『I vowed never to…… 1』
海軍に追われて飛び込んだのは、港から随分と離れた下町の小汚い建物だった。
隠れることができるのならどこでもいいと、なにも考えずに二人して飛び込んだ。
実際、考えている暇などこれっぽっちもなかった。
海軍の連中は虱潰しに彼らを捜し回っていたし、港から離れてしまうともう、隠れることが出来るのならばどこでもいいような気になってしまった。
逃げ切ることが出来るのならば、どこでもよかったのだ、たぶん。
飛び込んだところは木造の建物だったが、中はがらんとして寂れていた。床に積もった塵の様子から、もう何年もの間、使われていないようだ。
ゾロを半分背負うようにして建物の奥へと進むサンジは、床に目を凝らしてゆっくりと歩いた。
反り返った床板がギシギシときしみ、男二人の重みに耐えかねて今にも折れてしまいそうだ。
窓際は避けて歩いた。自分たちの姿が映らないように、そして床に散らばったガラスの破片を踏まないように、サンジは窓際へは近寄らないように気を付けた。
建物の奥にはドアがあり、ノブを回すとギイィ、と不気味な音を立てて開いた。
いっそう鬱蒼とした暗がりのような奥の部屋に入る。後ろ手にドアを閉じ、閂をかける。気休め程度にしかならないような代物だったが、ないよりはマシだろう。
狭苦しい部屋の中にはスプリングの飛び出したソファがひとつ、ぽつんと置いてあった。誰かがここで寝泊まりをしたことがあるのだろうか。ソファの上に無造作に置かれた毛布はかび臭かったが、その上に毛布を広げ、ゾロを下ろした。
「どうだ、ちったぁマシか?」
尋ねながらサンジは、ゾロの顔を覗き込む。
「ああ。掠っただけだ」
そう言いながらもゾロの脇腹からは、ドクドクと鮮やかな色の血が染み出してきている。白いシャツを赤く染め、乾きかけるとは茶色く変色していく、命の源。
ゾロはにやりと笑うと、覗き込むサンジの頬に手をあてた。
「少し、眠る。しばらくの間、任せたぞ」
掠れた声は、力無く消えていった。
買い出し中のサンジとゾロが海軍に追われることになったのは、予定外の偶然だった。
その日、サンジがあれこれと買い漁った小山のような荷物を腕いっぱいに抱えたゾロは、港へと続く路地の角でサンジを待っていた。サンジはというと、露店商から格安で香辛料を手に入れるための交渉をしているところだった。すぐ目の前の広場では子供たちが思い思いに走り回り、買い物をする人々は穏やかな表情をしていた。よく晴れた午後のことだった。
「なあ、オヤジ。もう少し負けろ」
買う気満々でサンジがしつこく言い寄っていく。
店のオヤジは迷惑そうなしかめっ面でサンジをギロリと睨み付けると、首を横に振った。
「駄目だ、ダメダメ。うちだって生活がかかってんだ。兄ちゃんの言い値じゃあ、うちの商品は売れないね」
つるりとはげ上がった頭をカリカリと掻いて、店のオヤジは頑なに首を横に振る。
買うにしろ買わないにしろ、さっさと済ませてしまえばいいのにと思いながら、ゾロはじっとサンジを眺めている。
この場所から動くなともサンジには言われていた。すぐに迷子になるから動くんじゃねぇ、と、買い出しに出かける前にすでにサンジからは言われている。その言葉を疑いもせずよく守っているものだと、ゾロはぼんやりと思った。
港からの風にはほんのりと潮の香りが混じっていて、陸の風とはまた違っていた。どちらの風もいい風だ。
なんていい日なのだろう。
昼寝日和だなと思い目を細めたところでゾロは、背後から近付いてくるものの気配にピクリと体中の筋肉を固くした。
「海賊だ!」
不意に、誰かが叫んだ。
その刹那、ゾロの中の凶暴な野獣が蠢き出す。しかしまだ、気配は悟らせない。じっと押し殺した息の下、何事もなく危険が去ってくれることを思い立ち尽くす。
サンジがちらりとこちらに視線を向けたが、海賊というのがゾロのことではないようだということに気付いたらしい。すぐにまた、露店のハゲオヤジとの会話に戻っていく。
居心地は悪かったが、これはこれで緊張感があってよかった。
どんな海賊がやってくるのだろうかとゾロがじっとしていると、向こうの通りから駆けてくる海軍の姿が見えた。
「おい、さっさとしろ」
面倒臭そうに声をかけると、サンジはちらりとゾロを見遣り、チッ、と舌打ちをした。
「仕方がない。今日は日が悪いようだ」
そう言うと肩を竦めてゾロの方へと歩いてくる。のんびりとした歩みだが、ピンと伸ばした背筋が綺麗だ。じっと眺めていると、また背後で声があがった。歩きながらサンジは上着の内ポケットから煙草を取り出し、口にくわえる。軽く紫煙を燻らせた。呑気なものだ。だけど、そこがまたいいのだ。窮地を楽しむぐらいの余裕のある奴でないと、張り合いがない。
広場がざわつき始めていた。
どんな海賊を追いかけているのか知らないが、海軍が向こうの通りに何人か、見える。ゾロのずっと背後の方にもいる。追いかけられているのは、いったいどんな海賊なのだろう。
「別の道から戻ろう」
サンジの言葉に従って、荷物を抱えたゾロはのんびりと後について歩き出す。
気配が、近付いてくる。
海賊とやらが、二人のすぐ近くまで来ていた。
海軍の気配もしている。銃器を手に、兵士たちは海賊を追っている。一般人のいる場所で銃を使う気なのかと眉を寄せた途端、パン、と乾いた音がした。
一瞬にして穏やかな風景が崩れ去っていく。
