五月の海で追いかけて

  初夏の海はまだ少しひんやりとしていて、水は冷たかった。
  波打ち際では日差しに焼かれた砂が熱かった。気温はそこそこあるのだが、水温が低くて泳ぐには少しばかり早いような気がした。裸足になって海水に足をつけただけで、獄寺はこれは無理だと諦めた。
「ちょっと早すぎたかな」
  照れたように綱吉が笑うのに、獄寺も小さく笑みを返す。
  そうかもしれない。初夏とは言え、まだ五月だ。そう簡単に泳げるはずがなかったと獄寺はこっそりと肩を落とす。
  手を伸ばすと、当たり前のように綱吉の指がその手を掴んできた。
「だけど、いい風です」
  言い訳がましく獄寺が告げると、綱吉は頷いてくれた。
  潮風が頬を撫でていく。
  海のにおいがする風は穏やかで、あたたかかった。
「魚、釣れるかな」
  ポツリと独り言めかして呟いた綱吉に、獄寺は「どうでしょうね」と返すだけに留めておく。本当は、魚が釣れるかどうかなんて、獄寺にはどうでもよかった。
  綱吉と二人きりで海に来ているという事実のほうが嬉しくて、たまらない。
  少し前に互いの気持ちを確かめ合って初めてのデートなのだ。ちょっとぐらい甘いことがあってもいいだろう。
「危ないから気をつけてください」
  言いながら獄寺は、そっと綱吉の手を引いてやる。
  風が吹きつけるとパタパタとシャツが風になびく。いい風だ。
  繋いだ手をきゅっと握りしめると、綱吉の手も獄寺の手を握り返してきた。
  なにを言おうとしたのか、綱吉が口を開け、またすぐに口を閉じる。なんだったのだろう、今のは。
  怪訝そうに見つめ返したら、綱吉はどこかしら困ったように笑っていた。
  その笑みが可愛らしくて、獄寺はぐい、と繋いだ手に力を入れ、綱吉を引き寄せた。



「わっ、ちょ、待って……」
  言いかけた綱吉の体がぐらりと傾ぎ……岩の上で大きくよろけたところを獄寺は胸の内へと抱き込んだ。
  鼻先を、子どものように甘ったるい綱吉の香りが掠めていく。どうしてこの人は、こんなに甘やかな、子どものように清潔なにおいがしているのだろうか。
「もう、獄寺君。危ないだろ、急に引っ張ったら」
  胸の中で綱吉が、ぷう、と頬を膨らませて抗議の声をあげる。
  獄寺は少しだけ体をずらして綱吉の顔を覗き込んだ。
「すんません、十代目」
  でも、抱きしめたかったんです──そう、獄寺は胸の中で呟く。
  抱きしめたかった。一瞬でもいいから腕の中に捕らえて、自分のものにしたかった。
「すんません」
  そう言うと獄寺は、綱吉の髪に唇を寄せる。
  チュ、と音を立ててキスをすると、恥ずかしそうに綱吉が首を竦める。
「もうっ。こんなところで……」
  そう言いながらも獄寺の腕の中から逃げ出そうとしないところを見ると、嫌ではなかったらしい。
  それにしても、と、獄寺は思う。今しがた、綱吉はいったいなにを言いかけていたのだろうか。
  綱吉が言葉にすることのなかった言葉が、知りたい。
  いったいこの人はなにを言おうとしていたのだろうか。
「今、なにを言おうとしてらしたんスか?」
  獄寺が尋ねると、綱吉は「なんでもないよ」とはぐらかした。
  言いたくないのだろうか? それともこれは、隠し事なのだろうか?
「本当に?」
  ついしつこく問いつめてしまうのは、獄寺がそれだけ自分に自信がないからだ。
  綱吉の側にいたい。右腕として一生、綱吉に仕えたい。そうは思うものの、獄寺も綱吉もまだ十四歳で、中学生で、子どもだ。
  子どもの自分たちが大人の真似事をしようとすると、大概の大人はいい顔をしない。そして平均的な常識人でもある綱吉も、そうだ。歳以上のことをしようとはしない。無理に背伸びをすることなく、自然体の自分でいられることが綱吉の強みだと獄寺は思う。
  この素直さが、羨ましい。
  自分にはないものを持った綱吉の純粋さが、眩しくてならない。
  さりげなく綱吉から体を離すと獄寺は、もういちど、今度は唇にキスをした。チュ、と乾いた音を立てて唇を離すと、綱吉の目元はほんのりと朱色に色づいて艶めかしく見えた。



