも避けていた。これまで通り、何ら変わることのない態度で皆と接している。ゾロにしてもそういったことをいちいち仲間に話して回るような饒舌な男ではない。これまで通りのスタンスを取りながら、二人の距離は縮まっていった。
  日が暮れてから甲板の隅でこっそりと逢瀬を楽しんだ。何でもない時に皆に隠れて手をつないだ。立ち寄った港では、わざと皆からはぐれて腕を組んで歩きもした。
  キスも、した。
  G・M号の蜜柑の木に隠れて交わしたキスは、胸の鼓動がドキドキと早鐘を打っていた。いつだってゾロは、キスの後には少し照れたような表情をしていた。
  ぶっきらぼうで、がさつで、少しも構ってくれない──だけど、いざと言うときには必ず助けてくれる、ゾロ。
  なのに不安は、突然に押し寄せてきた。
  原因はサンジだ。
  最初は、単なるいがみ合いだとばかり思っていた。
  同じ年、同じ背丈のゾロとサンジはことごとく対立し合った。
  寄ると触ると喧嘩はするし、どうでもいいような些細なことにまでいちいち相手に難癖をつけ始めた時には、さすがのナミも辟易としてしまった。
  ただ単に仲が悪いだけならば、こんなにも悩むことはなかったはずだ。女の自分が二人を軽く諫めて、それで終わりになるはずだった。
  しかしそうではなかった。いつからかサンジの心ははゾロへと向かっていたし、ゾロの気持ちもまた、そうとは気付かずにサンジへと向かっていた。男同士だからというこだわりは、この二人にはどうでもよかったようだ。寄ると触ると喧嘩をしているのは、仲が悪いからではなかった。ナミと付き合うゾロに焼き餅を焼いた、サンジのやっかみでもあったのだ。ゾロは……ナミとの逢瀬を楽しみながらゾロもまた、その心の奥にサンジの影を抱いていたのだろう。
  許せなかった。
  女の自分をではなく、男のサンジに気持ちが向かうゾロを止めることのできなかった自分に対するやるせない気持ちが、ナミの心の内では渦巻いていた。こんなことになるだなんて、これっぽっちも考えたことはなかった。何もかも自分のせいにして、自分一人が悪者になることができたなら。そう、そうしたら、こんなにも悩むこともなかっただろう。
  相談できる誰かが……ノジコが側にいてくれたならと気弱なことを考えたりもするのだが、海の上ではどうしようもない。ルフィやウソップに相談しようかとも思ったが、余計に船の雰囲気が悪くなってしまうのが恐くてそれもできない。まるで堂々巡りの輪の中に捕らえられてしまったかのようだ。
  それにしても。
  あの二人がいがみ合っている裏では、女の自分など考えもつかないような感情のやりとりがあったなどと、いったい誰が考えるだろうか。
  ほうっ、と溜息を吐くと、ナミは膝を抱えたままうなだれた。



  どれぐらい時間が過ぎただろうか。躊躇いがちではあったが、確かにドアを叩く音が耳に聞こえてきた。
  顔を上げて、手の甲で目元をごしごしとこする。
  立って、ドアのところまで行くのが酷く億劫だ。
  息を潜めてじっとドアを見つめていると、また、音がした。
「ナミさん」
  遠慮がちなサンジの声に、ナミは唇の端をぎりぎりと噛み締めた。
  まだ、この男のことを恋敵と思いたくない自分がここにはいる。仲間である彼を恨むことが出来るなら、ナミの気持ちはもっとずっとすっきりしたものになるだろう。
  だが、今はまだ、そういった感情をサンジに対して抱くことが出来ないでいる。
「……どうぞ、入って」
  のろのろとドアを開けると、ナミは言った。
  鏡を見たわけではないが、きっと髪は乱れて顔はぐしゃぐしゃになっているだろう。泣き腫らしたような目をしていなければいいのだけれどと考え、ふと、さっき手の甲で目元をこすってしまったことを思い出してしまった。
  おずおずと、普段の態度からは考えもつかないほどひっそりと、サンジは部屋に入った。どこか決まり悪そうな表情が、ナミと同じように悩んでいる風に見えないでもない。
  どう切り出そうかと迷っていると、不意に、サンジの腕がナミの身体をぎゅっと抱きしめた。



