「そろそろ支度をしないと間に合わなくなりますよ、十代目」
ベッドの中でダラダラとしていると、声がかかった。
「……うん」
気のない様子で返事をしたものの、なかなか起きる気にはなれない。
枕を抱えてコロンと体の向きをかえると綱吉は、はあぁ、と深い溜息をつく。
「ほら、このネクタイなんてどうです? 今日のスーツの色に映えますよ、きっと」
楽しそうに獄寺が声をかけてくる。
「そうかな」
明後日のほうを向いたまま、綱吉は返す。
綱吉が起きたくない理由を、獄寺は知っている。知っているのに、あの手この手で綱吉の気を引こうとしている。拗ねた子どものようにムッとした表情で綱吉は、獄寺を睨みつけた。
やさしげな笑みを浮かべた獄寺は、クロゼットから綱吉のためのスーツを取り出してはあれこれと検分している。
「そりゃ、獄寺君には自分のことじゃないから」
皮肉を込めて綱吉は言う。
今夜の誕生日パーティは、綱吉のために開かれるものだ。ボンゴレ十代目として出席し、ボンゴレファミリーの主要幹部や同盟ファミリーたちから祝われるのは勘弁して欲しいと九代目に泣きついたものの、あっさりと却下されてしまった。
どうあっても今夜はパーティに出なければならないと聞かされ、昼前からお腹が痛いだの熱があるかもしれないだのと言い訳をして部屋にこもっていたのだが、獄寺が部屋に入ってきたからにはそうもいかなくなってきた。
「俺は自分のことのように嬉しいっスよ、十代目」
ニコニコと笑みを浮かべて獄寺が言う。
自分は関係ないからそんな呑気なことを言っていられるのだと綱吉は、獄寺を睨みつけた。
ゴロン、と綱吉はベッドの上で寝返りを打つ。
スーツが皺にならないように丁寧にクロゼットにしまい直すと獄寺は、綱吉のほうへと近寄ってくる。
「本当にお加減が悪いんですか?」
疑うわけではないんですがと、獄寺は決まり悪そうに告げる。
どうせリボーンあたりの差し金だろうことは、綱吉も気づいている。
「悪いよ」
唇を尖らせて綱吉は即答する。
中学生のうちからマフィアだ、十代目だと言われてきた。争い事は嫌いだと公言しているにもかかわらず、いつも綱吉は戦いに巻き込まれてきた。
もちろん誕生日を祝ってもらうのは嬉しいことだが、ごく親しい人たちとだけ祝うことは許されないのだろうか。毎年のことながら、こんなふうにマフィアの幹部や同盟ファミリーに祝ってもらったところで綱吉が喜ぶはずがないということにどうして誰も気づかないのだろうか。
「熱は……」
そう言って獄寺の手が、綱吉の額にあてられる。
「ぁ……」
どこに視線を定めたらいいのかがわからなくて、綱吉はじっと獄寺の顔を見つめる。
整った顔立ちに、すらりと高い鼻。サラサラとした銀髪。昔から女の子たちが獄寺をほっておかなかった。それなのに獄寺は、綱吉の側にいつもいてくれた。綱吉のいないところでたくさんの女の子から交際を申し込まれていたことを知っている。それでも獄寺は、ボンゴレ十代目の右腕になることのほうを選んだのだ。
手を離すと獄寺は、困ったように小さく笑った。
「よくわかりませんでした」
ベッドに寝そべったまま綱吉は、獄寺の手を取った。その手を軽く引くと、それだけで獄寺は綱吉のほうへと身を乗り出してくる。
「どうかなさいましたか?」
穏やかな声に、さらに綱吉の苛立ちが募る。
「どうもしないけど、怒ってるんだよ、オレは」
わかって欲しい。自分の思っていることを理解して欲しい。子どものような我が儘だということは綱吉自身がいちばんよく理解しているが、それでも思わずにいられない。
マフィアのボスとしての自分を嫌っていることも、獄寺は知っているはずだ。
それなのに、綱吉をマフィアの世界へと引きずり込もうとする獄寺が、酷く憎らしい。
「……やっぱり今日のパーティ、顔出さなきゃダメなのかな」
はぁ、と溜息をついて呟くと、こめかみにそっと唇が押し当てられた。
「十代目のお誕生日ですよ。主役がいなくてどうするんスか」
「だって……」
と、言いかけた綱吉の唇を、獄寺の唇がやんわりと塞ぐ。
「んっ……」
誘いかけるように唇をうっすらと開くと、するりと獄寺の舌が口の中に侵入してくる。熱くて、ザラザラとした舌が、綱吉の舌を吸い上げる。
「ん、ん……」
咄嗟に獄寺の腕を掴み、そのまま首の後ろに腕を回す。
「は……あ……」
クチュ、と湿った音がした。唇が離れていく瞬間の物足りなさを、綱吉は寂しく思う。もっとキスして欲しい。奪い取るような激しいくちづけが欲しいと思わずにいられない。
「熱は、ないようですね」
唇を離した獄寺は、穏やかにそう告げた。
ムッとして綱吉は、獄寺を睨みつけた。
結局、自分は獄寺のいいように流されてしまうのだと綱吉は思う。
キスの一つや二つでいいようにあしらわれ、獄寺の選んだスーツに袖を通し、パーティに顔を出す準備をする自分がいる。
行きたくはないのに、獄寺にキスをされてしまったから。
あんなキスの後で、パーティに顔を出すように言われてしまったら、聞かないわけにはいかなくなってしまう。
嫌々ながらも綱吉はスーツを身につける。