遊んでいた子を守るため、母親が我が子の姿を求めて駆け出す。露店商は素早く物陰に身をひそめ、人々もまた、銃弾から逃れるため隠れる場所を求めて走り出す。その様子は蟻がひしめく様にも似て、混沌としていた。
「……っぶねぇな……こんなところで撃つのか?」
低くサンジが呟いたところに、二発目の銃声が響いた。
ぐっ……と、ゾロの喉から音が出た。
どうしたと言いかけたサンジの身体を突き飛ばして逃げていく男の姿が目に入る。
あっ、と思った時にはゾロの身体は既に崩れ落ちていくところだった。石畳に散らばる荷物。ボタボタと滴る鮮血。咄嗟にサンジはゾロの腕を掴み上げ、その身体を引き寄せた。
「──走れ!」
倒れるわけにはいかなかった。
ここで倒れたら、何かことを起こしたら、自分たちが海賊だということが海軍にばれてしまう。
ゾロは目をカッ、と見開くと、サンジの肩に縋りつくようにして走り出した。
血は、腹から流れていた。脇腹だ。うまい具合に貫通しているらしい。これなら出血さえおさまれば大丈夫だろう。弾を取り出す必要がなくて一手間省けたと、そんなことを考えながらゾロは足を引きずって走る。腕を引くサンジの手の力強さに、ゾロはほう、と溜息を吐いた。
夢中で走って、途中からは半分目を閉じた状態でサンジに先導されるがまま、ゾロは町を駆け抜けた。
しだいに人の気配が少なくなってくる。ごみごみとした場所だということは何となくわかった。海の風とも陸の風ともつかない生ゴミと尿のにおいとその他諸々の入り交じった空気が鼻を刺激する。
「あそこなら大丈夫だろう」
朦朧としかかった意識の中で、サンジの声が耳に響いた。
ゾロは薄目を開けると頷いた。
薄暗い路地の奥に、古びた建物が見えている。
建物に人の住んでる様子は見られない。あたりにも人の気配はなかったが、誰もいないというわけでもないらしい。すえたにおいの中に、食べ物のにおいや生活のにおいらしきものが混じっている。古びれて崩れかかった壁の家や、屋根に穴の空いた家、倒壊しかかった小屋のようなものが立ち並ぶ区画だったが、何カ所かからは細い煙が上っていた。こんなところでも人が住んでいるのだ。
どこをどう走ったのかはわからないが、少しのあいだ身を隠すだけなら大丈夫だろう。
冷たくなってきた指先に意識してぎゅっ、と力を入れると、ゾロはサンジの肩につかまる。
建物へと向かって歩き出した二人を包み込む静けさは、彼らが港から随分と離れてしまったことを暗に示していた。
※
ソファに横になったゾロは、すぐに粗い息を立て始めた。
眠ったのだろうが、時折、苦しげな声を洩らしている。
サンジは部屋の中をぐるりと見回した。ひとわたり眺めてから、目に入った本棚の隅にちょこんと置かれた救急箱を手に取る。床に置いて蓋を開けると、包帯や薬がきちんと整理された状態でおさめられていた。
「使えるのか?」
呟き、また蓋を閉じる。とりあえず医者だ。港まで戻ってチョッパーを連れてくるしか方法はないだろう。自分と同じ背丈の怪我人を引きずって船に戻るよりもずっと安全だ。ただし、サンジがここを離れている間のことが心配だ。港へ戻っている間に、この男の身に何もないとは言い切れない。少し考えてからサンジは、ゾロの腕のバンダナをそっと外した。丁寧に折り畳んで、傷口にあてる。こんなことをしてもどうにもならないことはわかっていたが、少しは血が止まってくれればと願わずにはいられない。
ずれた毛布をかけ直してやると、部屋を出た。建物の他の場所も見ておいたほうがいいだろう。ゾロが眠っている部屋の隣のドアを開けると、簡易キッチンだった。水道がある。水がきているようなら、ゾロが動けるようになるまでここに隠れている方が身体への負担は少ないだろう。蛇口をひねると、錆びた鉄のにおいがしてドロドロの赤茶けた水がたらたらとシンクに流れ落ちた。しばらくそのままにしておくと、透明な水が出てくるようになった。
テーブルにはケトルが置かれていたが、これは中がカラカラに乾いていた。かつての住人は、出ていく直前まで日常の生活を普通に続けていたらしい。
そういえば、ゾロが休んでいる部屋には暖炉があった。すぐ脇には埃だらけではあったが薪が積んであった。使うつもりでなければ積むこともなかったはずだ。
シンク横のかまどにも燃えかすらしきものが残っていた。埃をかぶっているが、火はつくだろう。マッチを擦ると、ポッ、と火がついた。丁寧に洗ったケトルに水を入れ、火にかける。ゾロが気付いたら水を飲ませてやりたかったが、水道の水をそのまま使うのはどうかと思った。いちど沸騰させたものをさましてから飲ませることにした。
湯が沸くまでの間、ゾロの休んでいる部屋の床をサンジは古布で拭いた。しばらくここに隠れるのなら、清潔にしておいたほうがいいだろうと思ってのことだ。部屋に窓はなかったから、ドアを開け放した。部屋の掃除が終わるとキッチンも同じように掃除をした。途中でケトルが甲高い悲鳴のような音を出し、その時だけ顔を上げてサンジは雑巾を手から離した。水道で手を洗うと、ケトルをテーブルにおろす。埃だらけではあったが、食器類も一通り揃っていた。その中からコップをひとつ拝借すると、汚れを落とす。湯が冷めるのを待ってコップに移すと、隣の部屋にケトルと一緒に持っていった。
To be continued
(H17.2.20)
(H27.8.23修正)
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