「謝ってすまされることだとは思わないけれど…──」
  掠れた声で、サンジが言った。
  抱きしめられたまま、ナミはサンジの言葉に耳を傾けている。顔が見えなくてよかったと心の中でこっそりとナミは思った。今の自分はきっと、とても醜い顔をしているはずだ。
「謝ってほしいだなんて思ってない」
  はっきりと、ナミは言った。声が震えているのは、身体が震えているからだ。指先から肩口から、全身が小刻みに震えている。
「あ……あたしはね、サンジくん。ゾロと寝たの。アイツのことが好きなの。アンタが思ってるほど、あたしはお人好しなんかじゃないわよ」
  言いながらもナミは、サンジの腕にしがみついていく。
  全身がガタガタと震えている。自分だけではもう立っていられないほど、身体の震えが止まらない。
「ああ、そうだね。ナミさん」
  優しい声だった。サンジの声は酷く優しくて、それでいて疲れたような重苦しさを秘めている。
  ゾロと付き合い始めた頃のナミは、幸せだった。友達付き合いの延長のような関係を少しずつ築いていく日々がとても楽しくて、周囲のことにまで気が回らなかった。もう少し、周囲に目を向けていればよかったのかもしれない。自分のことばかり考えていたから、こんなことになってしまったのかもしれない。
  サンジの腕にしがみついたまま、ナミはすん、と鼻をすすった。
  ゾロと別れる気は、ない。
  今は、何を聞いても八つ当たりをしてしまいそうだ。サンジの口から出る言葉という言葉を呪いたい。思いつく限りの罵りを、サンジに浴びせかけたいと思ってしまう。
  それでも。
  きっとサンジのことだから、ナミが何を言おうともただ黙って耳を傾けてくれるのだろう。そういう人なのだ、サンジという人間は。
「わかってるよ、ナミさん」
  低く、掠れた声でサンジは頷く。
「何をわかっている、って言うの? あたしの……アンタがあたしの何を、わかっているの?」
  ナミは顔を上げるとサンジの目を覗き込み、言い放った。



  言ってしまえば後はもう楽だった。
  ナミの口からは堰を切ったように言葉が溢れてきた。サンジはじっと、ナミを抱きしめたまま胸を抉るような鋭い言葉に耳を傾けている。
  言いながらナミは、自分の狡さに嫌気がさした。サンジの人の良さにかこつけて当たり散らす自分が、人間として酷く汚いように思われた。
「あたし、ゾロが好き。絶対にサンジくんにだけは譲らないから」
  一通り当たり散らした後で、ナミは一言、そう告げた。言いながらもナミは、果たして自分がそこまでゾロのことを好いているのだろうかと疑問に思っている。好きなことは好きなのだが、それ以上の答えを求められても自分がどうしたいのかが、そもそも自分がゾロとのことをどう考えているのかということすらわからなくなってくる。
「知ってるよ」
  サンジは弱々しく笑った。
  思い通りにならない現実にたいする腹立たしさから、ナミは、力任せにサンジを突き飛ばした。



  サンジの優しさに吐き気がした。
  何もかもわかっていて、ナミの意思を尊重してくれる、サンジ。しかしその実、彼の言動はナミの気持ちをことごとく逆撫でするのだ。
  苛々としながらもナミは、ゾロの姿を探して甲板へとあがった。
  ゾロの顔を見たい。あの男臭いにおいの胸に抱かれたかった。
  ゾロの心がサンジへと向かっている今、ナミにできることはふたつしかない。引き留めるか、手放すか、だ。
  心の中ではあらかた決まっている。自分がどうするべきなのか、今し方のサンジとのやりとりでほぼ決まってしまった。それでも、何らかのアクションをゾロに起こして欲しいと思ってしまうのは狡いことだろうか。
  もうこれ以上、ナミは自分が悪者になりたくはなかった。
「ゾロ……」
  甲板のお決まり場所で、ゾロは昼寝をしている。
「ねえ、ゾロ」
  近づいて、緑色の頭の上にかがみ込む。
  覗き込むような格好でナミは、ゾロの唇に軽く触れた。
  唇を離すと、不意打ちに驚いたようなゾロの目がじっとナミを見つめていた。
「油断してたアンタが悪いのよ」
  と、意地の悪い笑みを浮かべてナミは言った。目の端に、キッチンへと向かうため甲板へあがってきたサンジの姿が見え隠れしている。
  かがみ込み、もう一度ナミはキスをした。サンジがいる方向からはっきりと見えるように。
  ゾロの頭を両手で押さえつけ、唇の隙間から舌を差し込んでいく。舌と舌とを絡ませて、相手の唇の端から唾液が溢れてくるのを舐め取り、さらに深く舌で口腔の奥を探る。
  ふと、サンジが視界から消えていることに気付いた途端、ナミは我に返った。
  気持ちが急速的に冷めていく。
  唇が放れると、ゾロがまるで独り言か何かのように低く呟いた。
「──それでも俺は、アイツへと気持ちが向くことを止められない」






END
(H16.4.29)



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