大人になって、少しはマフィア絡みのことに積極的に関わるようになったけれど、やはりいくつになっても苦手なものは苦手だ。
溜息をつきながらネクタイを結ぶと、不格好になってしまった。
「あれ……?」
おかしいなぁと呟きながら、綱吉はネクタイを結び直す。
二度、三度と結び直すものの、なかなかうまくいかない。どうしても結び目が曲がってしまい、形が整わないのだ。
小さく唸りながらネクタイを結び直していると、あまりにも不器用な綱吉に焦れたのか、獄寺が手を出してきた。
「貸してください」
すらりとした指が結びかけのネクタイを掴み、手早く解いていく。シュルリと衣擦れの音がして、綱吉はわけもなく恥ずかしさを感じる。いくつになってもネクタイが結べない自分と、昔からこういったことを器用にこなしていく獄寺と。比較するのはよくないことだとわかっているが、つい比較してしまう。
「あのっ、自分でできるからっ……」
「ちょっとお手伝いするだけです」
そう言って獄寺は、ニコリと愛想よく笑みを浮かべる。
小さく呻いて綱吉はうつむいた。喉元で、獄寺の手が動いている。いつも間際になって身支度を整えるため、獄寺の手を意識したことはなかった。どんなふうにしてこの手は、ネクタイを結んでくれるのだろうか。この手の動きを見ていたら、自分も同じようにネクタイを結ぶことができるようになるだろうか。じっと獄寺の手を眺めていると、不意に声がかかった。
「十代目。下を向かれると…その、結びにくいので……」
困ったように獄寺が告げるのに、綱吉は顔を上げた。
「あ、じゃ、これくらい顔をあげてたら大丈夫かな?」
尋ねると、指先で顎をくい、と引き上げられた。
「え……?」
「これくらいです、十代目」
キスをされるのかと、一瞬、勘違いしそうになった。顎に触れる獄寺の指が輪郭を辿りするりと頬を撫で、離れていく。
「じっとしててください」
真面目な顔をして獄寺が言うのに、綱吉は小さく頷いた。キスなんてもう何度もしているというのに、何故だか恥ずかしい。
うつむくこともできず、かと言って目を開けて獄寺の顔を間近で見ていることにも耐えられず、綱吉はぎゅっと目を閉じた。
恥ずかしくてたまらない。
喉元で動く獄寺の手が、指が、時折、綱吉の喉や顎に触れる。
ドキドキとしだした胸の動悸を気取られないように、綱吉はそっと息を吐き出す。
ネクタイがきゅっ、といい具合に締まり、獄寺の指が結び目を整えている。
「……もういい?」
尋ねると、「もう少しです」と返された。
尚もギュッと目を閉じていると、最後に唇に柔らかなものが触れるのを感じた。
「んっ……」
獄寺の唇だと、綱吉はすぐに気づいた。
目を開けると、すぐ間近に獄寺の顔があった。淡い緑色の瞳が悪戯っぽく輝いている。
「今の……今の、ナニっ?」
勢いこんで綱吉が尋ねると、獄寺は嬉しそうに笑った。
「スンマセン、十代目。あまりにも可愛らしいお顔をされていたので、つい……」
同い年の男に言う言葉ではないだろうと言いかけて、綱吉はその言葉をぐっと飲み込む。獄寺の言葉なら、なんだって嬉しいことにかわりはない。
「さ、そろそろ行きましょうか、十代目」
そう言うと獄寺は、さっと綱吉から身を離す。あまりにもあっさりとした態度が憎たらしい。自分一人だけがドキドキしているのが、恥ずかしくてたまらない。
身を翻してドアを開けた獄寺が、怪訝そうに綱吉を振り返る。
「十代目?」
獄寺に呼ばれて、綱吉は恐る恐る足を踏み出した。パーティ会場に顔を出してしまえば、毎年のことだが、顔も覚えていないボンゴレの幹部や同盟ファミリーのボスたちと挨拶を交わさなければならない。もたもたしながらドアのほうへと近付いていくと、獄寺の手がさっと綱吉の手を掴んだ。
「行きましょう、十代目。皆、待ってますよ、きっと」
こんなにも嫌で嫌でたまらないのにと、綱吉はこっそり苦笑する。
獄寺は、綱吉がボンゴレ十代目で自分にとっては唯一のボスだと思ってくれている。その彼の想いを無駄にしてはならないと、綱吉は諦めたように息を吐き出した。
部屋を出て、パーティ会場につくまで綱吉は、ずっと獄寺に手を繋がれていた。
廊下の突き当たり、階段の踊り場の向こうから、軽いざわめきが聞こえてくる。時間よりも少し早いとは言え、そろそろ人が集まりだしているようだ。
「あ、ちょっと待って、獄寺君」
不意に綱吉は立ち止まった。
「かがんで」
綱吉の言葉に、獄寺は従順だ。言われたとおり身を屈めると、綱吉はさっと手櫛で獄寺の銀髪を整えてやる。
「ありがとうございます、十だ……」
ついでに、言いかけた獄寺の唇にキスをした。
「さっきの仕返しだよ」
そう告げると綱吉は、さっさと階段を下りていく。集まった面々の視線が一斉に綱吉に集中する。居心地は悪いが、綱吉の気分はすっきりとしていた。
背後では、獄寺が困ったようななんとも言えない赤い顔をして立ち尽くしている。
二十四歳の誕生日のことだった。
END
(2010.10.13)
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