  体を離してしまうと、獄寺はほんのりと寒気を感じた。綱吉がいないからだ。側にいて欲しい。もっとぴたりとくっついていたい。
  天候もよく、海の水は太陽の光にキラキラと反射して輝いている。
  それなのに綱吉がいないというだけで、こんなにも肌寂しい。
「そろそろ戻りましょうか、十代目」
  声をかけると綱吉は、寂しそうに頷いた。
  この表情が自分の見間違いでなければいいのにと獄寺は願う。自分と同じように綱吉が、二人きりでいることを喜んでくれていたらいいのに。
「……ねえ、獄寺君」
  顔を上げて、綱吉が声をかけてくる。
  真っ直ぐに見つめる瞳の色は淡い薄茶色をしている。綺麗な色だと獄寺は思う。
「もうちょっとだけ、ここにいようよ」
  もう少しだけ、二人で。
  まるでそうせがまれたような気がして、獄寺は思わず息を飲んだ。
  この人も自分と同じ気持ちでいてくれたのだ。二人きりでいることを、喜んでくれているのだ、と。
「そう……ですね。あと、五分ぐらいなら……」
  返事をした獄寺の声は、掠れていた。
  心臓がドキドキしている。綱吉と二人きりで、初夏の海をただ眺めるだけだというのに。
  こんなにも……心臓がバクバクといっている音が、綱吉に聞こえてしまうのではないかと心配になるぐらい、ドキドキしている。
「じゃ、五分でいいや」
  悪戯っぽく目を輝かせて、綱吉は呟いた。
「はい。五分だけ」
  言いながら獄寺は、綱吉の横顔をこっそりと盗み見る。
  まだあどけない少年の輪郭に、薄茶のクリクリとした瞳。ほんのりと赤い頬。プルンとした唇が、柔らかそうに見える。キスした後にはいつも、震えるような微かな息を吐き出し、目元を赤らめる。
  そのくせ、いざという時には誰よりも頼りになるのだ、この人は。
「ホント、いい風だよね」
  ポツリと、綱吉が呟いた。
  海からの風は潮の香りがしていた。
  ごう、と吹きつけ、通り過ぎていくのが心地いいのだろうか、綱吉は両手を広げ、深呼吸をしている。
「あんまりはしゃぐと転けますよ、十代目」
  心配になって声をかけると、「転けないって」と小さく睨みつけられた。
「ねえ、獄寺君。……もう五分延長って、無理かな?」
  振り返り、そう尋ねた綱吉の背後から、風がまた吹きつけてきた。
  轟々と音を立てながら通り抜けていく風の勢いに、綱吉のシャツがちらりとめくれ上がるのが目の端に見えた。
「わ、すごい風!」
  嬉しそうに笑い声を上げながら綱吉は、大きく両手を広げた。



  結局、海辺で一日、ただ二人でボンヤリと過ごしただけで終わってしまった。
  人気のない海だったから、時折、思い出したように手を握って砂浜を歩いたり、キスをしたりした。
  日差しが暑くなれば堤防の上にゴロリと横になって目を閉じ、ウトウトとした。
  暇人だなと思いながらもそんなふうにして過ごす時間の大切さを、獄寺は感じていた。
  五月の海は穏やかだった。
  波打ち際で裸足になって歩く綱吉は楽しそうだった。学校を離れ、人の目を気にする必要がないからだろうか、綱吉はノビノビとして見えた。獄寺とのスキンシップを拒絶することもなく、気紛れにふざけては獄寺の手を取ったり、唇を寄せたりしてくる。
  可愛らしいと思わずにいられない。
  水平線の向こうに夕日が沈みかける頃になってようやく帰らなければと思うほど、のんびりとした時間だったと思う。
  照り返しで水面がキラキラとオレンジ色に輝くのを横目に、もう一度だけキスをしてから海を後にした。
  一日ずっと海にいたからだろうか、肌がヒリヒリしている。
  少しずつ、潮の香りのする風が遠ざかっていくような感じがして、どこかしら寂しく思えた。
  帰るのだ。
  非日常的な空間から、日常の空間へ。
  見知った人たちのいる場所へ、いつもの景色の中へと帰るのだ。
  繋いでいた手を無意識のうちに獄寺は強く握りしめていた。
  獄寺の気持ちに応えるかのように、綱吉もきつく握り返してくる。
「──家に帰ろう、獄寺君」
  日の暮れた海岸から離れたところで、綱吉の声がはっきりと獄寺の耳に響いた。



  日焼けの肌がヒリヒリとしている。鼻の頭だけ皮がめくれて、恥ずかしいことこの上ない。
  人気のない放課後、学校のトイレで獄寺は鏡を覗き込み、顔をしかめる。
  海から戻って以来、綱吉は大人びた表情をするようになった。
  いいや、そうではない。
  二人とも、少しだけ成長したのだ。
  大人びた表情なら、獄寺だってするようになった。
  鏡の中には、綱吉と出会った頃よりも大人の顔をした自分がいる。
  薄い緑色の瞳が真っ直ぐに、鏡越しに自分を見つめ返してくるのが気に入らなくて、獄寺は毎日、言いようのない苛々とした気持ちを持て余している。
  それでも綱吉に呼ばれれば嬉しくて、頼られれば幸せでならないのだが。
  しばらくそうやってじっと鏡を睨みつけていると、綱吉の声が聞こえてきた。獄寺を捜しているようだ。
「獄寺君?」
  ひょい、とドアの向こうから綱吉が覗き込んでくる。
  獄寺は振り返り、綱吉に愛想のよい笑みを向けた。
「すんません、十代目。すぐに行きます」
  そう言って、獄寺は鏡の中の自分をもうひと睨みしてからその場を離れる。
  日焼けの後がヒリヒリしている。
  不快感を押し隠すように、獄寺は作り笑いを浮かべた。
  海へ行ったあの日から、綱吉が言いたかった言葉を獄寺は捜している。追い求めている。
  綱吉はいったいあの時、なにが言いたかったのだろうか。
  獄寺に、なにを言うつもりだったのだろうか。
  廊下に出ると、校舎の中はシンと静まり返っていた。校庭のほうから聞こえてくる運動部の部員たちの声が、微かなこだまとなって廊下に響いている。
  獄寺は大股に歩いて綱吉の側に寄っていく。
  廊下の片隅に立ち止まった綱吉は、手を差し出し、獄寺を見上げた。
「ずっと……一緒にいてくれる?」
  そうか、と、不意に獄寺は思った。
  海で綱吉が言いかけた言葉は、この言葉だったのではないだろうか、と。
  差し出された手を取った獄寺は、綱吉の顔を覗き込んで微笑んだ。
「もちろんです、十代目」



END
(2011.5.9)



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