甘い甘い百合の香りに引き寄せられるようにして、獄寺は森の中を歩いていく。
自然と足取りが速くなるのは、この先に綱吉がいるからだ。
たった一人きりで、あの人が自分の帰りを待っているのだと思うと、獄寺の胸はキリキリと痛んだ。
何故、一人にしてしまったのだろうと獄寺は思う。
あの時、どうして自分は綱吉の側にいなかったのだろう。
任務だからとは言え、どうしてあの人を一人置いて、出かけてしまったのだろう。
後悔しても後悔しきれない想いが、胸の中でグルグルと渦巻いている。
「どうして、自分は……!」
言葉にならない気持ちが、胸の中で燻っている。
吐き出すべき気持ちを持っていく先はどこにもなく、モヤモヤとした様々な思いを抱え込んだまま、綱吉の存在をそこここに探すしかない。
あの人はもう、いないのに。
自分一人を残して、さっさと彼は行ってしまった。
どうして、と、思わずにはいられない。
そんなにも自分は頼りなかったのか、相談するに値しなかったのか、と。右腕として彼は、自分のことを認めてくれていたのではないか。だからこそ側に置いてくれていたのではないのだろうか? 違うのか?
口を開くと、呻き声にも似た惨めたらしい声が洩れた。
それが、自分が泣いているからだとはすぐには獄寺は気づかなかった。
任務で少し日本を離れている間に綱吉は、命を落としてしまった。その時、自分はいったいなにをしていたのだろうか。地球の裏側からでも、ボスの大事には駆けつけるのが右腕ではないのだろうか。
「十代目……」
惨めな、惨めな自分の声が、みっともなくあたりに響いた。
森の中は静かで、いつもとかわることなく穏やかで。
そして、平和だった。
「任務ですか?」
何故、この時期に? と、そう尋ねたいのを押し殺して、獄寺は綱吉の顔を覗き込んだ。 「うん、そうだ。獄寺君にしか頼めないことなんだ」
綱吉の言葉に、微かな疑問を感じながらも獄寺は首を縦に振った。
ここ何年かで台頭してきたミルフィオーレとの抗争が激しさを増している今、ボスである綱吉の側を守護者が離れる必要があるのだろうか?
自分でなければならない必要を、獄寺は特に感じなかった。綱吉からの親書を、イタリアの同盟ファミリーに届けるのが自分である必要はない。現状を見ると誰が出向いても問題のなさそうな案件だというのに、綱吉は強く自分を推してくる。そこになにかあるのだろうということは薄々感じてはいたが、余計な詮索はしなかった。綱吉のすることに間違いはないはずだ。
部下たちの手前、獄寺は黙って任務を引き受けた。
綱吉は酷く神妙な顔をして、獄寺に「頼んだよ」と声をかけた。
だから、獄寺は頷くしか他なかったのだ。
疑ってはならない。躊躇ってはならない。綱吉のために、自分は右腕としてしなければならないことをするだけだ。
ただ綱吉の望みを叶えるためだけに、自分は任務を引き受ける。そのやり方がまずいことは理解している。だが、今回は……今回だけは、最初に感じた違和感を拭うことができないから、そうするしかない。
すべては、綱吉のために──
その夜、獄寺は綱吉の部屋に呼ばれた。
夜着を着込んだ綱吉は風呂上がりらしく、微かに石鹸のにおいをさせている。
部屋に招き入れられた獄寺は、ドアのところで綱吉とすれ違った瞬間、ほんのりと香る清楚なにおいに体温が上昇するのを感じた。
同じ男だというのに、不思議なぐらい自分は、綱吉に惹かれている。
想いを遂げたのはもう随分と昔のことだが、あの日よりももっとずっと、綱吉のことを好きになっているような気がする。
なによりも愛しいと、思う。
こんなふうに恋慕の情を抱くことさえ憚られるような相手だということはわかっているが、それでも、自分の想いを抑えきれない。もうずっと何年もの間、獄寺はそんな葛藤のようなものを胸に秘めている。
「十代目……」
手を伸ばして自分よりも華奢な体を抱きしめると、腕の中で綱吉はピクリと震えた。
「ダメ……ですか?」
明日の朝早くに、獄寺は任務で日本を発つ。イタリアへ行って、親書を渡して帰ってくるだけの簡単な任務だ。それだけの任務とは言え、同盟ファミリーはいくつもある。おそらく向こうでは一週間ほどの滞在が必要となってくるだろう。と、なれば、日本を発つ前に綱吉を抱きたいと思うのは間違っているだろうか?
「……獄寺君の、好きにしていいよ」
綱吉の額が、獄寺の肩口にすり寄せられる。
シャツ越しに感じる綱吉の吐息の甘さに、獄寺はこっそりと息を吐いた。
着ているものを脱ぎ捨てて、ベッドの上で縺れ合った。
自分よりも小柄な体を組み敷くことには常に抵抗があったが、綱吉は最初から嫌がらなかった。それどころか、彼は喜んで獄寺を迎え入れてくれる。
抱きしめて、足を開いて、獄寺の望むように抱かれようとする。
健気だと、獄寺は思う。綱吉のこの健気なところは、普通のマフィアには似つかわしくない。だからこそ自分は、この人に一生ついていこうと決めたのだとも思う。
ずっと、大切にしてきた。
必要ないとは理解していても、彼が壊れてしまわないように、傷つかないように、側について守ってきたつもりだ。
この人が女だったら、きっと自分は体を張ってでも守ろうとしただろう。だが、綱吉は男だ。女とはまた異なるやり方で自分は、彼を守ってきた。彼の男としてのプライドを尊重しつつ、自分にできることをしてきたのだ。
そしてまた、自分も男なのだと獄寺は思う。
男同士だからこその葛藤があった。好きになってもいいものかどうか、自分に何度も問うてみた。それでも尚、綱吉のことが好きだった。好きで好きでたまらなかった。
だから今、こんなふうに彼と抱き合い、甘い言葉を囁き合うことができるようになったことを獄寺は密かに喜んでいる。嬉しくてたまらない。
好きな人とこんなふうにして想いを交わし合えることが、幸せでならない。
キスをすると、綱吉の手がするりと獄寺の頬の輪郭をなぞり、くちづけられる。滑らかな綱吉の舌先が誘うように獄寺の唇をねぶる。そんなふうにされるだけで獄寺の下肢は熱くなる。
歯磨き粉のミントのにおいがしている口元に、チュ、と音を立てて獄寺はキスをした。
薄暗い照明の下で、綱吉は笑みを浮かべている。
自分との行為を、綱吉は決して嫌がってはいない。
むしろ綱吉が自ら進んで足を開いてくれるのは、獄寺と抱き合うことが気持ちいいことだと知っているからではないだろうか。
「獄寺君……」
囁き声はわずかに掠れている。
「しばらく会えないから……ちゃんと、挿れて?」
甘えるように綱吉の足が、獄寺の腰に絡まる。ぐい、と先走りに濡れた股間を押しつけられ、獄寺は小さく息を飲んだ。
自分は綱吉に愛されていると、感じることができる瞬間だった。
森の中を歩く獄寺の足取りは、次第にゆっくりとしたものになっていった。
怖かった。
この先に綱吉が一人きりで、自分が来るのを待っているのだと思うと、怖くて怖くてたまらなかった。
綱吉は一人、むせ返るような甘い甘い百合の花が詰められた棺桶の中で眠っているはずだ。
ミルフィオーレの銃弾に倒れた綱吉の体がおさめられた、暗くて狭い棺桶の中で。
ああ……と、獄寺は小さく呻いた。
銃弾に倒れた綱吉は、怖くはなかっただろうか? すぐ側に獄寺のいないことを残念に思っただろうか? それとももっと他に、なにか別のことを思っただろうか?
あなたがいなければ、この世界に意味なんてない。あなたのいない世界で自分は、いったいどうして生きていけばいいのだろうか。獄寺はギリ、と唇を噛み締めた。
綱吉のいない世界など、色のない世界のようなものだ。
なにもかもが色褪せて味気のないものになってしまうはずだ。
そんな世界で自分はこれから、綱吉のいない人生を送らなければならないのだろうか。
「十代目……」
呟き、それから獄寺は再び歩き出す。決意をこめて。
この目で確かめなければならないと獄寺は思った。
綱吉の死を、確かめるのだ。
あの人になにかあったなら、自分は生きてはいられないと思っていた。今もそう思っている。自分がこうして生きているのだから、綱吉だって、本当は……と、思わずにいられない。その考えに、縋らずにはいられない。
だから行くのだ、自分は。
綱吉の死を、確かめに──
END
(2011.6.16)
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